9-2 リゼ・フリューリング
何も手につかない日々が続き、私は死んだように部屋のベッドに横たわっているだけの存在と成り果てた。その腕の中では、毎日変わらずに瓶が抱かれていた。その瓶が守っているのは、ひと握りの骨片である。一秒たりとも手放したくなかった。それにこれを抱き締めているととても落ち着くのだ。まるで、彼が私のすぐ傍にいるような気がして。
窓から見える風景は、海から変哲な住宅街へと変わっていた。私は、あの日故人の部屋を荒らした事により、民宿の夫妻に縁戚の家へと返されたのだった。あれから数日が経つが、ホルテから何通もの手紙が届いていた。私はその都度手紙に目を通しはしたものの、返事は書かなかった。書く程の気力が湧いてこないのだ。
そんなある日、いつものようにぼうっと窓の外を眺めていると、一通の手紙が届いた。またもやホルテからかと思いきや、匿名の手紙だった。なんでも、かつての勤め先であった民宿に、私宛に届いたものらしかった。それもちょうど、私があそこを去った直後に。どうやら、バルバラさんがこちらへ郵送してくれたらしい。私は、恐る恐るその封を切り、誰からのものかも分からない手紙に目を通し始めた。
そして、冒頭の文章を脳が処理するなり、私の心臓が大きく跳ねた。まるで、奇跡を目撃したかのように魂が震える。
おそらくカーヤは無償の愛というものに憧れていたのだろう。あの子をあそこまで怪物たらしめてしまったのは全て僕のせいであり、その責任から逃げるつもりは毛頭無い。
一瞬で分かった。この手紙を書いた人物は、私のよく知る相手だ。全身が総毛立つ思いに駆られながら、続きに目を通す。
共に暮らし始めたばかりの頃、君は自尊心というものが危ういまでに希薄だったことを覚えている。おそらく君は君自身が周囲とは異なる性質であることに幼年時から悟っていた為に、周囲から弾圧されずに生きていこうと自我というものを極力押さえつけ、他者にとって都合の良いように人形じみた振る舞いを心掛けてきたからだろう。それでも残酷なことに、欲望を抑圧する事は君にとって自我の封印と同義だった。それは苦痛という感覚が麻痺してしまうほどの拷問だったに違いない。
人間は皆、欲する何かがなくては空虚に耐えられない。種の存続が遺伝子に組み込まれていることからも明白だが、何かを強く欲してこそ生命力という強烈な個が根を張る我々は、焦がれることのできる対象を見つけられなければ、社会という檻の中で抑圧され続けた生慾を解放する快楽を味わうことの無いまま枯れ枝のように朽ちていくのみだ。
そのような、窮屈な小屋に繋がれる家畜同然の在り方を受け入れるなど、大概の者は許容できるはずもない。要するに人間は、たとえ君のように人を嫌い独りを好む者であろうと、内側から飛び出ようともがく欲望を他者に抱きしめて貰えなくては生きていけない。それを自分一人で抱えきるには非常に困難であることは君も痛感しているだろうから、それについては偉そうに説教垂れるようなことはしない。
誰かに自身の核を打ち明けることは一度は必ず踏みとどまってしまう程に恐ろしい。なぜならばそれは、赤ん坊のような裸の心を相手に投げ出すことに他ならないばかりか、そうしてまで魂を剥き出しにさらけだした結果が相手からの拒絶だったならば、たちまち自我は絶望から崩壊し息を立てなくなる。
それでも君は、僕に救済を求めた。幾度も君の心の中で震える手に握られた刃物で僕の砦を崩しその中で死守された魂を切りつけようと試みた。あれらの瞬間の君は、ようやっとこの世界に生まれ落ちようとし、どこまで続くのか見通せない闇の中を必死にもがいている最中だった。母胎から這い出ようと、そして自分を待ちわびている筈の親の声をその耳で直接聞こうとただひたすらに望む赤ん坊のように思えてならなかった。
もしかしたら、それが叶わなくて、あるいは、それを拒むもう一人の自分がいたのかもしれない。僕は君じゃないから完全には分からないが、君は何かを必死に追い求めているようだった。僕にあれほど執着心を募らせたのはなぜなのか、と以前聞いたが、君は苦しそうな表情をするだけで何も言わなかった。その時僕は思ったんだ。
