8-(4) 僕がいなくても君は * 8-ⅲ ユリアン
最近のカーヤは、以前よりも格段に上機嫌だ。それにより、さすがの僕でもいったいこの先何が待ち構えているのか察しがついてしまう。だが、恐怖はあっても不安はない。理由としては、先日、旧市街地の公園で遭遇した少女だ。
彼女はおそらく、自分に関する事でよりも、友人に関する事の方が感情を揺さぶられやすい類の人間だ。まさに貴重な存在と言える程に、彼女は友人想いだ。ならば彼女にあの子を安心して託せる。たとえ僕がいない世界でも、彼女がいてくれればアンナは独りで苦しまずに済む。
そこで僕はなんとなしに、自分は人任せにしているだけの卑怯者なのではないかと思った。確かに、僕は卑怯者かもしない。何せ、あのようにアンナに別れを告げたにも関わらず、こうして今未練がましく手紙を書いている。
手紙を書き終えると、郵便局で手配を済ませてからカーヤと共に旧市街地へと向かった。今日は、年に一度の音楽祭が開かれる日である。カーヤがどうしても音楽祭に行きたいと言って仕方なかったので、久々に足を運ぶ事にした。音楽祭の事を考えると、嫌な記憶が嫌でも蘇る。かつて、この世には知らない世界が存在するのだと思い知らされた瞬間の事。今にして思えば、あの時から僕の運命は決まっていたのかもしれない。
物事は必然であり、幾重にも積み重なりようやくその全貌を現す。故に、カーヤという存在が生まれてしまった悲劇は、あの頃から必然の事だったのだろう。
カーヤは、人垣に紛れながら一通り楽曲を聴き終わると、ここら辺を散策したいと言い出した。僕はもちろんそれに従った。カーヤは、自分に着いてくるよう言い、広場から離れていく。晴れていた空は徐々に分厚い雲により覆われ始め、足元を薄暗く照らす。対してカーヤは、人気のない場所へと歩いていく。その足取りは、まるでこれから楽しみが待っているかのように浮き足立っていた。
そして、人っ子一人いない寂れた廃墟の前で足を止め、小さく頷いた。
「うん。多分、ここで合ってる」
僕は、そのカーヤの言葉に対して、いったい何が、と聞こうとした。だが、それも野暮であろうと思い、開きかけた口を閉じた。いくら子供相手とはいえ、察している物事に対し問い掛けるというのは、いつだっておかしな話だろう。それが、確信している物事程余計に。
これでカーヤの“願い”も成就し、この世に縛られていた幼すぎる魂は解放される。それと同時に、アンナもカーヤという存在に思い悩む事も無くなる。僕のこの判断は、絶対に正しい筈だ。
僕は、曇り空を見上げた。まるでこの世で最後に見る空のようで、曇っているのにも関わらずいつも以上に美しく映った。驚いた。僕の中にはどうやら、まだこの世を想う気持ちがあったらしい。それが不安というのか、はたまた未練というのかは、今はどうだって良かった。ただ、この世に何か残せた事があるのならば、それはとてつもなく幸福な事だ。不純な経緯から生まれ、幾度も過ちを犯してきた僕が、もしも誰かを救う事ができるのならば、それは奇跡といっても過言では無いだろう。
こちらを振り向いたカーヤは、いつも通りの満面の笑顔で彼女の愛を語った。
「大好きだよ、るーかす。これからもずっと、大好き」
その無垢な笑顔の奥にどれ程の残酷さが隠れていようとも、僕は彼女を家族として愛していた。
ああ、僕もだ、と応えようと口を開こうとした刹那、全神経に強烈な痺れが走った。瞬く間に視界は暗くなり、一瞬の意識しか残さず、完全に脳は眠りに落ちた。
気がつけば僕はカーヤと共に、見覚えのある花畑にいた。カーヤは楽しそうに花冠を作っており、僕はそんな彼女を見守っていた。次の瞬間には、場面は切り替わり、僕の住む別荘にいた。そこには僕とカーヤ以外に、もう一人いた。アンナだった。僕ら三人は、ガーデンテーブルに腰掛け、各々本を広げていた。主に僕がカーヤに本の読み方を教え、時にはアンナが助太刀に入っていた。なんとも懐かしい光景だった。
すると、またもや場面は切り替わる。大学近くの公園にて、まだ文字の読み書きもできないカーヤに、僕はひたすら授業を行っていた。
どうしてこの頃から気が付かなかったのだろう。カーヤが、僕の実の娘であると。冷静に考えて、基本的に子供嫌いな人間が、特定の子供にだけここまで親身になるだろうか。おそらく、僕はカーヤと初めて出会った時から、潜在的な父性、あるいは無意識下での安心を覚えていたのだろう。
