元禄赤穂事件 序・3 「大名火消しでは消えない吉良の遺恨」
遺恨は、浅野ではなく、なんと吉良義央のサイドにある。
「赤穂事件」は、勅使御馳走を浅野長矩が押し付けられたことがそもそもの発端、勃発だった。
一所懸命。
大名も旗本も、幕府から所領を預かり、その代価として「御用」を務める。お手伝いと称する場合もある。お勤めや、ご奉公とも解釈できる。
考えようでは「老中や若年寄」などの幕閣も「御用」「奉公」だし、半世襲の町奉行所の同心以外は、適宜幕府や上役|(所属の組頭がほとんど)から「御用」を命じられるのだ。昨日まで旗奉行だった役人が、今日は小納戸役、今日は御書院番に就任する可能性もある|(但し、あくまで例なので、家格や石高などで任命される職務は異なる)。
加えて別方面では大名の江戸屋敷等も「御用」「奉公」のために「幕府」から拝借しているので家格などて配置転換されつ事例もある。この煩わしさと上屋敷だけではどうしても手狭であるので懐事情が許せば大名は中屋敷、下屋敷、抱屋敷を保有するに至っている。
大名家の御用。
浅野は、祖父の長直|(この時代は、まだ中国地方の赤穂藩ではなく、関東の笠間藩)。そして長矩本人も「大名火消」の熟練者だったのだ。「大名火消」の常連と表現しても過言ではない。
余談だが後世の我々は、テレビドラマの悪影響をノーチェックで受け入れて、「役人仕事」な大名火消を過小評価している。だが、いろは四十八組の町火消が誕生しても大名火消は徳川が崩壊するまで衰退はしても健在だった。
また、大名火消と町火消以外にも旗本火消などの火消役は実在したし、現代の自衛消防隊と同等の自火消|(名称は不定。雇い主の呼び名がメイン)も多数活動していた。
まず、「加害者」である浅野長矩は、前述の通り大名火消を何度も拝命している。火消を拝命する以前は、消火防災力から連想される材木番、『江戸』を火事から守る意味もある神田橋御番などを拝命。この御番は、再任されている。
つまり長矩を含め赤穂浅野家の火消や能力が優秀だから安心して指名、起用されたと推測できるだろう。能力、意欲がないから御用がない。一所懸命の御恩返しの不履行者である徳川旗本の小普請組や寄合とは次元が違うのである。
でも、その火消から事件が発生した。
そして、「遺恨」である。