ここまで書いておいてなんて身勝手な、と怒るかもしれないが、それを承知で、ここから先は、自分の中の何かが壊れる可能性に耐えられる場合のみ目を通して欲しい。もしかしたら君にとって残酷な仕打ちになるかもしれない。僕を恨むことになるかもしれない――
両眼から溢れる涙が一向に止まってくれない。久しぶりに彼からの言葉を聞けたような気がしただけで私は幸せでいっぱいだった。それに何より彼は、私の事を私以上に分かってくれていた、その事実により、暗闇で閉ざされていた私の世界に、暖かな光が差し込んだ。果たしてこれ以上の幸福が、これから先に訪れるのだろうか――そう疑ってしまうまでに、その威力は凄まじかった。
だがその反面、彼の言う“ここから先”に耳を傾ける勇気が湧いてくれなかった。私は、この言い表しようのない感動をそのままに閉まっておきたいが為に、続きに目を通す事なく手紙を封筒に戻した。
その出来事が主な原因だった。私は、それから故人の文章という概念について度々考えるようになった。そして気がついた事があった。この時初めて、文章というものは、“理解”というものに最適なツールだという事を悟ったのだった。
思えば私が読書が好きだったのも、心のどこかで他者を理解したいと思っていたからなのかもしれない。数年前、私がルーカスに自身の性癖を打ち明けた際、彼の提案により自覚した事を思い出していた。それは、いつしかもっと彼の事を知りたいと思うようになっていたという事。
今の私には、他にも知りたい人間がいた。いつから気になるようになったかは判然としないが、何故だか気がかりで仕方ないのだ。ただ、その人物を知るには相当な勇気が必要だった。何せ、互いに憎みあっていたようなものなのだから。
それでも私は、ルーカスからの手紙の衝撃が未だ胸に残っているあまり、衝動的に行動に移してしまった。世の中には知らない方が幸せな真実もある、それを頭の片隅で理解していてもなお、この衝動は抑え難いものだった。列車に揺られる事数時間、目的地へと到着した。もう何年も踏んでいない土地に郷愁を覚える。震える足を踏み出す私の手には、義母から与えられていた実家の鍵が握られていた。
実家へと向かう際、教会が視界に入り思わず気分が悪くなった。もしも、私のこの人生を、物語として創った存在がいるならば。そいつはとんでもない屑野郎だ。こんな残酷でくだらない物語のどこに意味を見出そうというのだろう?
そのように悶々としていたら、忌まわしい記憶の張り付いた建物との距離が徐々に縮まっていた。それに比例するかのように、私の両足は震えを抑えられなくなっていた。やはりまだ私には勇気が足りなかったのか。そう不安に駆られるも、震える足を叱咤し、数年ぶりの実家への帰省を果たした。
鍵を差し込む音がやけに大きく響く。重たい扉を開け、その向こうが顕になった瞬間、唐突に吐き気に襲われた。そして脳内を駆け巡るのは、深夜に涙を流す母、泣きながら私を抱き締める母、額から血を流し息絶える母――。今にも胃の中の物が激流しそうだった。そのような息苦しさの中、どうにか母の部屋へと向かう。血に濡れた忌まわしき家。公にはされていない殺人。不吉な要素ばかり詰まったこの家だが、何故だか私の胸には譲れないものがあるのだった。
鳴り止まない頭痛に苛まれながら、母の部屋の扉を開ける。扉から部屋の向こうが覗く瞬間、机に突っ伏す母の背中が見えたが、次の瞬間には消え去っていた。母の部屋に足を踏み入れる。頭痛はさらに酷くなってゆく。そんな私の中に、痛みだけではなく恐怖までもが生まれた。いや、より正確に言うならば、それまで無理やりに抑圧していた恐怖心が、一瞬にして全身に解き放たれたのである。
気づけば、私の身体は母の部屋の出入口に向いていた。今からでも引き返せる――そう、私の理性が訴える。だが、理性とはまた別の何かが、私の中で語りかけてきた。
一度与えられた灯火を簡単に手放そうとするな。
その声はもう一人の私の声のようにも聞こえたし、全く別の人間のものにも聞こえた。私は、ふいにポケットからあるものを取り出した。それは、縁戚の家に返されてから受け取ったルーカスからの手紙だ。あれからというもの、この手紙をお守りのようなものとして肌身離さず持っているのだった。
「お願い、どうか見守ってて」
