元禄赤穂事件 序・4 「江戸の火事と赤穂事件」
元禄十一年。
「赤穂事件」の前半の唯一的山場、「松の廊下事件」の三年前。討ち入りの四年前。
特に珍しくないのだが、江戸で大火事が発生した。
この火事で当時鍛冶橋にあった吉良邸が被災。後日、呉服橋で邸を再建するのだが、なんとこの火災の本所の消火担当が浅野長矩なのだ。
大名火消は、出火の方角などをフォローするため複数任命、鍛治屋橋付近は、偶然に浅野長矩が担当になっていた。
この段階では浅野も吉良も、双方恨みも遺恨もなかったと推測する。
逆に、イジメを否定する論者が力説する事実。
天和三年|(1683年)浅野長矩と吉良の両名は勅使御馳走と指南役でペアを組んでいる。これがイジメ否定説の脆弱な論拠となっているが、この役目が無事に完結しているのは間違いない事実でもある。だから、火種の元禄十一年の火災までは、浅野長矩と吉良は意外と悪くない関係だったと私は推測するくらいだ。
でも、火勢が強すぎたのか吉良邸は焼けてしまった。
ついでながら、だからといって浅野長矩は処罰されていない。役目は果たした、吉良邸については仕方ない結果だと判断されている訳だ。
この事実は、別に隠されていない。不思議とか連結されなかったのだ。この点は井沢の主張する縦割りや、自分の専門外には疎い象牙の塔と侮蔑される学会の責任は指摘されなければならないだろう。
傷害事件と事件の三年前の火事を連続のそれと考えなかったのだ。現代、あるいは素人ならドラマ的にも、
「三年前の火事が事件の発端では」と名推理する主役の探偵や名刑事の不在、だろうか。
さて、元禄十一年の火事は「江戸三大大火」には数えられていないが、罹災した人には十分な悲劇である。
しかも寛容な好々爺ではなかった吉良が被害者。
例え後出しでも、続々と悪評が湧き上がる人物。集められた悪口だけで二時間ドラマが作成できる悪人ではなくてもイヤミったらしの吉良が浅野の奮闘を労う訳がない。
「お前のせいで家財が失われた」
「お前なんか信用するんじゃなかった」
正確な高家としての口調や文言は作法の専門家に補填してもらうにしても、散々浅野を吉良が責め立てただろうと誰でも予想がつく。イヤな実例が成立してしまったが秘書を罵った議員の語録を思い出して頂ければ、浅野が遺恨を抱いても不思議ではないと納得するだろう。
しなければ人としての感情がない。
つまり、「遺恨あり」は最初は吉良である。もちろん前述の通り、吉良の小言イヤミなどの遺恨が累積して浅野長矩も「遺恨」を覚えた可能性は否定できないことは、私は井沢や媚吉良ではないので認める。
でも考えてみれば、自分の家が全焼した時の消防隊の隊長に、熱く手を握って感謝なんてムリ。
まして望んでいない、一方的に指名された「遺恨あり」なペアに真摯に対応出来る人がどれだけ存在するだろうか。
私は感謝する自信も仲良く作業する覚悟もない。
ましてこの時代は火災保険などの救済がない。焼け損なのだ。それでは消防隊に感謝なんてしないで、恨みを抱くのが自然であり、それはつまり「遺恨あり」である。
そうなると、イジメ説も根も葉もない空論にはならない。なにしろ、吉良に浅野を殺したいほどの遺恨があるのだ。まさか刀を抜くとは考えないでイジメ抜いた可能性は否定できない。
信頼できる資料では、事件の年、少なくとも直前。浅野長矩と吉良義央との接触は数日だとイジメ説を否定。浅野をどうしても病人にしたい人種の根拠になっているのだが、鍛治屋橋大火からスタートして、
『三年の日数』、
があれば、吉良が直間接的に浅野の悪評を撒き散らしたり充分にイジメを堪能できる余裕がある。
そうなると、浅野長矩が書き記したとウワサのある、
「どうしても言わなければならなかったこと~」
ナゾの遺言が、三年前から吉良のイジメを我慢していた。そんな拡大解釈だって決して暴論ではないのだ。
赤穂の江戸家老たちがイジメを把握していない、との反論もあるだろう。
でも、陪臣。御三家や加賀藩。仙台、彦根、薩摩なら別格だが、小大名の家老たちは江戸城の奥深くまで立ち入ることは滅多にない。ない、と断言してもいい。
まして浅野家は豊臣色の強い外様である。江戸城内のウワサに疎くても不思議ではない。それに討ち入り不参加の江戸の重臣たちの筆跡資料がないので、「遺恨・イジメ」を知らなかった論拠にはならない。
つまり『三年越しのイジメがなかった』との反論はとてつもなく脆い。
但し、たった今の浅野長矩の遺言の信ぴょう性はそれ程高くないことも明記する。原文が残っていないし。
でも認めなければならないだろう。
イジメは有り得た、と
だから統合失調症だとか浅野がバカ殿、あるいは吉良が名君である主張の脆弱さ、評価がどれだけ資料に目を通していないのかも、これで証明されてしまった。
イジメは不明でも遺恨は間違いなくあった。
それも吉良に。
これだけは急いで書き記したい。