オーヴァールック
12
練習が終わる頃にはすっかり日も傾いていた。
「あー、疲れた。今日はいつになく歌ったなあ」
颯の家を出て、門の前で伸びをする夏音。
「お前無理しすぎじゃないか? ボーカルの喉が使いものにならなくなったらオレ達だって困るんだからな」
新がそんな夏音の背中に呼びかけると、彼女は振り返って一言、
「言っておくけど、君が悪いんだよ。最初あんなこと言ってたのに、結局一番熱中して全員に駄目出ししていたのはどこの誰だっけ?」
にこ、と元気の良い笑みを見せる。
「それは……悪かったけどさ」
「いや、俺達も悪かった。確かにお前の言う通り、あまりにも新に『赤瀬新』を求めすぎていた。記憶を失くしてまだ気持ちに整理もついてないだろうに」
「僕からも謝ります。すみませんでした」
信吾と颯が律儀に頭を下げる。
「や、やめてくれよ……あ、そういえば」
気まずくなって他の話題を探そうとしたところで、新は一つ訊き忘れていたことを思い出す。
「このバンドってユニット名みたいなものはあるのか?」
それを受けて、顔を上げた信吾は何やらにやついた表情だ。
「よくぞ聞いてくれた。もちろんあるぞ」
「信吾君が命名したんですよ。どうやら本人はすごく気に入っているみたいで、誰かにそれを訊かれる度にこうして嬉しそうに」
「何だよ、お前は気に入ってないって言うのか」
「いえ、誰もそんなことは」
「私も好きだよ、ユニット名」
「で、何て言うんだ?」
信吾は確かに嬉しそうに、まるで武勇伝でも語るかの如く、
「『オーヴァールック』だ」
と放った。
「オーヴァールック……確か意味は『見落とす』。でも何でその単語にしたんだ?」
「ふふふ、意味は――」
「私達は日々大切な何かを見落とし続けながら生きている。その見落とした何かに気付いてもらえるような、そんな目の覚めるようなロックを届けたい。そんな意味だよ」
「ちょっと夏音、どうしてそんな一番美味しいところを――」
「ようするにあれです。子供が新しく知った単語をとにかく使ってみたい、そんなノリで名付けられたんですよ。だから一日ずれていたらもっと違った名前になっていたかもしれません」
「おい、颯」
「へえ、そうなのか……あれ、でも確かそれ受験英語じゃ……」
「新までそんな目で見ないでくれ……自信満々に言っていたのが馬鹿みたいじゃねえか」
すっかり元気を喪失して肩を落とす信吾。
「信吾君、あまりこういうこと言いたくはありませんが――事実、君は頭が人より少しばかり弱い」
「てめえ覚悟はいいな?」
「あ、あれ? 元気を失くしたんじゃ無かったんですか? その振り上げた拳はどこへ――ってちょっと新君、夏音さん!? どうしてすでに門の外に!? 助けてください!! ねえってば!! あ、信吾君駄目……駄目ですって――!!」
夕暮れに染まる夏の住宅街に近所迷惑な悲鳴が響き渡った。
13
新の住むマンションに到着した時、すでに日も没して夜が訪れていた。
「悪いな、夏音。買い物にまで付き合ってもらっちゃって」
「だから良いって。私も誘ってもらって嬉しかったし」
「嬉しいって……別に食べ物を買い足しにスーパーに行っただけなんだけどな」
特に楽しいことも無かったはずなのだが、夏音は妙に嬉しそうだった。
「じゃあ私はこれで。また明日ね」
「あ、ちょっと待ってくれ」
新は頭上に疑問符を浮かべる夏音を残して一度部屋に戻り、買った食糧の入ったビニール袋や財布等を玄関に置いて再び夏音の前に戻る。
「家まで送っていくよ」
「えっ、だからいいって! 昨日私が言ったこと忘れちゃった? 両親に見つかったりしたら――」
「その時はその時だ。どうにもならなくなったら正直に事情も説明する。オレは、夏音を家まで送りたいんだ」
「な、何でそこまでして私を?」
少し怖いよ、なんて言う夏音に対し新は熱意のこもった目で、
「きっと『赤瀬新』ならそうするだろ?」
そう答えた。
『新はね、行動力があって優しい人だよ』
『一度「これ」と決めたら最後までやり遂げようとする努力を怠らないし、何よりもまず仲間や周りの人達のことを考えて行動するの。私も信吾も颯もそんな新の人となりに惹かれて、こうして集まったんだよ』
行動力があって優しい。それが『赤瀬新』の人柄だと言うのなら、従ってやる。
「……いいの? それこそ練習前にあんなこと言わせちゃったのに」
「だからこそ、だよ。オレは『赤瀬新』じゃない。だから『赤瀬新』を超えてやろうと思って。二度とお前や信吾達に『新だったら――』なんてことは言わせない」
『赤瀬新』を超える為に、まずは同じ地点に立つ。
『赤瀬新』に成る。
つまるところ、今朝までとやろうとしていることに大した差異は無い。
それでも、彼の中に明確な変化があった。
「だから、送らせてくれ」
「……分かったよ。そこまで言うなら仕方ない、送らせてあげる」
「ありがとう」
昨日本人が言っていた通り、夏音の家はマンションからそう遠くなかった。
でも、確かに『送っていく』という行動には意味があったように感じられるし、何よりこの短い道中、今日一番じゃないかというくらい夏音の顔には笑みで溢れていた。
「今日は疲れたね、私凄い汗かいちゃった」
実は夏音が化粧をしなかった理由には、バンドの練習でたくさん汗を流すだろうからというとても単純な理由があってのことだったのだが、今の新はすでにそんなことを気にしてもいなかった。
「ああ、大変だった」
「だってまさかあんな怒鳴り散らすだなんてね」
「だから悪かったって」
楽しげな笑い声が二つ。
「じゃあ、今度こそまた明日ね」
「ああ、また明日」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
家の中に入って行く夏音。
そこまで見届けてから、夏音の家に背を向けマンションに向かって歩き出す。
ここまで来ればもしかして記憶に変化があるのではないかと少しだけ期待していた新だったが、結局空振りに終わった。
だが、それ以上に夏音の嬉しそうな顔を少しでも長く見られたから別にいいかと、僅かながら思う。
もう一回だけこの目に残しておこう、なんて変な感傷に浸りながら夏音の家を一度だけ振り――
「……!!」
それは幸か不幸か。
「お前は――!!」
そこに立っていたのは――真っ黒なコートで身を包み、フードを眼深に被った人物だった。