絞り出すようにそう言うと、私は再び母の部屋へと向き直る。机の上には、以前見た恋人との写真がそのまま置かれている。その他にも、所々に生前母の好きだった生け花が置かれている。それらから察するに、おそらく母の部屋は、母が失踪扱いされた日から手を出されていない。つまりは、探せば探すだけ母の荷物が出てくるという事だ。
私は確かに覚えている。母は、何か書き物をしていた。幼少期、尿意で目が覚めた日に母の部屋を覗いた時があった。その時に母が泣きながら何かを記しているのを知ったのだ。それからも時折、母の部屋の明かりがついている時に扉のすぐ近くから耳をすましていた事が何度があった。するとしばしばシャープペンシルの芯を擦る音が確認できた。その事からも、母は何か書き物をしていた事が推測できる。
机の引き出しを上から順に開けると、一番下の段に、ノートが入っているのを見つけた。それを恐る恐る手に取ると、高揚感を覚えるのと同時に、恐怖が全身を駆け巡る。この中には、母の全てが書かれている。大学の論文でもない限り、文章は人の本質を表す。どんなに取り繕おうとしても、文章の中では己を完全に隠す事は不可能に近い。それが日記ともなれば、さらにそうだ。震える手で一ページ目をめくると、日付が書かておりその下に文章が綴られていた。
やはり予感は的中した。母が書いていたのは、日記だったのだ。私の内側を取り巻く恐怖がより一層濃くなる。先程も言った通り、日記ともなれば、人間の本質が見事に顕になる。誰にも見られない事前提で書いているのだから、それは当然だろう。
だが、いま私がしようとしている事はなんだ? 母が生涯隠していたものに目を通そうというのだ。それがいかに罪深い事か、理解していない訳では無かった。それよりも、知りたいという原始的な欲求の方が強かった。
最早ここまで来てしまえば、恐怖など麻痺していた。自分は己の使命を全うするだけの事。自分にそう言い聞かせながら、文章を目で辿る。まるで感情に任せて書いたかのような乱雑な字。もしかして母は、発散目的で日記を書いていたのだろうか。そんな折、ある文章に目がとまった。
もう私にはあの子を自分の子として愛せない。
何故だか、私は酷く動揺していた。母に愛されていなかった事は承知の上だ。なのに何故、今更になってこんなにも心が痛むのだろう? 悲しいといった感情ではない、別の何かが痛みを与えていた。
動揺を抑えられないまま、ページをめくってゆく。
あの子は悪くない。それはわかってる。なのに、どうしてもあの子を許す事ができない。こんな自分が嫌になる。だってあの子は被害者なんだもの。何も悪くないのに許せないだなんて、身勝手にも程がある。
――被害者? 私は、その言葉を目にした瞬間、これまで幾度も襲われた頭痛に苛まれた。この頭痛は警報だ。知ってはいけない事から、あるいは、思い出してはいけない事から、自身を守る為の。
それに直感が告げている。この先まで目を通してしまえば、警報を呼び起こす正体を知る事になると。尋常ではない痛みと恐怖で、ページをめくる手が震える。だが、その忘却した事実こそ、これまで私が無意識に求めていたものである事に間違いは無い。
よって私は、痛みと引き替えに、魂の灯火を失った。
悪いのは全部あいつ。あの男のせい。どうして私はあんな男と結婚してしまったんだろう。もし過去に戻れるなら、あの時の自分をなんとしてでも説得したい。だってそうしたら、あんな事が起こらずにすんだ。自分の娘が夫に弄ばれるなんて、そしてそんな娘に劣等感を抱くなんて。私はどうかしてる。アンナは悪くない。悪くないの。ただ父親の事が大好きだから、自分がされた事を責めてないだけ。でも、どうしてあんな事されたっていうのに、父親に会いたがるの? やっぱりアンナは異常だわ。父と娘揃って、異常なのよ。いや、違う。さっきも言ったじゃない。アンナはあいつに懐いてたから、純粋に会いたがってるだけなんだって。だからアンナは何も悪くないしおかしくもないの。おかしいのは全部あの男。でも、だったら、私のこの惨めな思いはどうすれば報われるの? ねぇ、誰か娘の愛し方を教えて。私はあの子を愛したいの。誰か、誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か!
