9-1 私にとっての銀の鳥
私の世界から本当の意味で光が消え去ってからというもの、私はただ息をするだけの生活だった。精神を支配する絶望により仕事の効率も以前より格段に落ち、その上実質アルバイトが一人だけとなってしまった為――ユリアンは依然として部屋に引きこもっている為――バルバラさん達は経営困難に陥っている様子だった。バルバラさん達も私も新しいアルバイトが入ってくる事を切に願っていた。
昼休みが訪れる度に変わる事なくあの場所へと足を運んでいた。だが何故か、さざなみの音色が響くこの場所に彼の姿が現れる事は無かった。
まるで夢を見ているかのような心地で、私は地平線の向こうへと目をやった。そこにはただ、真っ青な水の塊と水蒸気が揺蕩う空が張り付いているだけだった。そのような伽藍堂な日々を送りながら、今日も眠りについた。
ふと暗闇の中で、銀灰色の輝きを認識した。私は、見覚えのあるその光の元へと向かう。その際、思うように足が軽く動いてくれなかった。
重たい足でようやく目的地へと到着すると、光の源はこちらを振り向いた。かつて幾度も脳内で思い描いた、可憐で美しい顔が、いつもの愛らしい表情で笑った。そして彼女は口を開いた。
「るーかすとね、ようやく永遠に一緒になれたの」
瞬間、彼女の姿は知らない少女のものとなった。先程と比べると素朴ではあるものの、平生でいる事を許さない程に、郷愁が全身に流れた。僅かに癖毛のある栗色の髪に、緑のさした柔らかな茶色の瞳。それはまるで、私の中にいる特別な二人が合わさったかのような容貌だった。
懐かしい電流が心中を駆け巡る中、瞬時にして周囲の暗闇は別の風景へと移り変った。そこは網膜に焼き付く程にもう何度も目にした場所だった。二つの蒼を横断する地平線、そして手前には一際大きな岩礁。その背後にある洞窟の中にあの少女は座っている。
暗がりが晴れて、ようやく気がついた。その少女の膝の上には、私の待ち人の頭が置かれているという事に。彼からはまるで人形のように生気を感じられなかった。少女は、依然こちらを振り向いたまま、幸せそうに笑っている。私は、二人の元へと手を伸ばそうとした。だが、風景は再び暗闇に飲まれていき、二人を攫い遠くへと収縮していった。
心中に絶望が広がると同時に、私の意識は覚醒する。先程の夢のままに、私の右腕は宙へと伸びていた。それを認識した瞬間、先程の夢が鮮明に脳裏に蘇り、嫌な予感が襲う。
着替える暇もなく急いで部屋を出た。就寝中のバルバラさん達の事等お構い無しに、走って民宿を出る。外はまだ夜闇に包まれており、雲の間から月光が淡く降り注いでいた。
ひっきりなしに脳に流れる伝令のまま、寒い夜の下を駆ける。肺が冷えて凍えそうなのもお構い無しに、私は走り続けた。目的地まで然程遠くない筈なのに、不思議といつまで経っても到着しないような感覚に陥る。永遠と続くように思われた迷宮を出るのと同時に、眼前に目的地が見えた。砂浜に足跡を残しながら、いつもの待ち合わせ場所へと向かう。
ようやっと着いたと思いきや、さざなみの叫び声が鼓膜中に鳴り響いた。以前花束が供えられていた小さな洞窟の中には、先程夢に見た光景が広がっていた。
そこには、心中で何度も再度私の前に現れる事を願っていた人間が横たわっていた――ただ、彼は全身に油のような液体を撒かれており、顔には生気が宿っていなかった。そしてそんな彼の頭を、可憐な銀色の妖精が、その小さな膝に添えていた。
「あんな、来たんだね。あのね、やっと私の願いが叶ったの。ほら、見て見て!」
銀の妖精は、場にそぐわないどこまでも愛らしい笑顔でそうはしゃいで見せた。
私の脳内は瞬く間に漂白され、胸中にもその白が浸透してゆく。最早、怒りや悲しみ、そういった感情が生じる事は無かった。目の前の悪魔の言動が理解できず、ただただ呆然とするだけである。唯一理解できる事は、この怪物を呼び覚ましてはいけなかったという事だけ。
何故、彼はこのような寒い所で眠っているのだろう? 何故、彼女はこんなにも嬉しそうなのだろう?