カーヤがアンナの幻覚だと勘違いしていた時も、不思議な能力を使えると知った時も、恐怖といった感情は何一つとして生じなかった。それは単に愛着が原因ではないはずだ。僕は愛着でそれらの要素を無視できる程、人間離れしていない。だが、それを可能にしてしまうのが、血の繋がりというものなのだろう。
またも場面は切り替わった。あれはもう何年も昔の事のように思えるが、同時に、つい最近の出来事のようにも思える。雑木林入口の周辺にあるベンチに腰掛けている僕に、背後からカーヤが話しかけていた。焦っている自分の姿が酷く滑稽に見えた。無邪気な笑顔で、カーヤが口を開いた。
「懐かしいね、るーかす」
その声を皮切りに、僕は現実世界へと帰還した。
僕の眼前にはカーヤの愛らしい顔がある。そして、後頭部周辺が枕か何かで支えられているかのような安定感があった。そこで、自分が地面に横たわっている事に気がついて初めて、カーヤに膝枕されている事にも気がついた。
見れば、胸元で両手は固定されていた。身動きしようにもうまくできない事から、足の方もどうやら固定されているらしい。
「ようやくお目覚めか」
声のした方を見やると、そこにはユリアンの姿があった。以前よりも相当やつれている。そして彼の背後には既に日が暮れた空と地平線が見え、大きな岩礁も見えた。波打つ音色が静かに鼓膜に響く。
覚醒したばかりの頭でも、ここがどこであるかは理解できた。ゴツゴツとした岩の天井。その岩の冷たさをそこかしこから感じる。それにしても、ユリアンは本当に良いのだろうか。こんなに大事な場所で、憎い人間を殺めるだなんて。
「ねぇ、わたしのお話し、聞こえてた?」
カーヤの声が頭上から響いた。
「わたしね、るーかすが寝てる間、ずっとこれまでの思い出話をしてたんだよ。すごく楽しかったよね。わたし、あんなふうにこの世界で嬉しい事がたくさんできるなんて、夢にも思わなかった」
成程、と納得した。僕が先程夢見ていたのは、てっきり走馬灯だと思っていたが、現実世界のカーヤの語りによって形成された世界だったらしい。
そう一人で腑に落ちていると、唐突に横腹を蹴られた。再度海の方に視線をやると、ユリアンが見下ろしていた。先程は気が付かなかったが、彼の眼は尋常ではない程に血走っている。まるで、憎悪の塊がそこにあるかのようだった。
だが、次の瞬間、その表情が悪意の笑みに歪んだ。彼は何やら赤い容器を手にし、愉快そうに表情筋を緩めながら、その容器の中に入っていた液体を僕へと注ぐ。油の臭いが鼻孔にまとわりつく。その臭いは、覚醒したばかりの頭を冴えさせるには充分なものだった。途端に恐怖が渦巻く。そしてそんな自分が何とも滑稽に思える。やはり僕は、未だに訪れるであろうものが恐ろしくてたまらないのだ。あの森で銃口を咥えた時となんら変わりない。
ユリアンは、早く終わらせてしまえばいいものを、相変わらず怪物のような醜い笑みを崩さず静かにゆっくりと容器の中の液体を僕の全身に注ぐ。その間、僕の脳内では、数年前に自身で引き起こした森での銃殺事件の時の映像が、走馬灯のように流れていた。そんな折、愉しそうに液体を注いでいるユリアンが口を開いた。
「これが何か分からない程馬鹿では無いだろ。何せお前は立派な学校に通わせて貰えるような博識な坊ちゃんなんだもんな」
僕は、黙ってそれを聞いていた。不思議と、それまで胸中に蔓延っていた恐怖が薄らいでいる。
「生きながら燃やされるって、どのくらい苦しいんだろうな。お前、知らない?」
僕は、淡々と「きっととてつもなく苦しいんだろう」とだけ答えた。早く終わらせてくれないものだろうか。いや、それは彼の狙いと反するのか。おそらくユリアンは、僕を恐怖でじわじわと追い込みながら殺したい筈だろうから。それが僕の受ける当然の報いだ。何せ僕は、何人もの人間の人生を狂わせている。むしろ、このくらいの罰では甘い方だ。
ユリアンは、僕の態度が気に入らないのか、再度横腹を蹴ってきた。彼を見上げると、前髪にかかったガソリンが滴り落ち、右目に激痛が走った。
「なんなんだよお前、気持ち悪いにも程があるんだよ。今から死ぬんだぞ? 怖くないのかよ? 助けて欲しくないのかよ? ――だから、その気味悪い目をやめろ!」
ユリアンは、それまで楽しげだった表情を怒りと焦燥の色に染め、叫んだ。対して僕は、その彼の激昂にも冷静に答えた。それで更に彼の腸が煮えくり返ってくれる事を望んで。更に惨い罰を僕に与える事を祈って。
「当然の罰だ。それで君の気が済むのならそうすればいい」
僕がそう言うと、ユリアンは怪獣のように怒鳴り始めた。最早その瞳には、人間の理性が感じ取れなくなっていた。憎悪という怪獣が、ただそこにいた。
