9-3 人間であることの証明
私は、しばらくの間言葉を失った。
栗色の美しい長い髪に、儚げな瞳。初恋の姿が、すぐ目の前に立っている。私は、数年前の砂浜での一件以来、初めて会う彼女の姿に圧倒されていた。
私の理想の母であるアンジェリカ。彼女をこうして数年ぶりに間近で目にすると、言葉では言い表しようのない切ない感情が胸を伝った。
「いつの間にか、あなたの方が私より年上になってしまいましたね」
その澄んだ声により我に返る。よく見てみれば、周囲は何も無い真白な世界だった。やはりここは、死後の世界なのだろう。私がそう思うなり、アンジェリカが口を開いた。
「違うよ」
私は動揺した。彼女には、私の思っている事、考えている事が筒抜けなのか。いや、それよりも、彼女は今違うと口にした。という事は、私はまだ死ねていないという事か。
「そうだよ。あなたはまだ死んでない。私達と違って。わたしはアンジェリカの魂の残滓、言うなればユーレイのようなものだけど、ずっとあなたを見続けてきた。初めて会った時のあなたが少し気がかりで、魂の本体が無に帰った後、ずっと見ていたの。気づいたかしら?」
やはり、またアンジェリカが答えた。
私は絶望した。やっと死ねたと思ったのに。ルーカスのいない世界などなんの意味も無いのだから。そこで、私はルーカスの死を鮮明に思い出した。冷たい頬の感触を、未だに覚えている。怒りが私の中を侵食する。
彼女の娘のせいで、ルーカスは死んだも同然なのだ。私を見ていたのなら、何故、あの無邪気な悪魔を放っておいたのか。そう糾弾しようとするも、先に口を開いたのはアンジェリカだった。
「残念だけど、あの子は、母親である私でも手に負えないの。あの子の無償の愛への欲求は増幅していくばかりだし、何よりこの通り、わたしはただの魂の残り香でしかないから……。ただの埃が、大きなガラクタを処理しようとしたってどうにもならないでしょ? それと同じ。……ガラクタと表現したのは、さすがにあの子に対して酷かったかも」
「それに、ユリアンにも何もできなかった……」と酷く悔恨の念に呻く彼女。それもそうだ、元はといえば彼女がこの件の元凶なのだから。彼女が自殺なんて選んだせいで、ユリアンは復讐心に駆られたのだ。
「自殺なんてって、あなたも選んでたじゃない。それも叶わなかったけれどね」
アンジェリカは、可笑しそうにふふっと笑った。そこに悪意は感じられず、まるで無垢な子供のような愛らしさがあった。そして、ふいに彼女は真剣な眼差しで私を見た。だが、その瞳には優しさが滲んでいた。
「あなたは今まで夢を見ていたの。それはもちろんここのことではなくて、あなたがある時期を境にあの記憶を封印し、自ら狂気にのみこまれていった……これまでの数年間のこと」
そうだ。私は自ら狂気にのまれる事を選んだのだ。何せ、人は正常なまま狂えない。それは自我の崩壊を意味する。ならば正常を捨てて狂気へと走ってしまった方が、何倍も楽だったのだ。
「けれど、人はいつか夢から覚めければならない。永遠に夢から覚めないということは、死ぬということでしょう。以前のあなたは半ば死んでいながら、死を渇望していた。それに今もそう。でもね、アンナ。夢から覚めて現実で生きた人間にだけ本当の死は訪れるの。幻想に支配されたまま死を迎えた私が言えることでは、ないのだけれど。でも、だからこそ私は、アンナにはきちんと生きていて欲しいって思ってしまうの」
何を身勝手な。私の命は私が勝手に使って良いのだ。それに私にはもう生きる意味さえもない。そう、生きる意味さえ。そう思った瞬間、何故か心中が焦燥に駆られた。まるで大切な何かを忘れてしまっているかのような。
アンジェリカは、言葉を口にできない私になおも構わず語りかける。
「死んだら無に帰れるわ。みんな虚無になって、一緒になるのよ。もちろんそこに私もあの人もいるよ。だから、アンナが本当に死んだら、私とあの人と永遠に一緒にいられるの。でも、あなたは生きなくてはならない。今ここにいるあなたは分からないかもしれないけれど、元に戻ったらきっと分かるはず。あなたが普段思っていたとおり、死はいつだってあなたの中からあなたを見守っているの。現世を精一杯生ききったあなたの姿を見ることを望んで。だから私たちはずっと待っているわ。これでもかっていうくらいに一生を謳歌したアンナの姿を待っているから。もちろん、あの人も一緒に」
死はいつでも私を見守ってくれている。彼女の言葉は綺麗事にも聞こえたが、それと同時に、確かな力がこもっているようにも聞こえた。人は生きている限り死が付き纏う。故に、孤独ではないのだ。他者に拒絶されようとも、死だけは、我々を突き放したりしない。だが、それよりも彼女の言葉の最後の部分に私の心は引き寄せられた。
「――待って、あの人ってもしかして」
私の口から思わず言葉が出る。だが、それに答える事なく、アンジェリカは淡く微笑むだけだった。やがて、アンジェリカは光に飲まれて私の前から姿を消した。そして彼女を飲み込んだその光は、私まで覆った。その光は、まるで私を祝福するかのようなぬくもりに満ちていた。
