その石は死なない
目前に雑木林が広がっている。手入れされていない鬱蒼とした木々が乱立するそれは、なんとも陰気な気分になる風景だ。
深すぎる緑と灰色のコンクリート壁に挟まれたこの校舎裏には、陽の高い時間帯、例えば昼休みであっても影が垂れ込んでしっとりと薄暗い。
そんな場所だから人通りなんてほとんど無い。が、無いということはむしろあるということ。人に見られたくない行為に勤しむ目的で、特定の人間達がやってくる。
例えば、
「金貸してくんねぇ?」
覆い被さるような熱烈な壁ドンをくらう。
接近してくる整った顔立ち。獰猛そうな口もと。
止まらない動悸と、眼前に広がるイケメンの顔。もし僕が女であれば少しは思うところがあったかもしれない。
だが、僕は男だ。安心すべきか残念がるべきか。
「さっさとしろや」
容赦なく腹パンを食らう。無様に地面へと倒れ込んだ。
「ぐっ……」
痛い。悔しい。けれどそんな心を殺す。
死んだまま笑う。
「あ、あはは……」
俺は愛想笑いとともに千円札3枚を差し出した。
こうするのが一番、効率的だ。
「ったく早く出せよ、グズ」
舌打ちとともに遠ざかる足音。脅威は去った。
よかったよかった。これでいい。
面倒だから金を払ったのだ。
身の安全を三千円で買ったに過ぎない。妥当な金額だ。
何度も自分に言い聞かせる。
これでいい。逆らったところで勝ち目はない。
これでいい。無駄な反抗は非効率でバカらしい。
これでいいんだ。
表情を平坦に取り繕って上体を起こす。
「ぐっ」
殴られた腹が不意に痛んだ。
うつむいた視線の先、土に塗れた身体が映り込む。
ああ、みすぼらしい。
そう思ってしまったら、もう駄目だった。
じわりと涙腺が緩んで喉から勝手に嗚咽が出ていこうとする。
当然だが、これでいいわけがない。
痛みが現実を知らしめてきて、それでも泣くまいと歯を食いしばる。
泣くのだけは絶対に嫌だった。これまでずっと、その一線だけは超えなかった。超えてはいけない気がしていた。
もう立ち上がれなくなる、そんな予感があったからだ。
だけど、もうだめかもしれない。
押し留めようとすればするほど惨めな気持ちが膨らんでゆく。そもそもこんな小さな意地が何になるっていうんだ。どうせこの先も死んだような愛想笑いであやふやにするくせに。人の金を盗るような低脳野郎は論外だけれど、
それに反抗できない意気地無しな自分も心底嫌いだった。
地面に蹲る。
みすぼらしく俯いたまま、ひとりで身を震わせる。じわりと視界が滲んで鼻の奥が熱くなって。堪えようとしても、どうにもならなかった。じわりじわりと溜まった涙がついには大きく揺れ始め、瞳の中から今にも零れ落ちそうになって、そして
ーーカコン。
唐突に聞き慣れない音が響き渡った。
泣く寸前の、情けない顔を上げて前を見る。
そこは清廉とした和室だった。
澄んだ空気に満ちた十畳ほどの空間。室内には神秘的な雲霞が棚引いている。調度品はほとんど何も置かれていない。
精々が正面の壁に設えられた床の間と、そこに飾られた白紙の掛け軸くらいだ。
ただ部屋の左手にある縁側、その先には目を引くものが広がっていた。
枯山水だ。
波打つような砂利と苔生した大岩が並び、立派な竹林がそれらを囲っている。そのさらに向こう側は、生い茂る竹に遮られて見通すことができない。
なんだか里山の奥にひっそりと湧く古池を連想させられる。
その趣深い庭園の片隅には鹿威し設置されていた。不思議なことに水もないのに独りでに傾いてゆく。やがて傾きは限度を超えて勢いよく揺れ戻され、
カコン。
乾いた音が響いた。
