鳩時計 成功させなくていい
31年後。初秋。
「もう!一翔のせいで、遅れそうじゃない!」
やや左後方にいる、学ラン姿の小柄な男子生徒に声をかけた少女は、鳩高校二年生の佐藤茜。
「僕は先に行けって言ったんだけどな。」
まだ眠そうな顔で冷静に答えるのは、鳩高校二年生の中川一翔。
「明日は文化祭だから、僕もいつもより早く行って準備するって言ったから、迎えに行ったのに。」
「早く行くって言っただけで、一緒に行こうなんて誘ってないよ。」
一翔と茜は家が近所で同級生。いわゆる幼なじみだ。幼稚園の頃から登下校を共にしてきた。生徒会執行部の茜は文化祭準備で日々忙しくここ一週間は早朝もその時間に当てており、一翔より早く登校していた。一翔の「明日は僕も早く行く」という発言を「一緒に行こう」と解釈するのも無理はない。
難癖をつけては茜に嫌がらせを言ってみせるのは、茜は自分に惚れてると確証している一翔の悪い癖だ。
「早く行かないと会長にどやされるよ。」
二人の通う鳩高校は丘の上にあり700m続く坂がある。その為丘のふもとにも学校の駐輪場が設けられており、多くの生徒はそこから歩いて登校する。
(確かにこのペースで歩いていたら時間に間に合わない。しかも、昨日から鳩時計が動き出して先生たちの様子が少し変だってさやかが言ってたから、それも気になる。)
茜は一翔を思いっきり睨んだ。
「そうね、運動音痴の一翔に合わせてたら遅刻だわ。お先に!べー!」
ざまーみろという顔をした次の瞬間にくるっと前を向く、合わせてプリーツスカートがふわっと回る。そして学校へ向かって駆け足で去っていく。
「今どきベーって・・・使わないよ。」
一翔は少し呆れた笑みをうかべる。
朝の六時を迎えた秋分の日。早朝の空気は少し冷たいが、太陽の暖かい日差しが、向かって西側にある学校への道を穏やかに照らしている。今日も日中に向けて暑くなりそうだ。
「長い人生、まだまだ見えてないものいっぱいあるから茜で決まりってわけにいかないんだよ。」
「大きい独り言。」
キレのある、そしてどこか余裕を感じるトーンの声。
「癖です。」
平然と答える一翔に、ふーん。といたずらな笑顔を浮かべて近寄ってくる男子生徒は鳩高校三年生の織田睦。
「おはようございます。」
「おはよう。茜ちゃん人気あるのにな。」
「知ってますよ。」
特別容姿が良いわけではないが、女の子らしい体系とふんわりした雰囲気の茜に優しくされて勘違いする男子は少なくない。
一翔は淡々と会話を続ける。
「睦先輩もこんなゆっくりでいいんですか。文化祭当日の朝は生徒会と最終の合わせするんですよね。」
「走れば間に合うから大丈夫。」
(今日は、朝から自分の運動音痴を馬鹿にされる。)
「今日は文化祭で体育祭じゃない。」
「独り言漏れてるって。」
一翔は少し躊躇してから、また会話を続ける。
「…睦先輩、今日の計画は成功しますよね?」
「どうかな。」
釈然としない返事に一翔は少しむきになる。それでは困る内容のことをこれから実行しようとしているのにと。
「図書部がやってきたことは間違ってないはずです。受け入れてもらわないと。」
今度は睦が平然と答える。
「成功しなくてもいいんじゃないか?」
(きた…こんな日でもこの人は理解不能の言葉をふっかけてくる。)冷静で温厚な一翔の心を睦の言葉が乱す。
「何を言ってるんですか。今日のためにやってきたことが無駄になりますよ。」
今から学校にとっての大イベントである文化祭をぶち壊そうとしているのに、その部長と副部長の意思疎通ができていない。こんなことで今日の計画は実行できるのだろうか。一翔は険しい顔になっていく。
睦が歩く速度を上げ、そして一翔を追い抜く。その瞬間、
ドンッ
「けほけほっ!な!何?!」
一翔はふいに背中を強めにどくかれた。
睦はそんな一翔を振り返り面白がっている。
「大切なのは自分の真髄だろ。一翔君。」
君付で呼ぶということはからかっている証拠。どついておいて更にこの仕打ちとは、完全におちょくられていると察した一翔はもはや黙り込むしかない。
「…」
「そうだなぁ、何も求めなければ恐くない。」
頭の中でまとまらない睦の言葉の連続。
「つまり、失敗してもいいってことですか?」
今度は真面目な表情で一翔の顏を見る。
「なぁ、一翔。」
睦は一息つき、
「お前は真実が知りたくて、これをやってきたわけじゃないだろ。」
それを捨て台詞に、睦は学校へと先を急いだ。