第1章 その瞬間 午前11時52分…
第一章 午前十一時五十二分
霧ノ谷支局の空気は、土曜の昼前らしい緩やかな静けさに満ちていた。
三上遼は、取材メモを整理しながら、窓の外の青空をぼんやりと眺めていた。
秋晴れの光が机の上に落ち、紙の白さを際立たせている。
その光景は、まるで永遠に続くかのように穏やかだった。
その永遠は、十一時五十二分で終わった。
テレビの画面が、突然、異様な動きを見せた。
霧嶽山頂のライブカメラ。
白い煙が、画面の中央で“破裂するように”立ち上がった。
三上は、息を飲んだ。
煙はみるみる膨れ上がり、灰色に変わり、山頂を覆い尽くしていく。
その速さは、常識の範囲を超えていた。
まるで、山が怒りを一気に吐き出しているようだった。
「……噴火?」
呟いた瞬間、支局の電話が鳴り始めた。
一本、また一本。途切れることなく。
大畑デスクが受話器を取る。
「はい、信濃日報霧ノ谷支局です……え? 噴石? どこですか……?」
別の電話が鳴る。
「視界が真っ白で……」「助けてくれ……」「山頂に取り残されて……」
断片的な声が、支局の空気を切り裂いた。
三上はテレビに目を戻す。
噴煙は、まるで生き物のようにうねり、空を呑み込んでいた。
山頂の小屋も、登山道も、すべてが灰色の渦に消えていく。
胸の奥が、冷たい手で掴まれたように強張った。
――これは、ただの噴火じゃない。
三上はカメラとノートを掴み、支局を飛び出した。
外は、嘘のように静かだった。
秋の陽射しが眩しく、空は青く澄んでいる。
だが、遠くの霧嶽の上空には、黒い噴煙が広がり続けていた。
車に乗り込み、エンジンをかける。
無線を入れる。
「こちら三上。霧嶽噴火、現場に向かいます。山頂付近に登山者多数との情報。警察・消防は状況把握中」
無線の向こうで、大畑が短く息を呑む音がした。
「三上、気象庁がレベル3を出した。火口周辺警報だ。四キロ以内は噴石の危険がある」
「了解。山麓で止めます」
アクセルを踏み込む。
道路はすでに渋滞し始めていた。
観光客が空を見上げ、スマートフォンを掲げている。
ラジオが緊急ニュースを繰り返す。
『霧嶽で噴火が発生しました。噴煙は二千メートル以上に達し……』
三上は唇を噛んだ。
――時間が速い。
――なのに、思考だけが追いつかない。
胸の奥に、冷たいものが広がる。
それは恐怖ではなく、もっと深い、もっと静かな“予感”だった。
霧嶽高原センターが近づくにつれ、
空気が変わった。
焦げたような匂いが風に混じり、
空は灰色に濁り始めていた。
駐車場にはすでに救急車が並び、
灰にまみれた登山者が次々と運ばれてきていた。
三上は車を降り、カメラを構えた。
「真っ暗になったんです……」
「音がしなかった……」
「逃げる暇なんて……」
震える声が、耳に刺さる。
三上は、胸の奥がさらに冷えていくのを感じた。
――この一日は、終わらない。
――そして、終わったとしても、元には戻れない。
背後で救急車のサイレンが鳴り響いた。
その音は、これから始まる“凍りついた一日”の序章にすぎなかった。