さっきの音の正体はこれだったのだろう。しかしどういう仕組みで動いているのか……というかここはどこなんだ。
ジャラリ。
不意に室内から音が響く。慌てて室内に向き直ると、人がいた。驚きのあまり息を飲む。さっきまでは誰もいなかったはずなのに。
その謎の男は和装に身を包んでいた。浅葱色の座椅子に腰掛けて瞑目している。右手は白石の入った碁笥にかけられており、彼の前には八寸はありそうな分厚い碁盤があった。
「ん?」
ふと、違和感が過ぎる。
碁笥。たしかに碁石を入れる容器をそう呼ぶ。それは間違いない。八寸。碁盤の厚さは寸、あるいは号で表す。それも間違いない。
間違っているのは俺自身だった。
これまでの人生でそんな知識を得た覚えがない。なのに知っている。これまで囲碁を打った経験どころかルールも禄に把握していないはずなのに。それなのにどうして囲碁用品のことを知っているんだ。いや、ルールも思い出せる。定石も知っている。なんだ。どうなっているんだ。
混乱する俺の方へ、すっと和装の男が面を上げる。その顔をうまく認識できなかった。目も鼻も口もある。朗らかそうな表情も見えている。それなのに全体の顔が俺の頭に残らない。
こいつは果たして人間なのだろうか。ぞわりと鳥肌が浮き立つ。一体何が起きているというのか。
ジャラリ。
また音が響く。碁石同士がぶつかり合う音だ。
気が付くとその男は握り込んだ拳を碁盤の上に伏せていた。
先手後手を決める「ニギリ」だ。手の中の白石が奇数か偶数かを対戦相手が予想して、その正誤で手番を決めるのだ。
「一局、どうですか」
優しげな言葉が脳内にスルリと入ってくる。
あったはずの警戒心や不安が薄く延ばされ曖昧になる。なんだこれ気持ち悪いっ。抵抗しようとした意識も一瞬で有耶無耶になる。そして気が付いた。
ーーあぁ、そうだ。囲碁を打つんだった。
碁盤の前へと足が自然に動いてゆく。
この場所の違和感も不良にやられた屈辱も忘れていない。
ただ、それとこれとは別の話だ。
そんなことは囲碁を打たない理由にならない。
勢い込んで座椅子に腰を下ろすと、手元の碁笥から黒石を一つだけ掴んで碁盤に打ち付けた。
これで俺は奇数を選択したことになる。もし黒石二つを盤上に置けば偶数だ。
はたして和装の男が手を開くと、七つの白石が零れ落ちた。
奇数。俺が先手番だ。囲碁は比較的に先手が有利になる。公平を期すためにコミというルールが設けられているが、それでもプロの公式戦では総じて先手番のほうが勝率が高い。
だというのに後手を引いた和装の男から薄く微笑むような雰囲気が伝わってくる。訝しむ俺に、彼は言った。
「あぁ、すみません。囲碁を打てるのが嬉しくて」
なるほどそれは理解できる。
俺も楽しみで仕方がない。そんな思いを乗せて盤の右上隅、星と呼ばれる位置へ初手を打ち込んだ。
囲碁というのは平たく言えば陣地取りゲームだ。
十九本 ✕ 十九本の線が引かれた盤上に石を配置して、己の陣地を築き上げてゆく。自分と相手が交互に打つため、当然ながら手数は同じ。つまり相手よりも効率的に陣地を囲う一手を放ち続けた人間が勝利する。
そうして囲った陣地の広さ(「目」という単位で表す)を競うのだが、ここでコミというルールによって、後手には開始の段階で六目半(6.5目)を与えられる。後手の不利を埋めるためだ。
このようなルールのため、将棋やチェスのように「王が取られたら負け」という明確さはなく、しかも盤上のどこに石を置いても良いため、取れる選択肢がとんでもなく多い。
