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第4話 : 部屋の灯り

「うん。ちょっと寒いけど、いいお天気!」


 冬の朝の澄んだ空気が心地よい。

 藍は、開け放した南向きのベランダの窓から外を見渡すと、一つ大きく深呼吸をした。

 午前八時。

 路地奥にあるこのアパートの周りにも、朝の活気が溢れていた。

 ジョギングをする中年の男性。

 のんびりと、犬の散歩をする主婦らしき人。

 足早に学校へ急ぐ学生の群れ。

 全てが穏やかで、そして当たり前の風景。

 藍は、遠くを見るような眼差しを、遙か彼方の北の空に向けた。


 拓郎が置き手紙を残して、三日間の仕事に出た一日目。

 ――何をしようかしら? と思案の結果、藍は、部屋の掃除をすることにした。

 元々そんなに散らかっている訳ではなかったが、それは男の一人暮らしの部屋である。「隅の方に埃がこんもり」と言うのは、仕方がないことだった。

 さすがに、”はたき”は置いていないようなので、雑巾を固く絞って窓のサンや家具の上の埃を拭き取って行く。


「前田さん、心配しているかしら……」


 ふと、子供の頃からの世話係だった、優しい女性の顔が浮かんだ。

 こう言う掃除の仕方は、その人が教えてくれた物だった。

 掃除だけではない。料理や裁縫、生活していく上で必要なことは、その人にみんな教わったのだ。

 両親のいない藍にとっては、「母親」そのものだった。


 その人にも、もう会うことは出来ない……。


 トントン――。


 不意に起こったドアのノック音に、はっと我に返る。


 ――誰? まさか……。


 一瞬、「居留守を使ってしまおうか?」と言う考えが頭をよぎったが、窓は開け放してあるし、玄関自体に鍵を掛けていないので、このまま黙っていてもドアを開けられてしまえば隠れようがない。

 藍は観念して、おそるおそるドアを開けた。


「こんにちは。大沼 藍ちゃんね。私は佐藤、ここのアパートの大家です」


 ドアの向こうには、そう言ってにこやかに笑う五十代後半の、ふくよかな女性が立っていた。



「今朝ね、芝崎君が家に寄って行ってね、”女の子が家に居るから、自分が留守の間、お願いします”って頼みに来たのよ」


 このアパート「サン・ハイツA」の大家、佐藤 君恵は嬉しそうにそう言った。


「あの子が、女の人を部屋に連れて来るなんて初めてだから、”これは早速、見に行かなくっちゃ”って来た訳よ。ああ、これ嫁に行った娘のお下がりだけど、良かったら着てみてね」


 藍はとまどいながら、大きな紙袋を二つ受け取る。

 君恵は「娘のお下がり」だと言ったが、中にはぎっちりと、真新しい洋服が詰まっていた。


「あ、あの。すみま……、ありがとうございます!」


 昨日の拓郎の言葉を思い出し、そう言ってペコリと頭を下げた。



「あら、おいしい!」


 四畳半のコタツに向かい合って座り、藍が入れた日本茶を一口飲んで、君恵が少しびっくりしたように呟いた。

 安物であるはずのそのお茶は、温度も濃さも風味も、これ以上なく巧く引き出されていた。


「ありがとうございます」


「でも、安心したわ。あなたのような、可愛らしいお嬢さんで」


 君恵は心底ホットした様子でニッコリ笑うと、何処か寂しげな遠い眼差しを開け放たれた窓の外に向けた。


「芝崎君、ああ見えて苦労人でね……。ご両親の事は聞いている?」


「はい……。子供の頃、事故で亡くされたとか……」


「あれは、ひどい事故だったわ……」 


 十九年前の冬。

 居眠り運転の十トントラックが、信号待ちをしていたタクシーに突っ込んだ。

 乗客は三名。

 君恵の友人の若い夫婦と八才の息子、拓郎と両親である。

 両親は、ほぼ即死。運転手も数時間後、病院で死亡した。

 両親がとっさに庇ったのであろうその子供――拓郎だけが重傷だったものの、奇跡的に助かったのだ。拓郎の背中にはその時の大きな傷が、未だに消えずに残っていた。

 


「保険金目当ての親戚を、たらい回しにされてね……。大分嫌な思いをして来たはずよ」


 ”親戚とは疎遠でね” 昨日、素っ気なく言った拓郎の言葉が思い出されて、藍は今更ながら、無神経に家族の事を聞いた自分が情けなかった。


「中学を卒業すると、私の所へ来てね……」



「おばさん、働いて必ずお返しします。ここに下宿させて下さい」


 畳にキチンと正座をして、深々と頭を下げる拓郎に君恵は言ったのだ。


「分かったわ。ここに来なさい。アパートに空いてる部屋があるから、そこを使うといいわ」


 ”返して貰うお金は多い方が嬉しいから、学費も出すわよ” と言う君恵の申し出を、拓郎は丁重に断わった。


 その後自力で働きながら、定時制の高校と通信制の大学を卒業すると、好きだったカメラの道へと進んだのだ。


 ”強い子”だ。いや、”強くならざるをえなかった子”だと君恵は思う。

 あの環境の中で良く、あんなにいい子に育ったものだと感心する程だった。

 ――大事な親友の忘れ形見。今までの苦労の分、幸せになって欲しいと心からそう思った。 


「彼ね、仕事先で良く動物を拾って来るのよ。まあ、子猫だったり、子犬だったり、自力で生きられそうもない子達ばっかりだけどね」


――まさか、今度は女の子を拾ってくるとは、思わなかったけど。


 思わず君恵の顔に笑みがこぼれる。


「大抵は、新しい飼い主を見付けて来るんだけど、それまでは家が預かり所になっているの。今も何匹かいるから、後で遊びに来なさいな」


 そう言って、君恵は、来た時と同じように、にこやかに帰って行った。 




 藍は、表面からは伺えなかった拓郎を知ることが出来て、嬉しい反面、その事実に胸を痛めていた。

 あの、屈託の無い笑顔が、どれ程の心の痛みの上に成り立っていたのか、それを思うと、いたたまれなかった。


 ――強い人だな、と思う。強くて、優しい人。

 あの、美しい優しい風景、あれはきっと彼の心その物だと、そう思った。




 三日後の夜、仕事を終えた拓郎は、”もしかしたら、もうあの子は居ないかもしれないな……” と思いながら帰路についていた。

 家に帰ったのならそれは、その方があの子の為にはいいのだと……。

 だから、部屋に明かりが点いているのを見付けた時、妙に嬉しい自分に戸惑ってもいた。


「お帰りなさい!」


 藍の、満面の笑顔が迎える。


「ただいま」


 拓郎が、笑顔で答える。 


 二人の距離は、ゆっくりと、確実に近付いて行った。




 

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