第6話 : 動物園
その日の朝拓郎は、食欲中枢を刺激する「美味しそうな匂い」で目を覚ました。
いつもながらの寝ぼけた頭でキッチンを覗くと、藍が何やら楽しそうに、弁当を詰めている所だった。
「おはよう。今日は一体何のイベントだい?」
「おはよう! 今日はお仕事休みって言ってたでしょ? だから、連れて行って貰いたい所があるの」
「うん?」
「動物園。私、一度本物のパンダ、見てみたかったの」
そう言って楽しそうに笑う。
いつもは拓郎が誘ってみても、「人混みが、苦手なの」と外出したがらない藍が、自分から言い出したのだ。
「だめ?」
「いいや。そうか。パンダか。上野だな」
この頃、藍は昨夜のように、夢にうなされる事が頻繁にあった。
「怖い夢を見ただけ……」
そう言って身体を震わせて泣く藍を、拓郎は、ただ抱き締めてやる事しか出来ない。
そんな自分が歯痒かった。
――何か、抱えている物があるのだろうとは思う。
「あのさ……」
――問いただすべきだろうか?
「はい?」
「……コーヒー頂戴」
言いたくないのには、それなりの訳があるのだろう。
”いつか、藍が自分から話せるようになるまで、待とう” 拓郎はそう結論を出した。
「パンダって……」
「うん?」
「大きいのね……。ちょっと、山の中で会っちゃったら、怖いかも……」
上野動物園、パンダ舎の前である。平日とはいえ、かなりの数の家族連れや、カップルで賑わっていた。
ぬいぐるみのようなイメージを抱いていたらしい藍が、呆然と言うのがおかしくて、拓郎は笑いながら答える。
「それに、よく見ると、なかなかいい面構えしてるんだ。目の所、模様はたれ目だけど、目自体は結構スルドイ」
「ホントだ」
二人で顔を見合わせて笑う。
藍にとっては、初めての動物園だった。
絵本やビデオで見たことはあっても、実物を目にしたのは初めてなのだ。
「私、実は動物園って初めて来たの。本物って何だか想像していたのと全然違う!」
「匂い付きだし?」
くすくすと藍が楽しそうに笑うのを、拓郎はまぶしげに目を細めて見詰めた。
「俺も、似たようなものかな。 親が生きてた時、何度か来たような気するけど――」
拓郎にしても両親が死んだ後は「動物園」なんて縁遠い生活だったのだから、藍と似たりよったりなのだ。
「ご両親の事、覚えてる?」
「いや。実は、あまり良く覚えてない。普通の人達だったような気がするけどね……」
拓郎の両親の記憶、それはイコール事故の記憶だった。
あの日は、忙しい父親の休日を利用しての、日帰り旅行だった。
滅多に家族で外出する事がなかった為か、父親も母親も、勿論拓郎自身もやたらと楽しくてはしゃいでいた。
その帰路、遊び疲れた拓郎は、タクシーの後部座席の真ん中、両親に挟まれる形で母親の膝に頭を乗せて眠っていた。
突然の、天地がひっくり返ったような衝撃――。
居眠り運転のその十トントラックは、信号待ちをしていた拓郎達の乗ったタクシーに、ノンブレーキで突っ込んだのだ。
タクシーは原型を留めないほど、大破した。
その事故を目撃した誰もが、生存者は居ないと確信した。
トラックに押しつぶされて、ひしゃげた車体には、どう考えても人が生存出来るだけの空間はなかったのだ。
その中で拓郎だけが、かろうじて命を取り留めた。
タクシーの運転手も、その時既に心肺停止状態で、数時間後には病院で死亡した。
拓郎が助かったのは、文字通り両親がその身体を呈して庇ったからだった。
とっさに、拓郎を庇った母親。
その母親を庇った父親。
その二人の身体を突き抜けた鉄板は、拓郎の背中に一生消えない大きな傷跡を残した。
焼け付くような痛みの中、拓郎が見たのは、両親の流した真っ赤な血の海だった。
――だから。
だから、中途半端な生き方はしたくないと拓郎は思う。
少なくとも自分はあの時、「生かされた」のだから。
その思いが、今まで拓郎を横道に逸れることを留まらせていた。
金の亡者のような親戚をたらい回しにされていた時も、アルバイト浸けで眠る間もなかった時も、その思いだけが支えだった。
でも、今は、藍がいた。
最初は、純粋に「被写体」としての興味だった。
それが、「危なっかしくて、放っておけないただの家出娘」に変わり、
いつの間にか今では「掛け替えのない存在」になっていた。
「うえ〜ん! ママ〜!」
突然二人の足元で、子供が泣き出した。
藍のワンピースの裾を、しっかりと握りしめている。
「ど、どうしたの? ボク?」
藍が驚いてしゃがむと、五、六才のその男の子の顔を覗き込む。
「ママがいないの〜!」
そう言って泣きじゃくるのを拓郎は、ひょいっと肩車をした。
「良く見えるだろう? ママが見えたら教えてくれるかい?」
笑顔で問い掛ける。動物受けと、子供受けは良い彼だった。
こう言う時こそ、その人好きのする童顔が役に立つ。
最初は驚いてキョトンとしていたその子も、肩車から見える風景が新鮮だったらしく、泣いていたのも忘れたように、「うん!教えてあげるよ!」そう言って楽しげに笑っていた。
――俺たちは、何に見えるのだろうか? 拓郎はふとそんな事を思った。
小さい子供と若夫婦?
藍が、楽し気に笑う。
小さい子供とはしゃぐ彼女を見詰めながら、拓郎は漠然とそんな未来を夢見ていたのかも知れない。
その日の帰り、藍は一組のレターセットを買った――。
その白い封筒と便箋には、向日葵の花が描かれていた。
その絵を、何処か眩し気な表情で見詰めている彼女に、拓郎は聞いた。
「向日葵が好きかい?」
「ええ。大好き。向日葵って、いつも太陽を見詰めて”凛”と立っているでしょう? あの強さに憧れるの……」
藍の表情は何処か暗い。
やはり、疲れたのだろうと、ねぎらいの気持ちを込めて、拓郎は藍の頭を軽くポンポンとたたいた。
「今度、そうだな。夏になったら”向日葵牧場”に行ってみようか? 一面の向日葵畑が見られるよ。ほら、初めて会ったとき見せた向日葵畑の写真の場所」
「ええ。楽しみ……」
藍が、どこか儚げに笑う。
その笑顔の意味を、拓郎は全く気付いていなかった……。
一斉に咲き始めた桜が、温かい春の風に乗って香っていた。