序盤、俺は二つの星とその中間地点の三ケ所に石を置く「三連星」の布石を選択。盤上の外縁側に小さな陣地を築かれながらも、中央を大きく囲うような形で黒石を展開させてゆく。
中盤に差し掛かる頃には、陣地として確定はしていないまでも、和装の男が白石を打ち込んで来てもおよそ俺に有利な戦いが見込めるフィールドに仕上がっていた。
いわゆる「模様」というやつだ。
盤のど真ん中に巨城を作り上げるため、多数動員された俺の黒石たち。四方にある白石の拠点に睨みを効かせながら柵を打ち立て壁を築き、少しずつだが着実に築城を進めてゆく。
「ふむ、やりますね」
ここで和装の男が手を止め、長考に入った。
四辺に領地を作って満足していたのだろうが、それは俺に作らされていたに過ぎない。せっせと小さな城を作っている傍らで、俺は壮大なプロジェクトを進行させていたわけだ。
今更気が付いても手遅れ。俺の勝勢は揺るぎない。
ようやく始まった白石たちの必死な妨害を、俺が丹念に作り上げた黒有利の戦場で蹴散らしてゆく。
白の兵が領地の境界に押し寄せるが、それらを黒の兵たちは難なく押し返す。
白の劣勢は明らかだ。それでも気にしていない素振りで誤魔化しながら、和装の男は繰り返し何度も中央へと挙兵する。
苛立ちが俺の胸をくすぐる。どうして諦めない。
上下左右に配された陣地から突っ込んでくる白の兵士たち。それを準備万端の黒勢力がトーチカや塹壕を用いて迎え撃つ。
もはや負ける要素がない。勝ち戦だ。敵を気持ちよく殴る作業が続く。
それでも白は諦めない。
突撃に次ぐ突撃。黒勢力からボッコボコにされながら、それでも諦めずにほんの小さな戦果をもぎ取ってゆく。
なんなんだよ。なんで諦めないんだよ。
我武者羅に領地を削らんと決死の猛攻が押し寄せ、塵芥のごとく吹き飛ばされながらも一つ二つと陣地を削ってくる。
それでも俺の優位性は揺るがない。ほとんど無駄なあがきに等しい行為だった。時間の無駄である。
明らかな敗勢なんだから、さっさと負けを認めろよ。
そう思いつつ目線を上げ、ちらと和装の男を覗き見る。
困ったような弱々しい表情のなか、その瞳だけは輝きを失っていなかった。
「っ……!」
この酷い盤面を前にして、こいつはまだ足掻く気だ。まるでいつもの俺を、へらへら笑って誤魔化しながらも諦めきれない半端な俺を見せ付けられたようで、目の前がカッと赤くなる。
ふざけんな。抵抗しても無駄なものは無駄なんだよ。
中盤も終わって終盤に差し掛かる。いくらか模様を削られたが、それでも充分すぎるほどの領域を守りきった。
これで黒と白、互いの陣地はほぼ決まり。あとは領地と領地の間に残された、あやふやな部分をきっちり決めていく作業だけ。
いわゆる「ヨセ」というやつだ。
この作業の正確さで、互いの陣地がいくらか増減する。
とはいえ和装の男と俺とでは、囲っていると思しき陣地の差が三十目近くはある。目というのは陣地の単位だ。三十も差があればここからの逆転なんて殆ど不可能。
俺の口元が半端に歪む。
ほら見ろ、無駄な抵抗でしかなかった。
きっとここで投了するだろう。そう思って視線を上げる。
「っ!」
そこにあったのは、あの瞳だった。
こいつはまだ微塵も諦めていない。
「くっ……」
黒石を強く握りしめる。
そんな意地を張ったところで意味なんてないんだよ。
きっちりヨセて、それを証明してやる。
息が乱れる。くらくらと視界が揺れるような錯覚。
碁石を持つ指先が今にも震えそうだ。
「そんなバカな……」
終局した盤面を見て愕然とする。
およそ三十目あったはずの差が、たったの六目差にまで縮んでしまっていた。