ろくに稼働しない脳がそういった疑問を呼び起こすも、すぐにそれらの疑問は解消した。カーヤが、ルーカスを殺したのだ。ルーカスの左脚にある深い切り傷と、落ちている血で濡れた刃物がそれを物語っている。
私は、生気を失った彼の前にしゃがみこむ。ガソリンの臭いが鼻孔を刺激した。その嫌な臭いに動じる事なく、彼の鼻に手を近づけた。本来暖かい息が放出される筈のそこからは、何も反応が無かった。今度は胸元に手を添えた。本来一定のリズムで動く筈の臓器は、その機能を放棄していた。ルーカスは穏やかな表情で眠っている。まるで何かに安堵しているかのように。
私は、悪魔の存在も時間も忘れて長い事彼の寝顔を眺めていた。薄暗い洞窟内を照らす光の源が、月から太陽に変化した事にも気付かずに、何かに取り憑かれたかのように彼の寝顔を見つめていた。この時の私は、さながら例の銀の鳥の童話に登場する猟師そのものだった。いや、もしかしたら、初めから私は猟師であり、追い求めていた絶対的な幸福の証は、ずっと身近にいたのかもしれない。
私は、何故か自然と虚空を見た。さざなみがやけに大きく耳に届いた。そして気づけば落ちていた刃物を手に取り、すぐ近くで微笑む銀色の悪魔の首目掛けて振り下ろした。何回も何回も振り下ろし、切り刻もうとした。だが、銀の悪魔は何度切られても瞬く間に元の姿に戻り、可笑しそうに笑う。
「変なの、あんな。わたしはもう生きてないから、るーかすみたいに生きてないようにはできないよ」
「消えろ。今すぐ消えろ。この父親殺しの化け物が」
言葉にすると、もう彼がこの世に存在しない事に対しさらに実感が湧いてしまった。いつの間にか私の頬は熱いもので濡れ、喉は震えていた。揺れる視界の向こうで、平然とした態度で悪魔が口を開く。
「わたしじゃないよ。るーかすをこうしたのは、ゆりあんだよ。でもさっき、どっか行っちゃった。お礼まだ言ってないのにな」
そのカーヤの言葉を聞いた瞬間、私の手から刃物が落ちた。カラン、と乾いた音が何とも滑稽に洞窟内に響いた。そして脳内で、何かが弾けてはそれが私の内側を完全に焼却した。
「あ、あああ、あぁぁぁぁああ」
数十秒の思考停止の後、私の口からは声にならない嗚咽が漏れた。
奴の目的なら分かっていた筈だ。なのに私は、自分の欲求を満たす為に奴を野放しにしておいた。そうとなれば、最早この結果は、私が招いたも同義ではないか。
そうだ、分岐点ならばあったのだ。“このままでは僕だけじゃなく君までも危険な目にあう”、その彼の忠告を無視し、私を案じる彼を蔑ろにしたのは、他でもない私である。
最早私という個は果てしない悔恨の念に覆われ、息もできなくなっていた。この瞬間にも、じわりじわりと淀みのない絶望が私の全てを飲み込んでゆく。
「ままはね、るーかすとずっと一緒にいたいってずっと願ってたの。その頃からわたし、るーかすの事が羨ましくて仕方なかったんだ。ままに大好きでいてもらえていいなぁって。それで、ままは願いの為に命を失くす事を選んだの。だから、るーかすも同じようにままみたいに命を失くしてくれたら、わたしとずっと一緒にいれるかなって思ったんだ」
悪魔が何か語っていた。だが、今の私には何も聞こえてこなかった。だが悪魔を認識する事はできた。半狂乱に陥った私は、銀色の無邪気な悪魔に思わず掴み掛った。
その際、カラン、と何かが倒れたような音がした。音のした方に視線をやると、視界に飛び込んできたのはランプ――おそらくユリアンが持参した物だろう――だった。倒れた衝撃でランプのガラスは割れ、中で揺らめいていた炎が、辺りに撒き散らされていたガソリンに点火した。そして瞬く間に火は燃え広がり、ルーカスは紅い海に閉じ込められた。
私は、その炎を呆然と眺めていた。その炎はさながら、あの夜に起きたあの事件を想起させた。目に光のないエマ、そしてそんな彼女に燃え広がる赤い炎。私は、まるであの夜にタイムスリップしたかのような心地で、焼けただれてゆく彼を見ていた。
朝日が昇って間もない頃。肉の焼けこげた臭いと共に手押し車を押して山を登る。ルーカスの亡骸は案外軽かった。彼の亡骸をビニール袋に入れる際、銀色の悪魔に何か不満を言われたような気もするが、それはどうでも良い事だった。
崖の下を見下ろすと、真っ青な海が一面に広がっている。崖の先端まで手押し車を持っていくと、手押し車ごと海に投げ捨てた。幸い、手押し車も、その上に乗っていた死体もどちらも海の中へ沈んでいってくれた。崖の下を見下ろす私の視界の端に、一際大きな岩礁が映り込んでいた。
残ったのは、ひと握りの骨片だけだった。私よりも断然大きかった彼は、今となっては私の手の内に収まる程に小さな存在となっていた。私は、それを誰にも取られないよう、風に攫われてしまわないように、大切に抱き抱えながら元来た道を戻っていった。
民宿の自室へと戻ると、机の上に置き手紙があるのに気がついた。それに目線を落とすなり、私の頭はさらに真っ白になった。そこには、ユリアンが事故死した為、夫婦共々運ばれた病院へと向かったとの内容が書かれていた。そこで私は、僅かに我に返った。
「―――どうして……」
私は、気づけば呟いていた。
どうして、ユリアンは勝手に死んでいったのだ? 本来ならばあいつはそう簡単に死んでいい人間では無い筈なのに。私がこの手で苦しめて殺してやる必要がある人間なのに。なのにどうして、お前は知らない所で勝手に死んでいる!!
私は、骨片を机の上に置くと自室を後にし、ユリアンの部屋へと向かう。彼の部屋は綺麗に整えられていた。おそらく、奴自身が綺麗好きだったのだろう。
私は、ポケットにしまっていた乾いた血の付着したナイフを取り出し、それでこの部屋の全てを壊してやろうと試みた。ベッドや机、壁までも全て切り刻んでやりたかった。それでも、完全にこの部屋が壊れてくれる事は無かった。
瞬く間に胸中に果てしない虚しさが広がり、うずくまった。そしてその場でみっともなく泣き続けた。私の大きな鳴き声が、この建物内に響き渡った。
最終章始まりました。




