お帰りなさいませ、ご主人様。
1
赤瀬新の住まいは家賃五万の四階建てマンションの三階、その一室だった。
間取りは1Kで七帖の洋室。バス、トイレ別。インターネット環境も充実しシャワーも暖房便座も付いてさらにコンビニも近い。かなり恵まれた環境だと新は思った。
「ここが、これから君が生活する居城です」
わざわざ部屋の前で手を広げアピールする夏音。
信吾、颯とは病院を出てからすぐに別れ、新の部屋までの案内は夏音一人に任されていた。
彼女の家もここからそう遠くない所にあるらしい。
「そうか」
「って、反応薄い」
「あまり実感湧かなくて。そりゃあ夏音が言うんだし、実際部屋の鍵はオレの鞄から出てきてるんだから事実このマンションのこの部屋がオレの家ってことなんだろうけど……」
ここはあくまで『赤瀬新』の家であってお前のものではない。
そんなことを部屋が言う訳も無いのだが、不思議とそんな気がしてしまう。
まるで、パズルのピースはかっちり当てはまっているのに絵が完成せずちぐはぐのままのような腑に落ちない感じ。
そんな新を思ってか「あ、そうだ」と何か思いついたかのように突然夏音は新の部屋に上がり込む。
「おいおい、さっき自分で居城とか言っておきながらその主より先に何勝手な――」
「お帰りなさいませ、ご主人様」
それはあまりにも唐突で、作法も何もあったものではない。それこそちぐはぐなものだった。
だけど、
「……えへへ」
照れくさそうな笑顔は正真正銘『自分』に向けられている気がして、それだけで全てがどうでもよくなった。
「ちょっと、何か言ってよ。恥ずかしいじゃん」
「勝手にやりだして勝手に恥ずかしがられても」
「違うでしょ」
一瞬何が「違う」のか戸惑う新だったが、すぐに夏音の意図に気付く。
「……ただいま」
「お帰りなさい」
新はこの日、自分の家に帰ってきた。
2
新の為にメイド役(と言って良いのか疑問だが)を買って出た夏音だったが、まさかそのまま奉仕活動に精を出す訳も無く。
「家に送って行かなくても大丈夫か?」
「いいよ、すぐ近くだし」
手を左右に振りながら申し出を断る夏音。
「そうは言うけど……」
「新こそ、退院したばかりで疲れてるでしょ。それに一応新はうちの両親と何度か会ったことがあるんだから鉢合わせたりしたら面倒だよ?」
新は大学進学時にこちらへ引っ越し現在一人暮らしなのに対して夏音は高校も大学も地元だったらしく、現在も両親と三人で暮らしているらしい。
記憶のことが知られていないのなら確かに面倒なことになる。それにその被害を受けるのは夏音も同じなのだ。
「まあそういうことなら仕方ないな」
ここに来てもまた『赤瀬新』である。
新は少しずつ妙な息苦しさを感じ始めていた。
「うん、ありがとね。それじゃあまた明日」
「また、明日……」
玄関の扉が二人を分かつまで夏音はずっとこちらを見ながら手を振り続けてくれた。
扉が閉まり、再び訪れる孤独。
だが感傷に浸っている場合でも無い。
新は玄関に鍵を掛け、すぐさま洋間へ移動する。
今の新にはやるべきことがあった。
「えーと、パソコンは」
鞄を乱雑に投げ捨て、机の上に置いてあったノートパソコンの電源を入れる。
『ようこそ』の文字に続いて展開される複数のアイコン。
新はその中の一つをダブルクリックして検索エンジンを開き、文字を打ち込んでいく。
「あった、これだ」
検索結果の一つをクリックすると、詳細が画面全体に広がった。
――この港町で起きた『連続通り魔事件』の記事。
街行く人を無差別に襲うといったこの事件。被害者は皆金属製の工具のようなもので頭部を一撃だけ殴られており、死者は今のところ出ていない。真っ黒なコートに身を包み、そのフードを眼深に被っていた為誰一人として素顔を見ていない。性別すらも分かっていないらしい。目的も動機も不明。依然逃亡中。
その記事を読んでいき、新はあるところでスクロールする指を止めた。
「最後に被害が報告されたのは今年の二月……?」
咄嗟に画面端に表示されている日付を確認する。それは八月二日を指していた。
新が目覚めたのは昨日。入院自体もここ数日のことだと主治医から聞いている。
「つまり、ここ半年行方を眩ませていた犯人が最近になって突然現れ、再び犯行を行った……?」
いや、そうとは限らないのか。