俺のほうが六目多い。だが俺は先手で和装の男は後手。
後手はコミによって六目半が与えられる。
つまりぎりぎり半目差で、俺の負けだった。
「くっ……」
途中までは良かったんだ。それなのにあんな泥臭い手で無理やり粘ってきやがって……。
歯噛みする俺の正面で、和装の男は折り目正しく頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
囲碁は礼節を重んじる。どれだけ悔しかろうが、忸怩たる思いだろうが、終局後の挨拶は絶対だ。
とはいえこの盤面をこれ以上、見せ付けられるのはゴメンだ。さっさと片付けてしまおうと碁石を集め始めた俺に、和装の男が声をかけてきた。
「ひとつだけよろしいですか」
なんだ。ヨセの手順について、ご高説でも垂れる気か。
「……どうぞ」
「囲碁には明確な終わりがありません」
なんの話だろうか。苛立ちながらも目線で続きを促した。
「石を打つ隙間がなくなるまでは諦めずに打ち続けることができます」
対戦相手にとってはかなり迷惑だが、まあ可能だ。
だからなんだという話だが。
「まあそれは極論だとしても、実質的にはどちらかが諦めるまで終わらない。そんな意地と意地のぶつかり合う泥臭さが、執念の強さを問われるその瞬間が、私は好きなんです」
「……」
「負けを認めなければ、まだ終わりではありません」
「……何が言いたいんだよ」
「あなたなら、まだまだ抗い続けられるはずです」
「っ」
「勝つまで抗える筈です」
我慢の限界だった。
「っ! 他人の中に土足で!!」
「他人ではありませんよ」
その言葉に動きが止まる。
さっきまで認識出来なかった男の顔。
それは間違いなく俺の顔だった。
目の前の俺が、俺へと手を伸ばす。
「いつか、きっと勝てるはずです」
手が重なり合う。触れた皮膚を通して囲碁の記憶が吸い出され、熱い何かが俺のほうへと流れ込む。
「利子をつけてお返しします。さあ、時間ですよ」
気が付くと男の顔は、また認識出来なくなっていた。
「あんたは一体……」
「ただ囲碁が好きなだけの存在ですよ」
視界がゆらぎ、意識が薄れて、そして。
「!?」
気が付くと校舎裏で四つん這いになって俯いていた。
何だったろうか。さっきまでとんでもない体験をしていたような気がする。けれど思い出せない。
確かにあるのはカツアゲされた事実と遠ざかる不良の背中、そして心にへばりついた悔しさだけ。
ヘドロみたいに気色悪いそれが、いつも俺に曖昧な笑みを浮かべさせるそれが、ぼこぼこ沸騰して煙となって消えてゆく。
心に燃え盛る、不退転の意地が背中を押す。
俺は走り出していた。
身を焦がす感情のまま、不良の後頭部を殴り付ける。
「ぐおっ!?」
「痛ってぇ!?」
手が痛い! 頭蓋骨硬すぎ!!
「てめぇ……ブッ殺す!!」
即座に帰ってきた回し蹴りにふっ飛ばされる。
地面を転がり、すぐに立ち上がって懲りずに突っ込んでいく。
「なに粋がってんだコラ!!」
腹に突き刺さる拳。たまらず溢れる涙。それでも構わず右手を振り抜く。
「いてっ!? おまっ、引っ掻きとかマジか」
ダサいのは百も承知だ。なり振りも勝ち方も気にしない。
泥臭くていい。どんな形でもいい。たとえボコボコにされて両腕が折れ曲がっても、蹴って頭突いて噛み付いてやる。
滅茶苦茶でもなんでもいい。
こんな奴に、負けだけは認めてやらない。
「てめぇウゼえんだよ!」
不良に殴り倒されながら、それでも不思議と口角が上がる。爽快だ。もっと苛立て。もっとムカつけ。
盤面が真っ黒になるまで、嫌でも付き合わせてやるから覚悟しろ。