第9話 : 日掛 生物研究所
そこは、白い壁に囲まれた一見、病院のような場所だった。
違っていたのは、消毒薬の臭いの代わりに、どこからともなく断続的に続く機械音がある事だった。それは、膨大な量のコンピューターが作り出す、デジタルな狂想曲のようでもあった。
日掛コグループ・日掛生物研究所の一室である。
そこには二人の人間がいた。
一人は端整な顔立ちの、メガネを掛けた四十がらみの白衣の男。
もう一人は十七、八歳位の少女。
見事な漆黒の髪を腰までのばし、肌の色は抜けるように白かった。
それは、まさに ”病的な白さ”だった。
少女が、コンピューターを操る白衣の男に問いかける。
「ね、先生。彼、……芝崎さん、藍を追って来るかしら?」
男は、コンピューターを操る手を止めてゆっくりと、少女の方を向く。
「……多分ね、私は彼はここに来ると思っているよ」
そう言って、少し目で笑う。
「珍しく、後悔しているのかい? お姫様」
そう言いながら、彼女の顔を「ん?」と覗き込んだ。
「何よ、いじわる!」
頬をふくらますと、少女はそっぽを向いた。
男は椅子から立ち上がると、そっぽを向いたままの少女を、自分の方に向き直させ、自分の肩ほどしか身長のない彼女の目を、正面から見つめる。
「今なら止められるぞ。今なら、別の選択肢もある……」
そう言う彼の目には、先ほどの柔和さは消えていた。
「……止めないわよ。誰が止めるもんですか!」
彼女は、まるで自分に言い聞かせるように、言う。
「……そうか。そうだな。それでこそ、私のお姫様だ」
そう言うと男は、両手で彼女の両頬を、むにゅっと引っ張った。
「ん、もう! 止めてよね! いつまでも子供じゃないんだから!!」
少女は、今度は怒ってその部屋を出て行ってしまった。
それを、愉快気に見送る男の目が、すっと影を帯びる。
「そうだな、もう子供じゃないな……」
もう、自分の生き方を決められる位に、大人になったんだからな。
出会ったのは、十三年前。
ほんの五才の小さな女の子だった。
どちらかと言えば、娘と言っていい程年齢差のある自分が、こうも惹かれる事が、男には不思議だった。
「いつの世も、”恋は盲目”と言うことか――」
男は自嘲気味に笑うと、中断された作業に戻って行った。