二宮さんのながら歩き
『二宮さんのながら歩き』
「直答」から語り始めるなど、我ながら変化球でスタートしてしまったので、暴投気味に歴史を語りたい。
二宮尊徳。
こう記述すると読者氏はなんと読まれるだろうか。
一般には「にのみや・そんとく」だろう。
でも、「たかのり」が正しいらしい。「そんとく」は有識読みと言い、乱暴には音読み呼称である。
例えば、過剰な伝説が付帯した陰陽師の安倍晴明を「せいめい」と呼ぶのも、このパターンだそうで、正確には「はるあき」か「はるあきら」なのだそうだ。
「そんとく」でも「たかのり」。どっちにしても、二宮尊徳の世間的な印象はほぼ一例だろう。
何にしても『あ・の・』像の影響が大きい。あの像とは、少年が背中に薪か柴を背負いながら読書をしている、あれだ。
残念ながら、知名度が高い人物に属する尊徳なのだが、一般的にはほぼ〝そこまで〟の知名度だろう。
実は、この人物は小便小僧(実在する説が有力)と違い、少年期だけがこの偉人の功績ではない。
薪を背負った少年時代はエピソードに過ぎないのだ。
薪を背負った子供の像がアホな近代人には「歩きスマホ」を助長すると罵られてるが、実は数え年八十の長寿で農政改革などに尽力している上に、意外だろうけど、徳川『幕臣』でもある。乱暴だけど尊徳と大久保彦左衛門、そして吉良義央は同格になる。
政権が異なっているが、意外な幕臣には、宮本武蔵と戦った吉岡憲法も幕臣(当然、足利幕府)で、将軍家兵法指南役。先ほどの「直答」の身分になるので、織田信長や秀吉とも対面した可能性もあるので、ご参考までに。
吉岡憲法は足利将軍家が事実上崩壊すると、兼業だった染物を商売にするが、元職でも将軍家指南役の看板は魅力的だったので武蔵の標的になったと推測されている。
ここで注意されたいのは、吉岡と異なり尊徳は死ぬまで幕臣であった。この差は大きいと思う。
さて。幕臣二宮尊徳、いや当時の金次郎少年を語る前に、少し言い訳をする。
実は私は尊徳の玄孫。尊徳の孫の孫にあたる人物と知り合いだった。
近年は書籍化、活字化されているが、子孫だから知っている「ここだけの話し」を幾つか教わったりしている。本稿も、それに関する事項なので余談をお許し頂きたい。
さて。少年から青年期に私は尊徳の玄孫氏を二宮先生、先生と尊敬し、また可愛がられた覚えがある。
因みに、太祖尊徳の偉業を継承するためか、農水省の公務員ご出身で、今では生前叙任は廃止されているが、官位も得ていた。
官僚の官位についての余談だが選挙では福田に勝てなかった中曽根元浮沈空母首相も、太平洋戦争敗戦直前の公僕時代に従六位を得ているが、大名と同じ五位はなかなか届いていないし現在は既述の通りシステムが変更されている。元首相は死ぬまで従六位だ。死後、本人希望にどんだけ近しい官位を貰えるのかは不明、としておこう。
さて、私は未就学児童の頃から件の二宮先生と接していた。正確には、それ以前から亡父がとある同業者を仲介しての顔見知りだった。
この同業者社長は、私には色々と恩人でもあり、まあ青年期に影響を与えた人物なのだが、この社長が立ち上げた『報徳会』つまり二宮尊徳の仕法をゲンダイにも活かそうとする勉強と研鑽会に誘われた。
ナゼか、家族揃って参加したのは我が家だけだったと言う、今思えば奇妙な集団の神輿が尊徳の玄孫の先生だった。
二宮先生と、恩人の社長──以降、S社長と敬称略で呼称する──は、住所が近かった影響でこの報徳会立ち上げどころか長年にわたる既知であり、師匠弟子の関係になっていたのだが、当時不渡りを出すなど経営が破綻した我が家の再建は勉強会のテーマとして最適と判断されたことも家族参加の理由になっていた。
当時バブル絶頂期。
正直、報徳仕法などドコ吹く風で、最終的に分解してしまう勉強会だったのだが、S社長の意気込みは筋金入りで、勉強会立ち上げ以前から「今こそ尊徳」と各種の小冊子を発行していた。
ある冊子の表紙。
ここに(やっと)、昨今批判されている、あの『金次郎少年が読書をする』図が描かれていた。
でも、歩いていない。