水族館デート
5
「じゃあまずは大学に行ってみようか」
夏音の一言で、二人は歩き始めた。
どうやら本当に地元だったらしく、喫茶店からものの数分で到着。
「行ってみようか……とは言ったものの、私達は卒業しちゃってるから校舎の中には入れないんだけどね」
そう言いながらキャンパス内をずんずん進んで行く夏音。
校舎の中に入れないならキャンパス内も正確には駄目なのではと疑問に思う新だったが、ここまで誰にも咎められていないのも事実。無粋なことは言うまいと胸に留めておく。
どうやら世間的に今日は平日のようで、二人の周りにもちらほらと学生らしき人影が見えた。
「一応ここで信吾や颯とも出会ったんだけど……どう? 何か思い出せそう?」
「うーん、特にこれと言っては……」
「……そっか」
がくりと肩を落とす様子の夏音。
「今の私達が入れる場所と言ったら学食くらいだけど、さっき朝ごはん食べたばっかりだからねえ」
「喫茶店行かずにここで食べた方が色々効率的だったんじゃ――」
財布事情的にも学食はとても親切な値段設定だと新は思うのだが、
「良いじゃん。何よりもまずはあそこのモーニングを食べて欲しかったんだもん。それにまだ学食開いてないし」
「年甲斐も無く頬を膨らませていじけられてもなあ」
対応に困る。
「とりあえずここに長居しても進展無さそうだし次行くか」
仕方ないので強引に話、もとい歩を進めることにした。
――今度はバスに十数分揺られ、辿り着いたのはとある高校。
「あれ、地元に夏音が通っていた高校があるって話は聞いていたが――」
「そう、私達は高校からの長い付き合いだったんだよ」
校舎の前で両手を広げる夏音。
「新の実家はここからまた少し行ったところなんだけどね。丁度成績も肩を並べていたし、私が思い切って同じ大学行こうって誘ったんだ」
「そうだったのか」
ちら、と隣で懐かしむように校舎を仰ぐ夏音を盗み見る新。
この女性は高校の時から、つまり十年近く一緒に居るのか。腐れ縁、と言うやつだろうか。
そんな存在さえも自分は忘れてしまった。
今から考えてもどうしようもないことだとは分かっているが、それでも新は自分の胸の内に問いかける。
なあ『赤瀬新』。お前は一体どういう奴だったんだ。
答えは返ってこない。
「どうしたの?」
はっと我に返ると、校舎を見ていたはずの夏音が新に視線を投げかけている。
盗み見ていたはずが、いつの間にか見つめ合っていた。
「な、何でもない。ちょっと他ごとを考えていて」
思わず顔を背けてしまう新。
「私を見つめて何を考えてたって言うの……?」
とあらぬ誤解を生み始めているが、訂正するのも何だかみっともない気がして新はそのまま沈黙を貫くことにした。
「ここに至ってはこうして外観を眺めるしかないけど……やっぱり駄目だよね?」
「ああ、何も思い出せない。ごめん」
「君が謝ることないよ。でも、実は私もこれで弾切れでね。学校くらいしか心当たりが無いんだ」
「どこか一緒に遊びに行ったりしたことはないのか?」
遊園地やカラオケ、映画館。それこそ想い出になるような場所はまだある気がするのだが、
「えっ、遊びに!? 二人で!?」
と、夏音の口から出てきたのは動揺だった。
「いや別に二人じゃなくても、友達グループとか集団でどこか行ったこととかないのかと思って」
「あ、ああ。グループでね。びっくりしたあ」
「そんなことでびっくりされることにびっくりだよ」
何か今日は変な反応をされることが多い。それとも『赤瀬新』にとってはこれが日常だったのだろうか。
それでもまあ、一緒に居て退屈はしないかな。なんて思う新。
――しかし、それでもこうして共に校舎を眺めているこの状況に違和感を覚える。胸の奥に何かが引っかかってしまったような、この不快感。自分はここに居るべきではない、ほかにやるべきことがあるはずだと頭の中で誰かが語りかけてくるような感覚。
やはり、彼女の隣に立つべきは自分では無く『赤瀬新』だということなのだろうか。
その気づいてしまった事実に、心を蝕まれる感覚に陥る。
「うーん。それこそ大学に上がってからは信吾や颯を混ぜて四人で行動することは多かったけど」
そんな新の心中を察せられる訳もなく、何にも気づかないまま夏音は言葉を続ける。
「まあどこかに遊びに行くってメンツでも無さそうだもんな」
新も違和感を抱えたまま、夏音の話に合わせた。
遊びに行くようなメンツではないという点では特に颯。彼と趣味が合う気なんてしないし正直合って欲しくない。
