第12話 : 待ち人
そこは、研究所内の藍専用のメディカル・ルームである。
二十畳ほどの室内は木目調の家具で統一されていて、ホテルのスイートルーム風にしつらえられているが、所狭しと配置されている多種多様な医療機器が、ここがメディカル・ルームであることを表していた。
「ね、先生。私、不整脈出てるの?」
中央のベットに横たえられた藍は少し不安気に、付き添っている柏木に尋ねた。
「最初から出てないよ。きれいなものだ」
心電図のモニターを調整している柏木から、しらっと答えが返って来て、驚いた藍が目を丸くする。
「じゃぁ、これ、何してるの?」
心電図を計るために、体のあちこちに繋げられた電極板を指さし、ムッとして尋ねる。
「心電図を計ってる」
至極当然と言ったふうな答えに、本来気の長い性格でない藍が、カチンと切れる。
「だから何を!」と怒鳴りかけると、”しーっ”と柏木の人差し指が、口元に伸びて来た。
「今は、出てはいない、と言うだけだ。いつ本格的な心臓発作が起こってもおかしくない状態だと言うことを、自覚しなさい」
穏やかにそう言うと、目だけでフッと笑う。
「君に、日掛老人の相手は無理だよ。これでも助けてあげたつもりなんだが、余計な事をしてしまったかな?」
今度は口元をほころばす。
「うん、もう! 分かったわよ! 助かりました、ありがとう! 」
どうにも、藍には分が悪かった。
相手は、二十以上も年上の大人の男性だ。年齢的に言えば親子程も違う。
十八になったばかりの藍では、太刀打ちが出来る訳はなかった。
研究所内では、「鉄面皮の柏木所長」という呼び名が、暗黙のうちに浸透している。
それは、柏木がどんな局面でも殆ど表情を動かすことがないからだが、藍にとっては、五歳の時から変わらずに、「大好きな、優しい柏木先生」のままだった。
元々は、とある大学病院の講師で優秀な外科医でもあったが、その研究テーマを買われ、先代の所長の推薦でこの研究所にやって来たのである。
日掛グループ会長、日掛源一郎は、決して甘い人間ではない――。
その財力も、各界への影響力も半端なものではなかった。
実の孫である藍とて、祖父がどんな種類の人間かは、分かっているつもりだった。
だが、生まれながらに先天性の内臓疾患を持った孫である自分の為に、この研究所を建て、集め得る限りの人材と、技術を集めてくれた。
この柏木浩介もその一人だ。
藍は、そこに確かに祖父の愛情を感じていた。
この『日掛生物研究所』は、表向きは、日掛グループの子会社経営の一研究施設に過ぎない。
表向きとは言っても、一通りその研究はなされている。
が、しかし、その実体は、日掛 藍の為の『医療研究所』に他ならなかった。
何故堂々とその施設を建てずに、『表向き』が必要であるのか?
藍自身がその事実を知ったのが、半年前、十一月のことなのだ。
その事実を知ったとき、藍は初めて祖父の恐ろしさを実感した――。
全ては、源一郎が孫である藍の為に、指示して造らせたものであった。
それは、半ばは確かに、純粋な愛情のなせる技であったのだろうが、残りの半分は、企業家の冷徹な打算のなせる技でもあった。
何故なら、日掛源一郎の唯一の子であった藍の父・裕一郎は、藍がまだ幼い時に飛行機の墜落事故で、その妻と共に不帰の人となっていたからである。
つまり、この強大の彼の王国を継ぐことが出来るのは、唯一残された孫娘の ”藍”だけであったのだ。
「お祖父様は……」
言いかけて止める。
「どうした?」
柏木が怪訝そうに訪ねる。
「ううん、何でもない」
そう言うと静かに目を閉じた。
体がどうしようもなく、だるかった。
自覚せざるを得ない体調の悪さ。
もうあまり、自分に時間が残されていない事を、藍は切実に感じていた。
――お祖父様は、私がやろうとしている事を知ったら、怒るのかしら? それとも、悲しむのかしら?
「所長!失礼します!」
不意に備え付けのインターフォンから、部下の声が響く。
「どうした?」
「それが……。雑誌の取材とかいう男が来ているんです……。『月刊ネイチャー・プラス、芝崎拓郎』と名乗っているんですが……」
その名前を聞いた藍と柏木が目配せしあう。
「それで?」
「藍お嬢さんの、知り合いだと言っているんですが、どうも妙でして……。『大沼藍』さんの知り合いだって言うんですよ」
「ああ」
答える柏木の声に、笑いの微粒子が含まれる。
「大沼はお嬢さんの亡くなった母君の実家だ。日掛の名前を出したくない時に、お嬢さんがたまに使っているんだ。心配いらない。そうだな、おそらくプライベートなお客様だから、こちらにお通しして」
柏木は軽く一つ息を吐くと、緊張顔の藍の頬をプニッと引っ張って、励ますように穏やかに微笑んだ。
「待ち人がやっと来たようですよ、姫」
藍は、その来客が入って来る筈の入り口を、黙ってじっと見つめていた。