小鳥の囀りが聞こえる。瞼の裏が陽光により淡い緋色に染まる。全身が痛みを訴える中、私は恐る恐る両の瞳を開いた。視界に映るのは、意識を失くす前に見た光景と同じ、緑の海だった。ぼうっとする頭の中で、何となしにこの場所で息絶えたかつての友人エマを思い描いた。未だに彼女の事は完全に好きにはなれない。
だが、エマへの恨みはとうに無く、むしろ自責の念があった。もしもあの時、エマを救えていたなら。そうしたらエマは、また私と友人になってくれたのだろうか。そして母も私を殺人鬼とも思わなかっただろう。そして、もしかしたらルーカスも死なずに済んだのではないだろうか。
全ては連鎖していた。あのエマ達の死から、全て繋がっていたのだ。私は人間不信に陥り、母は私を殺そうとする。そしてそんな私が母を殺し、逃亡先で出会った――いや、呼び覚ましてしまったのが、あの無垢なる悪魔、カーヤなのだ。
カーヤさえ呼び覚まさなければ、ルーカスは未だに生きていた事だろう。おそらく、カーヤがユリアンと繋がりを持ち始めた頃から、ルーカスの死は確定していたのだ。いや、もしかすると、カーヤを呼び覚ました時から既に決まっていたのかもしれない。
覚醒した時から鳴きやまない小鳥たちの声が、頭上で響き渡る。そういえば、いつかの朝に見た大量の鳥の夢があまりにも感動的で、まるで祝福を受けたかのような気分になったんだっけ。あれは確か、まだルーカスの大きな住居に居候させてもらっている時の事だ。あまりにも嬉しくて、珍しく早い時間から鳥の彫刻に取り掛かった事をよく覚えている。それから後の事は、あまり嬉しくない事だったけれど……。
唐突にあの日々への郷愁が、胸中を駆け巡る。私は、半ば吸い寄せられるように、ポケットの中のものを取り出した。
そして封筒の中に仕舞われた手紙を開く。自然と目が追うのは、以前読み続けるのを躊躇った箇所からだった。
どうしてか、私の意識はそこへと引き寄せられた。
ここまで書いておいてなんて身勝手な、と怒るかもしれないが、それを承知で、ここから先は、自分の中の何かが壊れる可能性に耐えられる場合のみ目を通して欲しい。もしかしたら君にとって残酷な仕打ちになるかもしれない。僕を恨むことになるかもしれない。
それでもいいんだね、やはり僕の思った通り、君は芯が強い。では、遠慮なく僕の感じたままに話そう。君は人を愛せないと言っていたが、君が気づいていなかっただけで、君には人を愛したいという想いが確かにあった。僕のために化け物を演じた君が、そうまでした君が、本当に人を愛する心がないと? そんなわけがないだろう。
愛せないのではなく、どうやって愛すればいいのかが、あるいは、愛というものがどういうものなのかが、よく分からなかったんじゃないか。
でも、その愛というものが、僕に直接向けられたものだけでなく、他の何かに縋るようなものが混ざっているのを感じていた。僕個人としてはそのことについて不満は一切ない。でも、当の本人にとってはどうなのだろうと、それだけが気がかりだったんだ。
断定はできないが、もしかしたら君は、僕に、君にとって特定の大切な誰かを重ねていたんじゃないか。おそらく君は、その人間のことを忘れているんだろう。そのことに気がついていないようだったからね。
その人間が君にとってどのような人物だったのか、もしも思い出すことに拒否反応を覚えるのならこの手紙をすぐに捨ててくれ。だが、これだけは伝えたい。
その心に空いた穴つまりは君の言う欠陥、それこそが、君が他でもない人間であることの証明だ。
視界がぼやけてゆく。手紙を持つ手に水滴が滴り落ちた。次の瞬間には、私は子供のように大きな声を出して泣いていた。
これまで私は彼への想いに無自覚で目を逸らし続けていた。誰かを想う事程、怖い事はなかったから。それでも私はこの想いに向き合わなくてはいけない。何せ、私はこれまで自分を守る為に、自分自身の、それから彼との歴史を忘れ去っていたのだから。
私は、彼と出会えたおかげで今もこうして生きていられるのだ。その事実がある限り、私は何としてでも生き続けなければならない。だってそうしなければ、私は私の事を許せない。自分を生かしてくれた人物を裏切る事等できようはずもない。
けれど、やはり現実を見て生きてゆく事は恐怖が付きまとう。果たして、そういった時は彼の名を心の中で呼んでも良いのだろうか。あの輝かしい幸福な記憶を、幾度も思い出しても良いのだろうか。私の元から去った彼に対し、助けを求めても良いのだろうか。何より、この感情が本物であると、信じても良いのだろうか。
そのように想っていると、いつか言われた言葉が私の中で鮮明に蘇った。
「自分の人生は自らで創造しなさい」
それは昔、人気のない公園で老人の男性に言われた言葉だった。私は、軋む体を叱咤し、その場からよろよろと立ち上がった。そして駅の方へと歩き始める。その手には、ルーカスからの手紙が握り締められたままだった。
涙の乾いた頬にまたしても熱がつたう。その熱は静かに、けれど止まる気配なく溢れてゆく。それを拭う事も忘れただひたすらに歩き、久しぶりに見る故郷を後にした。
次回、エピローグとなります。