「高校の時は?」
「それが……高校の時はクラスこそ三年間ずっと一緒だったけど全然話す機会が無くて。私と違って新は成績とか気にする人じゃなかったみたいだったから、もしかしたら私の存在すら知らなかったかもしれないくらいで」
「お前よくそれで同じ大学誘おうと思ったな」
「いや、ほら! あれだよ、大学行って知り合いが居なかったら心細いじゃん! そういう類のあれであって、別に深い意味とか無かったから!」
「いや別に、オレだって何か意味があるなんて思ってなかったし、そんなもんだろ?」
あたふたするようなこと言っただろうか。
やはり夏音の考えていることはよく分からない。
「そ、そうだよね。そんなものそんなもの……」
「でもその当時は知り合いですら無かったんだろ? それって結局同じ大学に進んだところで大して変わらないんじゃ」
「うっ」
痛いところを突かれたような反応をする夏音。
頭上には常に疑問符が浮いていた新だったが、こうして夏音が慌てている様を見ているのも悪くないと心のどこかで思い始めていた。
「でもまだ一日は始まったばかりだぞ。これで弾切れって……今からどうするんだ?」
朝七時集合の目的はまさか喫茶店のモーニングを食べさせる為だけ、なんて訳ではあるまい。
すると、
「ふっふっふ」
と夏音が不敵な笑みを浮かべた。
わざとらしい。
「よくぞ聞いてくれました、ここまでは単なる前座に過ぎないのです!」
「前座?」
「そう、言ってしまえばここからが本題。想い出が無いなら、作ってしまえば良いんだよ」
「想い出を……」
作る。
「でも、具体的にはどうやって」
「おやおや、ここが港町であることをお忘れで?」
「港町……ああ、そういうことか」
夏音の言いたいことがようやく分かってきた。
つまり「想い出の場所巡り」とは、
「デートってことか」
「えっ!?」
6
どうやら夏音にその自覚は全くと言っていいほど無かったらしい。
移動の最中、電車の中では終始顔を真っ赤にして夏音は俯き続けていた。
「なあ、そろそろいつも通りに振舞ってくれないとオレも困るんだけど……」
「デート……私が、デート……」
ぶつぶつと小声で呟き続けている夏音。完全に自分の世界に閉じこもってしまっている。
「重症だな、これは。おい夏音」
何とか現実に引き戻そうと手を伸ばしてみるも、それが肩に軽く触れただけで、
「ひゃいっ!?」
びくっ、と全身を震わせる。
結果的に新の方に意識を向けさせることには成功したが、その瞳には涙が溜まっていた。
「あのな夏音。まだ世間の学生や社会人の方々は電車を利用する時間帯だ。見てみろ、この周囲から注がれる冷ややかな視線。いい加減現実に戻って、大人らしく大人しくしていなさい。いいな?」
「ご、ごめんなさい……」
しゅんと今度は落ち込むように俯いた。
いまいち扱いに困る新。
とりあえず大人しくはなったのだから、今はこのままにしておくかと放置するのであった。
7
「ねえねえペンギンが居るよペンギン!」
問題。今、新の目の前で目を輝かせながらはしゃいでいるのはどこの子供でしょうか。
正解――友利夏音。
「……はあ」
二人が電車で向かっていたのはこの辺りでも有名な水族館。
平日のオープン直後というのもあって客はほとんど居ない。新と夏音のほぼ貸切状態だった。
それでテンションが上がり、デートだと言われたことも新の想い出作りだということもすっかり忘れてペンギンにはしゃぐ始末。
溜息だって出る。
「何、水族館楽しくない?」
頬こそ膨らませていないが白い目で新を見る夏音。
反論しようにも迂闊にデートを思い出させるようなことを言えば先の電車の二の舞である。
ここは新が大人になる場面だった。
「いや、楽しいよ。すっごく楽しい。溜息が出るほどにな」
「何それ? まあいいや、早く次行こう」
「はいはい」
これはもはやデートというより親子で遊びに来たみたいだな、なんて思い始める新。
そんなことも露知らず「あっ、もうすぐイルカショー始まるじゃん! 行こうよ!」と言いながら夏音は人の居ない通路を駆けて行く。
「待てよ、あんまり走ると危ないぞ」
本格的に親子みたいになってきたななんて思いながら。
でも人の居ない水族館なんて、確かに非日常感があって童心をくすぐられる。
夏音と同じようにテンションが上がってくると同時に、記憶を失った今でもくすぐられる童心が在ることに、不思議な感覚を覚える新だった。
8