新を襲った凶器だって工具と断定された訳ではないのだ。この通り魔とは別の人間の犯行である可能性だってある。
しかし、もし仮に、今回の事件の犯人とこの連続通り魔が同一人物だった場合、この半年間の空白は何だ。どうして今になって、また犯行を繰り返したりする。
これだけでは解せないことが多すぎる。やはり別の人間の犯行である可能性を取ったほうが現実的だろうか。
しかし、その場合新たな懸念が生じてくる。
それは「身近に犯人が潜んでいる可能性」。
夏音達を疑う形になってしまうが、犯人が別の人間だと仮定するとそれが通り魔である可能性は普通考えにくい。この街の治安が悪いなんてことは調べても出てこないし、そうそう通り魔事件なんて頻繁に起こるものでもないだろう。そう考えると残る可能性は身内の犯行に絞られる。余程恨みを買うようなことをしたのか詳しいところまでは分からないが、まさかピンポイントに記憶を狙った訳でもあるまい。記憶喪失を狙って殴打なんてあまりにも現実離れしている。完全に漫画の世界だ。
新はノートパソコンを閉じてベッドに身体を投げた。
夏音の言う通り疲れが溜まっていたのだろう、すぐに睡魔が顔を覗かせる。
現実世界から意識を引き剥がされそうになりながらも、新は思考を巡らせた。
先の通り、犯人の狙いが新の記憶ではなかった場合(むしろその公算の方が大きい)、やはり狙いは生命。根拠こそ無いが、そう考えるのが妥当だろう。
ともかく、犯人の狙いが新の生命だった場合。彼が生きていることを知れば再び襲ってくる危険がある。そうなれば今度こそ確実に仕留めに来るはずだ。そしてその場合の対抗策が現在の新には無い。
記憶を失っているのにどうして犯人の目星が付けられようか。
それこそ今の新にとっては身内ですら他人同然である。大袈裟な話、外ですれ違う人全員が容疑者なのだ。
「一体これからどうや……生きて……ば…………」
そこが限界だった。
新は落ちるように意識を遮断し、眠りについた。
3
目が覚めると、窓の外が明るかった。
「……ここ、どこだ?」
目を擦りながら立ち上がり、新は部屋を見渡す。
投げ捨てられたように床の上でその中身を吐き散らしている鞄に目を留め、やっとここが自分の部屋だということを思い出す。
駄目だ、まだ全然『赤瀬新』に成り切れていない。
――思考の中心が『赤瀬新』になり始めている現状に思わず舌打ちしたくなる新。
放り投げられたときに鞄から飛び出したのだろう。足元に転がり落ちている携帯電話を粗雑に拾い上げ時刻を確認する。
八月三日。午前六時十分。
夏音は確か朝七時に迎えに行くと言っていたはずだ。
「……シャワーでも浴びるか」
あと歯も磨かないと。
まだ若干眠たそうに欠伸を一つしながら、新はバスルームへと歩を進めた。
4
完全に出かける用意が出来る頃には、丁度時刻も七時を回ろうとしていた。
新がワイドショーでも観ようとテレビの電源を入れたところで部屋のインターホンが鳴る。
テレビの画面端に表示されている時計の時刻は六時五十五分。
入れたばかりのテレビの電源を切り、携帯電話と床に落ちていた財布をズボンのポケットに入れて新は玄関の扉を開けた。
「おはよう、ちょっと早く来ちゃった」
玄関先に佇む夏音は爽やかな青のワンピースに薄手の白い上着を着ていた。髪型も昨日までは普通に長い髪をそのままだったのに対し、今日は後ろ髪を上下に分けて上の部分のみを結んだハーフアップになっている。
「髪型変えたんだな」
「気付いた? えへへ、可愛いでしょ?」
自分の髪に手を触れながら、にこ、と笑ってみせる夏音。
あまりの眩しさに思わず目を逸らしてしまう。
「それで、どこ行くんだ? 記憶を取り戻しに行くんだろ?」
「あ、はぐらかそうとしている? まあいいや。ねえ、朝ご飯って食べた?」
「いや、まだだけど」
起きてからシャワーを浴びていたせいですっかり食べる時間が無くなってしまった。
「それじゃあ一緒に食べに行こうよ。私もまだなんだ。付いてきて、オススメの喫茶店に連れて行ってあげる」
そう言って返事も待たずにマンションの外に続く階段へ向かう夏音。慌てて新も玄関に鍵を掛けて追いかける。
髪型に気付いてもらえたことがそんなに嬉しかったのか、妙にその背中は楽しさに弾んでいるように見えた。
しかしマンションを出てから新はこの状況を全く楽しめないでいる自分に気づくことになる。
