第3話 : 「ありがとう」
「狭くて汚いけど、ちょっと我慢して。多分、野宿よりはマシだから」
東京とは言っても、郊外のオーソドックスな二階建ての木造アパートである。
八軒ほどが入居しているが、いずれも単身者ばかりだった。
二階の東南の角部屋、日当たりが良いのだけが取り柄の部屋だが、洗濯はコインランドリーで済ませてしまうし、植物を置く趣味があるわけでもないので、拓郎にとっては、その好条件もあまり意味は無かった。
1DK。
半畳ほどの狭い玄関を入ると、三畳のキッチンと水回り。奥に四畳半の板の間のダイニング。
更にその奥に、寝室として使っている六畳の和室。
決して広いとは言えないが、拓郎にとっての「我が城」だ。
四畳半の板の間の二人掛けのコタツに向かい合って座り、物珍し気に部屋を見回していた藍が遠慮がちに口を開いた。
「あの、ご家族はいらっしゃらないんですか?」
「家族はいないんだ」
拓郎が、ごくさらりと答える。
「親は、俺が八才の時に交通事故で、二人仲良く墓の中。兄弟もいないし、親戚とは疎遠でね。気楽な物さ」
そう言って拓郎は、軽く肩をすくめた。
藍の表情が、見る間に曇って行く。
「あ……、すみません! 余計なこと聞いてしまって!」 ペコリと頭を下げる。
うつむいてしまった藍の顔を、拓郎は、ちょっと屈んで覗き込んだ。
――気にさせてせてしまったかな?
同居の家族がいないのは一目瞭然だし、別に隠すことでもない。
昨日今日一人になった訳でもないので、拓郎自身は何のためらいもなく事実を言っただけなのだが、藍にしてみれば「聞いてはいけない事を聞いてしまった」罪悪感で、ただうつむくだけだった。
「それ、止めにしない?」
拓郎の、柔らかいトーンの声に、藍が思わず顔を上げる。
「はい?」
何の事を言われているのか分からない様子で、きょとんとした表情を見せる。
「あの……、すみません。良く分かりません」
「それ。その すみません ってヤツ。別に悪いこと、聞いてないだろう?」
「あ、あの……」
拓郎の言っている言葉の意味が掴みかねて、藍がまた 『すみません』と言いそうになって、言葉に詰まる。
「まあ、悪いことしても、謝るってこと知らないヤツが多いから、君みたいな人貴重だとは思うけどね。でも今度もし、『すみません』って言いそうになったら、こう言ってごらん。『ありがとう』――プラス笑顔で、怖い物無しさ!」
そう言って拓郎は笑った。
思わず藍も、少し笑顔になる。
「はい。ありがとう、ございます」
「そう。それ!」
拓郎の笑顔につられて、藍は初めて、満面の笑みを浮かべた。
「こんなものしか無いけど、取りあえずどうぞ」
目の前に置かれた、キャベツと卵入りのインスタントラーメンを見て藍が、興味津々の表情を浮かべる。
「インスタント・ラーメンだけど、もしかして初めて食べるとか?」
「はい。初めてです。いただきます」
冗談半分で言った言葉が的をを射ていたことに驚きつつ、実に美味しそうに食べる藍を見ながら、拓郎は、少し複雑だった。
笑い合ったことで打ち解けたのだろうが、藍は既に、今日会ったばかりの自分に、全幅の信頼の様なものを寄せているようすが見て取れた。
男性一人の部屋に二人きりで居るというのに、全く意識していない。その余りのその無警戒ぶりに、他人事ながら危惧せずにはいられなかったのだ。
――良くこれで、今まで無事だったな……。
これが、そこら辺に良くいるナンパ野郎やスケベ親父に捕まっていたら、だだでは済まなかっただろう。
これは危なっかしくて、素性がはっきりして、親元に帰すまで放っとけないな……。
そう思った。
「じゃあ、俺はこっちの板の間の方に寝るから、君は奥のベッドを使って。一応、シーツは換えといたから」
そう言って、取材用の寝袋を抱えて行こうとする拓郎に、慌てた藍が走り寄る。
「こちらの部屋で、一緒に寝ましょう! その方が、暖かいです!」
「は?」
思わず、拓郎の動きがピタリと止まる。
「……それは、いくら何でも、マズイでしょう? 一応これでも、男だからね」
