空虚なる我が生涯
鍵のかかる扉を開いた、靴を脱いだ、君は死んでいた。
暖かだった身体は冷たかった。微笑んだまま、君の顔は凍りついていた。何かを言い残すように、口を開いていた。今朝まで、普通に生きていたのに。今はもう普通に死んでいる。
彼女の顔を久しぶりにみたのかもしれない、やっと気がついた。君が疲れてたこと、悩んでいたこと。証明は、最期の表情と、白紙の紙切れ1枚
傍らには、たった1枚の白紙が落ちている。最期まで、死ぬ理由を見つけられなかったのかもしれない。でも、生きる理由もきっとなかった。ただその人生には重い苦しみと不安があったんだと思う。
僕が見続けていた君は、「夢はいつか叶う、あきらめなければ」と。具体性のない歌を歌う君だった。僕が見ていたのは幻だった。
僕の人生は、ここから静止した。
それでも、時間は流れて行くもので。待ってはくれない。葬式を済ませたあとは、また当たりまえの日常は僕にも回ってくる。
働いて、食べて、寝て。つまらない、息の詰まるような円環の上を僕は漫然と歩いていた。
その中で、唯一世間の生き方と違うことは、ペンを手に取っていた事だ。僕が物書きになろうと思ったのは、つい最近の話だった。
空白を、空っぽの升目に流し込んでいく。自分の人生を少しでも価値のあるものにするために、何かを残すように。白紙を人生で染めていく。
周りにはバカにされた、くだらないと、おもしろくないと。それはそうだろう、君たちにはもう他の色があるんだから。自分を染めるような色は嫌だろう。
だから、僕みたいに、何者にもなれない人たちに。僕は書を送った。
タイトルは、「夢追人」。主人公の名前は君と同じだ。彼女の口癖は、「夢はいつか叶う、あきらめてはならない」。彼女がメジャーアーティストになるまでの、下積み時代を描く。
こうなればいいを、描き続けた。その度に、なぜこうならなかったが込み上げる。その怒りも書き殴った。原稿の上は、僕だけの空間だった。
僕は夢中になって書いた、仕事もやめた。僅かな寝食だけを続けて、ペンが折れる程熱中した。気が付けば、彼女の人生は終わっていた。
そのとき、やっと完成したのだと、確信した。
これは、こうなればよかった、という。僕の後悔と、望みの結晶だった。
僕はその作品を、出版社に持ち込んだ。久しぶりの太陽は驚くほど眩しくて、それだけで死んでしまいそうだった。
僕の原稿を見た人達は、皆一様に驚愕し、僕を賞賛した。そこからは一瞬だった、僕の作品は多くの人の心を打ち、震わせて。名誉と金が僕の手元に舞い込んでくる。
僕は増えていく数字を眺めながら、喜んだ。
やったぞ、僕はやってやった!
僕は間違っていなかった、間違っていたのは世界だったんだ。そんな世界も、手のひらを返し、僕を賞賛している。
なんてバカバカしいんだろうと、笑っていた。欠けていた僕を埋めるように、世界はあらゆる娯楽を提供した。
酒、タバコ、ギャンブル、女。なんでも出来た。
なんでも出来るのに、何にもならないのを感じた。結局の所、僕を埋めてくれるのは、そんなものではなかった。
「今、幸せです」
煌々と見える街のネオン、傍らで横になる美しい女。誰が見ても、成功者の人生、なのに別に、満たされていない。上辺の幸せや喜びは、心を埋めてはくれない。
僕はこの言葉に返す言葉を持っていなかった。彼女の名前すら知りはしなかった。彼女もまた、僕という人生において、固有名詞を持たない”彼女”でしかなかった。
そんなことにやっと気づいた僕、僕は元々、なぜペンをとったのか。
生きるため?いや違うはずだ、僕は。
”彼女の生きた意味を、死んだ訳を証明したかった”はず
僕にとっての生きた意味を、僕の知らない死んだ訳を。理解するために、はじめてペンをとったはずだった。
だったのに。なぜこうなったのか。
皆にわかって欲しい、彼女という存在が世界のどこかにあったのだと。なのに、何故?
僕は家に帰った、この場所は今でも時を凍りつかせているままだ。変わったのは僕の本が多くなったこと、そして君の服が減ったこと。
お揃いの白いマグは、一つだけ埃を被ったまま。君の匂いをまだ感じるほどに、君はまだ生きている。でも本当は死んでいる。
君は僕の物語で生きている、君はいなくならない。なのに、現実は非情な程に明らかだった。僕は分かっていた、僕は知っていた。
君がもう死んでいること、君の物語は君だけの物なこと。
僕が代わりに書くことなど、出来ないということ。
僕は泣き崩れた、ぜんぶめちゃくちゃにしたかった。書きかけの原稿も、くだらない夢物語も。でも出来なかった、自分の人生を否定はしたくなかった。
僕は、間違っていたのだろうか。結局誰も君のことを知ってはくれていない。僕が生み出したものは努力の報われたヒロインで、報われずに命を絶った君じゃない。
間違ってるのは世界だけじゃない、僕も、君も。
全員間違っている。
それでも生きている、自分の人生に妥協しながら。完璧なんてものが何処にも存在しないように、不完全なんてものも何処にも存在しない。
矛盾しているかもしれない、でもそういうものだ。
お互いの存在をぶつけ合って、消しあって、溶けていく。それが人間だ。
それならば、僕は人間じゃない。この空白をぶつけることが出来るのは、升目だけ。薄っぺらな心を無限の世界に投影して、そこに人生の意味を描いた。
馬鹿みたいに笑った、吐くほど泣いた、理不尽に怒りを向けた。そして最後に残ったのは、虚しい空白だけだった。まるで水面のように静謐とした、白。
僕の人生のすべては、君の遺した白紙一枚の価値には到底及ばなかった。それでも、君の遺した空白に意味を宿したくて、僕はペンを手に取った。
これは、僕の物語になる。主人公の名前は僕の名前だ。タイトルは。
「空虚なる我が生涯」




