鳩時計 事件の始まり
「外の風が気持ちいいよ。」
そう言って、西側の窓ガラスを開け網戸にする。
7月上旬、夕立が去った後の生温かな風がふわっと部屋に舞い込む。風は夕立で濡れた一翔の髪を通り抜け、ベッドで寝ている彼女の頬を撫でる。
「気分はどう?」
彼女からの返答はない。
ベッドの横の椅子に腰かけ、彼女に語りかける。
「さっき、やっと完成したんだ。」
瞬きをするだけで、表情に変化はない。
彼女の手を握る。
「次の夕立の日に試してみることにした。睦先輩の同意は得られないままだけど。」
窓から注がれる風で揺れる彼女の髪を人差し指でそっと梳く。
「茜、僕の声聞こえてるよね。」
茜が事件に巻き込まれてから、一二年以上経つ。その間、茜が声を発することはなかった。
植物状態の茜の部屋を訪れるのは、茜の両親と妹。友人達は自分の家庭を持ち始めると忙しい日々に追われまず来ることはない。
一翔が週に三回。そして睦が半年に一回程来ていた。
茜の顔をしばらく見つめる。
「道徳的に間違ったことをしてるのは承知だよ。でも僕にとってはこれが正しいことだ。」
また、風が舞い込んでくる。少し強い風に窓のレースが大きく揺れる。
「また、来るよ。」
一翔は部屋を出た。
―この研究に10年以上費やした。警察は諦め大学院も科学専門に切り替えた。
周りからはおかしくなったと思われている。でも、そんなことは今の僕にとっては何の意味も持たない。
ただ、睦先輩との関係の変化は正直悩みの一つだ。
研究に没頭する僕を唯一人として接してくれる先輩と意見がぶつかり合う日々はこの鋼のような心を持ってしてもつらい。
先輩だからこの研究をこの僕を理解してほしい。その想いが強く、でも届かないことに腹を立てて先輩を困らせている。
その睦先輩と昨日、完全に絶縁した。
そして、僕は実行する。―
施設を出た後、まっすぐ研究室に向かう。最近の僕はこの繰り返しだ。今日も研究室の扉を開ける。
ーー?
研究室の様子が何かおかしい。出たときと様子が明らかに違う。
そして次の瞬間、自分の目を疑った。
「先輩!?!」
床に流血した睦が倒れていた。血だまりもできている。
「ど、どうしたんですか!救急車!」
睦の意識はほとんどない。頭を強打されたのか、後頭部から出血している。
とにかく手当てをしないと。電話を終えると、部屋に置いてあるバスタオルで患部を覆い睦の頭をゆっくりかかえ、心臓より上にした。
「いったい何が...」
睦先輩を失うかもしれないという恐怖で頭が真っ白になる。何も考えられない。
「救急車はまだ来ないのか。」
一分がとてつもなく長い。
こんなことになるなんてーーー!
何で絶縁なんかしたんだ。本当は分かりあいたかった。分かりあいたかったから僕も睦先輩とは正面から向き合っていた。
鋼の心が痛むのも当然だ。僕にとって睦先輩はもうなくてはならない存在なんだから。
もし睦先輩を失ったら僕はもう生きてはいけないだろう...
「現状は命に別状はない。」
医者のその発言をきくまでは記憶が飛んでしまった。きっと恐ろしくて何も考えられなかったからだ。
早期発見と応急処置が良かったと医師の診断。本人の意識が戻り次第、本格的な検査に入るようだ。
「どうして、先輩がこんなことに。」
警察も犯人を捜査している。第一発見者の一翔も疑われたが、犯行時刻の少し前に茜の施設で防犯カメラに写っていたことから、容疑者から外れた。
事情聴取も受けたが、一翔の方が一体何があったのか知りたいくらいだった。
事件の次の日の午後、一翔は現場検証が終わった自分の研究室に戻った。
少し落ち着きを取り戻したので、ゆっくり考える。
睦は恨みを買う人間ではない。
睦が研究室に来た理由はおそらく実験のことだ。僕の帰りを待っていた睦は、僕に用があった人物に襲われたのだろ。
「僕を恨んでる奴?いないとは言いけれないな。」
いつもの客観視思考ができるようになってきた。
ゆっくり記憶を辿る...あの日、研究室に入った瞬間の違和感。
荒れた棚、引き出し、ファイル類...最初は犯人と先輩が争ったからと思ったが、荒れていた箇所がおかしい。
はっ。
こんなこと、いつもならすぐ気付くのに、あの時は睦の事で冷静に考えられなかった。とにかく研究室へ...
やられた...
研究ノートがない。研究作品も足りない。
僕の研究を狙った犯行だ。
でも一体誰が?
睦以外に研究内容を口外することはなかったが、周りはなんとなく気付いていた。
完成した抜群のタイミングに狙った犯人。
しかし、完成を知らせたのは睦だけ。
誰だ。分からない。
いや、ゆっくり落ち着いて考えるんだ。
すると、携帯電話が鳴る。
「睦が病院から消えた。」
睦の家族からの連絡はさらに事態を悪化させる内容だった。