「――ふざけるな! お前はいつもそうだ、上から目線で、いつも自分より下な貧相な人間を見下してるんだ! その傲慢さで姉さんを殺した癖に、今もそうだ! お前は天性のクズなんだよ、人を殺しておいて何も感じないクソ野郎だ! その上、自分が殺されるのも何も感じない。異常者め、クズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめクズめ!!」
彼の狂ったような訴えにも似た叫びを、僕は静かに聞いていた。両の瞳で真っ直ぐに彼を見据えた。充血したユリアンの目と合うと、彼はまるで化け物を見るかのような恐怖の入り交じった表情となった。そして容器を落とし、代わりに何かを手に取った。
「うッ」
刹那、左脚に衝撃が走った。数秒の後、とてつもない激痛が襲い来る。揺れる視界を脚元にやると、大動脈の辺りが刃物らしきもので切られていた。どくどくと血液が溢れ始め、とても止まる気配がない。傷口にガソリンが滲み、とてつもない激痛が襲う。
「どうだ、痛いか、辛いか」
愉快そうな、だが同時に恐怖にも満ちたユリアンの声が耳に届く。だが、その発言は僕ではなく彼自身に向けられているもののように思えてならない。何故なら彼は、今も憎悪という名の悪魔に蝕まれているのだから。
「君の方が、辛そうに見えるけど」
その為僕は、息も絶え絶えにそう答えた。
すると、彼は途端に硬直し、手にしていた物を落とした。落下した際の音から察するに、やはり手にしていたのは刃物の類だろう。その音は、哀れな程に乾いて洞窟内に響いた。
「辛い? そんな訳ない、そんな訳ない。これでようやく俺は、僕は救われるんだ。この数年間、僕を蝕んできたいくつもの呪いから!!」
叫び声が傷口に響き、余計に激痛を引き起こす。それでもお構い無しに、ユリアンはまるで何かに取り憑かれでもしたかのようにまたも叫ぶ。
「全部全部お前のせいだ、姉さんが僕に呪いを残して死んだのも、僕の醜い感情が尋常じゃないほど溢れ出すのも!!! お前さえいなければ、僕は人殺しになんてならなかったんだ!!!!」
あまりの出血量に、もう彼が何を言っているのか、具体的に認識する事ができなくなりつつあった。代わりに激痛が薄らぎ、それと並行するように意識も薄まってゆく。
「誰か、誰か僕を解放してくれえぇぇぇぇえええ!!!!」
朦朧とした意識の中、誰かの叫び声が遠ざかってゆく。
そして、誰かの、胸が暖かくなる見知ったような声が、完全に意識が途切れるまで頭上から降り注いでいた。やがて辺りは暗闇に包まれ、極寒の中にいるかのような寒さが訪れた。それでも、最後の最期まで、よく知る無垢な声は僕に語りかけていた。
一瞬、暗闇の中に一人の小柄な少女が見えた気がした。僕は、暗闇の中その少女へと腕を伸ばした。だが、その少女は僕に背を向け、遠くの彼方へと走っていってしまった。何故だか僕は、その光景に酷く安堵感を覚えたのだった。
* * * * * * *
夜闇の下ひたすらに駆ける。脳内は混沌と化し、感情はごちゃ混ぜのパレットのように様々なものが勢いよく散乱し、最早自分がいったい何者であるかさえも分からない。
ただ一つ、正確に認識できるものは、先程殺めてきた男への溢れ切れないほどの憎悪だった。
あの男は、僕が持っていないものを大量に手にしていたにも関わらず、僕の世界で一番大切な人まで奪いやがった。地位、金、教養、それら全てを既に手に入れていた癖に、何も持たない僕から姉さんを奪った。それも卑劣なやり方で。どこまでも世界というものは不公平だ。
どうして姉さんは、僕/俺よりも、あんなふしだらな男を選んだんだ? お願いだ、姉さん、どうかもう目を覚まして。
「ああ……」
僕は、思わず安堵と歓喜の入り交じった声を漏らした。
どうやら、僕の祈りは届いたらしい。眼前に見える道路の向こう側に姉さんが立っていた。姉さんは、よく見せる優しい笑顔を浮かべていた。
ああ、姉さん、これでようやく僕の物に……。
僕は、歓喜に打ち震えながら姉さんの元へと駆け寄った。
すると、甲高い音が響き渡り、気づけば全身が猛烈に動く何かに打ち付けられ、宙を待っていた。地面へと落下する最中、先程姉の姿が見えた所へと視線を配る。だが、そこには誰も立っていなかった。
そして僕の身体は激しく地面に打ち付けられた。どこまでも広がるアスファルトに、赤い液体がつたっていった。もう姉の気配はどこにも感じられなくなっていた。
次回から最終章です。どうか最後まで見届けていただけたら幸いです。