見慣れない朝の街を知らない女性と二人きりで歩くというのは、何だかとても気まずかった。
本当はこの街も、夏音もとても見知っているはずなのに、一度頭を殴られるだけでここまで変わってしまうなんて、人の記憶とはなんて脆弱なものなのだろうと一人思う。
そうしている間にも無言の時間は続いていく。
何も話題なんて無いが、何か切り出さないと間が持たないと新が口を開きかけたところで夏音の側から声が掛かった。
「着いたよ」
「へ?」
思わぬ一言につい間の抜けた声が漏れる。
携帯電話を見るとまだ出発してから二十分も経っていない。
「さ、入ろう?」
そう言って先に店内へ歩を進める夏音。
そんな彼女が朝食の場に選んだ店を新は視線を上げて眺めてみる。
その喫茶店は白を基調とした外装で、オシャレな印象を与えつつも男でも遠慮なく入れそうな、まさに『珈琲店』という感じだった。
「ほら、早く!」
夏音に急かされ店内へ入る新。
店内も外装に釣り合う洒落た印象だ。
「二名様ですね。こちらへどうぞ」
店員に案内され、窓際の席に座る二人。
「ここのモーニングはね、ドリンクを頼むと無料でトーストとゆで卵が付くんだよ。元々はこの辺にしか無かったんだけど、チェーン展開で都会の方や海外にも進出しているみたい」
「そうなんだ」
とりあえずアイスコーヒーを頼む新。夏音は『スペシャルコーヒー』なるものを注文していた。
「ところで、ここを出た後どうするんだ?」
持ってきた財布の中身を睨みながら質問する。
「んー、まずは新と縁のあった場所を色々回ってみようかと。想い出の場所巡り?」
「なるほどな……でもそんな簡単に記憶なんて戻ってくるものなのか?」
「そんなの分かんないよ。やってみないことには何も始まらないでしょ」
「まあ、そうだな」
新はテーブルに運ばれてきたアイスコーヒーを啜る。
独特のコクが効いていて砂糖やシロップを入れなくても甘みがある。これはクセになりそうだ。
夏音の目の前に置かれたスペシャルコーヒーは、コーヒーの上にどっさりと生クリームが盛られている。新が口にしている液体とは比ぶべくもなく甘そうだ。
「甘い物好きなのか」
「そりゃあ女の子ですから」
嬉しそうにスプーンで生クリーム部分を掬いながら夏音は答える。
新は一緒に運ばれてきたバスケットからトーストを取り出して口に含んだ。
パンの香ばしさが口一杯に広がる。
しばらく話題も無いまま朝食を楽しむ二人。
そんな中、新がぽつりとこんな話題を振った。
「お前って好きな人とか居るのか?」
「ぶはっ」
スペシャルコーヒーを吹き出す夏音。
「ななななにを突然!?」
「そんな変なこと訊いたか? あ、もしかして結婚してたとか。それだったら確かに変なことを――」
「してないから!! 彼氏とかもぜんっぜん居ないから!!」
ぶんぶんとコーヒーカップを持ってない方の手を振って否定する夏音。
「じゃあ好きな人は」
「好きな人は……その……」
口元を拭き、目を逸らしながら再びカップに口を付ける夏音。
新はきょとんとした顔でそれを見守る。
「だ、大体、どうしてそんなこと訊くの?」
「どうしてって……まあ思いつく話題がそれくらいだったっていうのが一番大きいけど」
「けど?」
「いや、学生時代人気あっただろうなって思って」
「……え、どうして?」
今度は夏音がきょとんとした顔で新を見つめた。
「いや、訊かれてしまうとちょっと言いづらいというか気恥ずかしいというか……とにかくそうでもなかったのならいいよ。オレの気のせいだった、ごめん」
「言いたいことはよく分からないけど、何か謝られちゃうと複雑な気分だな……」
一応許しておく。と最後に付け足してトーストの最後の一口を頬張る夏音。
自分が食した物と同じとは思えないほど美味しそうに目を細める姿は新にとってとても印象的だった。
「じゃあそろそろ行くか?」
一足先に食べ終わっていた新が様子を見て声を掛ける。
「うん、そうだね」
バッグから財布を取り出す夏音。
大人の男としてここは格好良く「奢るぜ」なんて言いたかったところだが、先ほど財布を覗いたところとてもではないがそんな金銭的余裕は無かった。さすが無職。
夏音もそれは分かっていたようで、優しい笑みで「割り勘でいいよね」と言ってくれた。
「ああ、そうしてもらえると助かる」
早いうちにアルバイトでも始めなければ、と軽く危機感に駆られる新であった。