それからと言うもの、夏音に半ば強引にイルカショーを見せられ、レストランで早めの昼食を取る。
朝同様先に食べ終えた新は夏音の食事風景をまじまじと観察していたのだが、やはり同じ物とは思えないくらい美味しそうに食べている。シェフもさぞかし料理人冥利に尽きるというものだろう。
そんなことを思っていたら、
「ねえ」
と、当の夏音から話しかけてきた。
「どうしたんだ? まだ食べ終わってないみたいだけど」
「まだ食べ終わってないからだよ」
「え?」
次はどんな(変な)ことを言われるかと身構えた新だったが、そこへ思わぬ直球が飛び込んできた。
「その、あんまりじろじろ見ないでよ…………何か恥ずかしい……」
「あっ、ご、ごめん」
つい先ほどまで、まるで水族館に居た珍しい魚でも見ているかのように夏音を見つめていた新だったが、傍から見ればどう考えたって奇妙なのは彼の方だった。
「いや、別にいいけどさ……ちょっと食べづらくって」
どうしてそこで頬を紅潮させて目を逸らす。
夏音の純真無垢な反応を前に新の側まで恥ずかしくなってくる。
いっそ叱ってくれた方が余程気が楽というものだった。
「……こ、この後どうする? 次は『シャチの公開トレーニング』があるみたいだけど」
今の夏音を直視出来ないばかりに慌ててパンフレットを取り出してイベントスケジュールに目を走らせる新。
入り口で「一応」と貰ってきて心底良かった。内心で「グッジョブ」と親指を立てる。
過去の自分の働きを褒めることになった原因も過去の自分なのだが、起きてしまったことは変えられない。
しかし夏音から返ってきた答えはこれまた意外なもので、
「いや、食べ終わったら電車に乗って帰るよ」
と、けろっとした様子。
いつまでも恥ずかしがっている新が馬鹿みたいだった。
「あんなに楽しそうだったのに、もう飽きたのか?」
パンフレットをポケットに突っ込み、夏音に問う。
「人聞きが悪いなあ。そりゃあ私だって観たいよ、シャチの公開トレーニング。でも実はまだこれから予定が入ってるんだよ」
「そうか、頑張ってな」
家に帰る前にどこかで食糧を買い足しておかなければ。ついでに求人広告にも目を通して新しいアルバイト先の目星を付けておかないと等と考え始めていた新だったが、夏音は何を馬鹿なことをとでも言いたげな表情だった。
「君も来るの」
「え、でももう行く所も無いだろ? 弾切れだって言っていたし」
「実はあと一箇所だけ最有力候補があってね」
「それなら最初にそこに行けばいいじゃないか。もったいぶるほど自信があるのか?」
「んー、確かに自信はあるんだけど、もったいぶった訳じゃなくて色々と準備が必要だったから。それに……」
中途半端なところで口ごもり、ちらと新の顔を覗う夏音。
心なしかまた顔が赤くなっている。
「どうした?」
「……いや、何でもない。じゃあ行こうか」
デザートに注文したケーキの最後の一口をぺろりと平らげ、席を立つ。
「あ、そうだ」
大事なことを言い忘れてた。
そんなことを言い出したかと思えば、夏音は自分の口元に人差し指を当てて一言、
「今日のデートのことは、信吾や颯には内緒だよ」
9
帰りの電車も大変だった。
「……うぅ、もう駄目……消えたい……」
どうやらレストランでの一言は相当勇気を振り絞って放った一言らしく、あの直後からずっと新と目を合わせようとしてくれない。
基本手か鞄で顔を覆っている。
耳まで紅潮させているあたり、余程柄ではなかったのだろう。
「ほら、落ち着け。大丈夫か?」
平日の昼間というのもあり、電車内が空いているのが幸いだった。
どうにかここまで手を引き背を押し椅子に腰掛けさせ、丁寧に背中をさすってやる。
「やめて……優しくしないで……」
今にも泣き出しそうな震え声である。
もしかしたらもう泣いているのかも。
「ほら、頑張った。お前は十分に頑張ったから。気持ちは十分伝わったから」
「……本当?」
ようやく顔を上げて新の方を見る夏音。
顔全体が真っ赤で行きとは比較にならないくらい瞳を潤ませているが、まだ泣いていない。良かった。
「ああ、本当だ――」
新は今日一番の安堵感に包まれながら、
「――お前が電車で他の人に迷惑を掛けたことも、水族館でペンギンやイルカショーに目をきらっきらさせて小さい子供みたいにはしゃいでいたことも全部颯達に黙っといてやるから」
「うわあああああああああああん!!」
「え、どうしてここで泣きだすんだ!? 一体どこで間違った!?」
結果的に、トドメを刺しただけであった。