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第7話 : 指輪

「へぇー、すごいな。このケーキも自分で焼いたの?」


 拓郎は思わず、驚きの声を上げた。

 小さなテーブルの上には、所狭しと、美味しそうな手料理が乗っていた。一番目を引くのは、真ん中に置かれた、綺麗にデコレーションされたバースデイ・ケーキだ。


「大家さんの所でオーブンを借りたの。二個焼いて、一個お裾分けして来たわ」


 冷やしてあったコンビニのワインを用意しながら、藍が楽しげに笑う。


「喜んでただろう? あの人、甘い物に目がないから」


 君恵のほくほく顔が目に浮かんで、思わず拓郎の口からクスリと笑いが漏れる。

 その日は藍の、十八歳の誕生日だった。


「今日は、早く帰って来るよ。誕生日だろう? 一緒にお祝いしよう」


”多分、七時くらいには帰れるから、ごちそうをヨロシク!”


 そう言って仕事に出掛けた拓郎だが、まさか、ケーキまで手作りしているなんて、思っていなかった。 


 一緒に暮らし始めた当初、まだバリバリに「家出娘と、その保護者」な関係だったとき、一番最初に拓郎が驚いたのは、藍の家事能力が抜群だったことだ。

 掃除洗濯は勿論、特に料理の腕は特筆もので、煮物、焼き物、果ては蒸し物まで、殆どプロの味に近いものがあった。

 今時の十七歳で、こんなに完璧に家事がこなせるものだろうか? よほど躾に熱心な家庭に育ったのか……。


「お母さんに教わったのかい?」


 何気なしにそう訪ねると、藍はちょっとはにかんだように笑っただけだった。

 藍は、自分の家族については殆ど語らなかった。

 ただ、学校には行っていないこと「家族に黙って家出をした」のではないこと、それだけを教えてくれた。


 ただの家出では無いのかもしれない。

 何か他人には話せない深い訳があるのかも――。

 それは多分、時々夢でうなされることと無関係ではないのだろうと、拓郎は思っていた。

 でもそれはいつか時がくれば解決する事だろうとも信じていたのだ。


 

 拓郎はその日、一つの決心をしていた。

 それは少なからず勇気のいることで、そして、最も苦手な部類に属していた。


「藍。ちょっと、こっちに座って」


 食器の後片付けをしていた藍を拓郎は呼んだ。緊張で声が少しうわずっていたかもしれない。


「はい?」


 小さなテーブルを挟んで向かいあって座る。


「どうしたの?コーヒー、おかわり?」


 首をかしげて、不思議そうにしている彼女の目を見詰めて拓郎は「一大決心の証」を上着のポケットから取り出して、トンとテーブルの上に置いた。

 小さなグレーの、指輪ケース――。

 テーブルに置かれた「それ」を見つめて、藍は、きょとんとしている。

 拓郎は一つ、大きく深呼吸をして切り出した。 


「これ、プレゼントなんだけど、受け取って貰えるか?」


 パチンとケースの蓋を開けて藍の方に向ける。中には小さなダイヤのついたプラチナの指輪が、キラキラと輝いていた。

 藍が驚いて、拓郎と指輪を交互に見比べる。

 単なる誕生祝いのプレゼントなのか、それとも特別な意味があるのか、はかりかねている様子だった。


「今すぐじゃなくてもいい――」


 拓郎が自らを鼓舞するように、大きく深呼吸する。


「藍が、そうしてもいいって気持ちになったら、俺と結婚して貰えるか?」


 真剣な眼差しで、問い掛ける。


「まぁ、知っての通りの貧乏所帯で申し訳ないけど……」


 そこまで言うとさすがに照れくさくなって、拓郎は頭をぽりぽりかいた。

 藍の瞳から見る間に大粒の涙が溢れ出した。

 それは、なめらかな頬を伝い落ちて、その小さな手の甲を濡らして行く。


「……ありがとう」


 一瞬藍は、ぎゅっと目をつぶり


「ありがとう……拓郎」


 泣き笑いの表情でそう呟いた。

 あの日、あの場所で藍に出会っていなかったら、おそらく自分は以前と何の変わりなく、己だけを頼りに生きていただろう。それが間違いだとは思わない。

 ただ、寂しい生き方だと、拓郎はそう思った。


 そして、次の日のまだ日も昇らない早朝、藍は、拓郎のアパートから姿を消した。

 一通の別れの手紙だけを残して――。



 


「こんな朝早くに、すみませんでした……」


 拓郎は、大家の君恵の所をまず訪ねて、藍が来ていないか確かめた。


「昨日は、あんなに楽しそうにケーキを焼いていたのにねぇ……」


 心配そうに呟く君恵に頭を下げて車に飛び乗り、藍を捜しに出ようとした。そして愕然とする。


「なんてこった……。俺は、あいつの何を見てたんだ」


 ハンドルを握りしめ、絞り出すように呟く。

 拓郎は、「大沼 藍」という人間について何も知らなかったのだ。

 何処に住んでいるのか、家族はいるのか、友人が誰なのか――。


「今すぐじゃなくてもいい。藍が、そうしてもいいって気持ちになったら、俺と結婚して貰えるか?」


 あの言葉が、彼女を追いつめたのだろうか?

 いや、そんなはずはない……。

 あの涙……。

「ありがとう」と言った彼女のあの涙が、偽りのものだったとはとても思えなかった。


 どうしようもなく、胸が騒いだ。 

 嫌な予感がする――。


 もし、単に自分の事が嫌になって出た行ったのなら、それはそれで良い。

 いや、良くはないが、仕方の無いことだろう。藍はまだ十八になったばかりだ。まだ、縛られたくないと思っても当然かも知れない。


 ――俺が、彼女にあげられるものは、自分自身とこの思いだけしかないのだから。


 例えそうでも、確かめないわけには行かなかった。

 このまま、何もかったようには暮らせない。暮らせる訳がない。

 そうするには、藍の存在は拓郎の中で大きくなりすぎている。


 拓郎は唯一の心当たりを捜すべく、車を発進させた。




 それは、拓郎と藍が出会った十一月のあの日から半年後の、四月の早朝の事だった。


 



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