その母の文章を目に通して、私は全て思い出した。記憶は断片的だが、確かに私の中に蘇った。父は病死ではなかった。ある日この家からいきなりいなくなったきり、戻らなくなったのだ。
そして、これまで思い出せなかった父の顔が、鮮明に脳裏に映る。私の童顔と黒い髪は父親譲りのものだった。そして私は母以上に父に懐いていた。そう、自分がいつも何をされているのかも知らずに。
これまで空白だった部分全てが埋まり、その困惑や、在りし日の出来事のフラッシュバックによる苦痛が降り注ぐ。上手く呼吸ができず、窒息しそうだった。もうこれ以上何も知りたくない。私の脳は自然と日記を閉じるよう手に伝令した。日記を引き出しの中に戻すと、数年越しに訪れた実家を後にした。
記憶の彼方に追いやられていた事実は、意外にもすんなりと腑に落ちた。それも、これまで頭痛が起こる度に感じ取っていた様々な物事への嫌悪感を考えてみれば、全て一直線に繋がっているように思えるからだ。
ただ、唯一衝撃的な事実があった。母は、あんなにも私の事を愛そうとし、苦しんでいたのか。何故だかその事実は、父に関する事よりも私の中で大きく蠢いていた。母は愛していなかったのではない、愛せなかっただけなのだ――そう思うとふいに、私の脳裏にルーカスの姿が浮かんだ。何故このような時に彼が思い浮かぶのか、私は意味がわからず焦燥した。
あの母の想いを知ってからというもの、何故だか彼が胸に浮かぶ。どうしてだ? いったい母と彼に、なんの関連性があるというのだ。
刹那、心臓が大きく跳ねた。その理由について自覚してしまったからだ。私はルーカスをより理解したいと、不気味な化け物から守りたいと願っていた筈だった。
それなのに、私は彼を壊そうとし、何よりそんな狂気的な自分を自覚していながらも、自制しようとしなかった。何故私は彼を破滅に追いやろうとしていたのか? それは彼が私にとって何か特別な存在だったからだ。そしてそれと同様に、母にとって私も特別な存在だった。
本当は、私も彼に憎悪を抱きたくなど無かったのだろう。なのに私は自分の事しか考えず、思考と感情は誤った方向へと空回りしてゆくのみだった。そうだ、ルーカスと出会ってからの私は母と似ているのだ。それでも母は、彼と同様にもうこの世には存在しない――私がこの手で殺めたから。
今になって悔恨の念が湧く。心臓が、棘だらけの蔓で縛られでもしたかのように痛む。次第にその痛みは増していくも、緩和法が分からず、私はその拷問に耐えるしか無かった。どうすればこの地獄のような痛みは終わる? 簡単だ。息の根を止めてしまえば、体は痛みを訴えなくなる。
私の世界が、突如光り輝いた。そうすれば、私はルーカスに会える。無の中で永遠に一緒にいられる。どうしてこのような素晴らしい事にこれまで気が付かなかったのだろう。
そう思う反面、果たして彼は、私の事を歓迎してくれるのだろうか、という疑念が湧く。何せ、私は彼に普通に接する事ができなかった。そうだ、私は人間じゃない。そんな私を迎え入れてくれる訳がない。それでも私の足は近所の森に向かっていた、一縷の希望に縋るように。
ここにも忌まわしい記憶は存在するものの、同時に彼と私を繋ぐ場所でもある。あの日彼が語ってくれた、あの夜の真相。エマ達の殺人事件。まさかあれがこんなにも愛おしいものに思える日がくるだなんて思いもよらなかった。
あの夜ルーカスは、本当は自決を試みようとしていたと語った。ならば私がそれを叶えよう、私自身を使って。この森には川が流れていた筈だ。水にずっと浸っていたら、凍死できるかもしれない。
迷う事なく足を進ませていると、息がしづらくなり、酸欠からか視界が朦朧としてきた。そして次の瞬間には、地に伏していた。どうやら石につまづいて転倒したらしい。起き上がる気力もなく、そのまま自身の浅くなってゆく呼吸音を聞いていた。
次第に意識は暗がりに飲み込まれてゆく。そうか、もうこの時点で私は死ねるのか。ならばもっと早く、ここに来るんだった――。
目が覚めた私の視界に入ってきたのは、非常に懐かしい人物だった。それにより、ここが死後の世界である事を実感する。何故ならば、今私の目の前にいる少女は、もう既に死んでいるからだ。
「久しぶり」
彼女――アンジェリカは、少し悲しそうに微笑みながらそう言った。