――冗談じゃないぞ、おい。
ははははっ、と引きつり笑いをしながら行こうとするその腕を藍が、はっしと掴む。
「でも、風邪を引かれては私が嫌です。困ります、ここに居て下さい。私、気にしませんから!」
行かせまいと、藍はその小さな華奢な手で、必死に拓郎の腕をぎゅっと掴む。
――いや、俺が気にするんですけど……。
拓郎は、軽い目眩を覚えた。
別に、藍をどうにかしようという気は毛頭ないが、拓郎だって二十七歳の健康な男だ。同じ部屋に女の子と一緒に寝る、と言うのはいくら何でもどうかと思うのだ。
どうしたものかと途方に暮れる拓郎に、追い打ちが掛かる。
「でなければ、私がそちらで寝ます!」
儚気な最初のイメージとは違い、思いのほか頑固で、引きそうになかった。
「……分かった。そうするよ」
アウトドア慣れしている自分ならともかく、藍ではそれこそ風邪を引いてしまうだろう。
頭をかきかき戻る拓郎に、邪気のない笑顔が向けられる。
――これは、ちょっと困ったぞ……。
内心では焦っていた拓郎だが、おくびにも出さず黙々と寝袋を広げる。 六畳の部屋にベット。
そのなるべく離れた所に、とは思うが、悲しいかな所詮六畳。寝袋を敷くと、ほとんど隙間は無くなる。
「じゃあ、お休み」
パチンと電気を消して、拓郎は寝袋に潜り込んだ。
「お休みなさい」
やけに弾んだ楽しげな声が返って来る。
しばらくすると、よほど疲れていたのだろう、スヤスヤと気持ち良さそうな寝息が聞こえて来た。
「はぁー……」
拓郎の長ーいため息だけが、狭い部屋に響いた。
翌朝、六時を回った頃、拓郎は以前から入っていた仕事があったので、早めに部屋を出た。
藍はまだ良く眠っていた。
無防備な、そのまだあどけない寝顔を見て、拓郎は、何故か不思議な感覚にとらわれていた。
懐かしいような、切ないような……もどかしいような感覚。勿論、「恋」とか「愛」とかいうのとは違う。
――だいたい、昨日の今日だ……。
確かに、今時には珍しいくらい、素直で純粋な感のある少女ではある。その「妖精的なイメージ」に被写体として、強烈に引き付けられた。
でなければ、あんなにモデルになって貰うために粘ったりはしない。
純粋な「被写体」としての興味。
それだけだ……。
拓郎は、居間のコタツの上にメモを一枚残した。
『大沼 藍様
今日から三日間、仕事で留守にします。
部屋の物は自由に使って下さい。
冷蔵庫の物は食べてしまって下さい。
(賞味期限に注意!)
足りない分はこれで買い足して。
携帯090 4885 ××××
芝崎 拓郎 』
そのメモの上に、持ち合わせの五千円札を置く。
三日なら、これで何とかなるだろう。
出がけに拓郎は、このアパート「サン・ハイツA」の大家であり、死んだ母親の親友でもある、佐藤君恵に藍のことを話して、それとなく様子を見てくれるように頼んだ。
彼女の家は、アパートの隣にある大きな日本家屋だ。
ちなみにアパートはAからGまで七棟あり、他にも沢山のテナントを所有する、いわゆる「大地主」である。
携帯の番号はメモに残してきたが、見知らぬ部屋に若い女の子が三日間一人きりというのでは、さすがにどうかと思ったのだ。
「それじゃ、すみませんが宜しくお願いします」
頭を下げる拓郎に、君恵はニヤリと意味あり気な笑いを向ける。
「拓郎が、女の子を部屋に連れて来るなんてねぇ。これは早速、見に行かねば!」
そう言って、恰幅の良い身体を揺らして笑う。
「別に、彼女じゃないですよ!」
この『君恵おばさん』は、身内の居ない拓郎にとっては、唯一家族のような存在だ。
八歳のとき両親の事故の後、親戚連中の冷酷な仕打ちの中、母の親友だった彼女だけが拓郎を心から案じてくれた。今の拓郎にとって無条件で信頼出来る唯一の人間、それが佐藤君恵だった。
「じゃ、宜しくお願いします!」
拓郎が笑顔で頭を下げる。
「はい。気を付けて行ってらっしゃい。彼女のことは任せて」
十一月の乾いた冷たい朝の風が、音を立てて吹き抜けて行った――。