8-7 いかないで
いつも通りに昼休みがやってくる。
今日も、ユリアンという隠れ犯罪者は部屋にこもったまま出てこない。何故だろう。私は確かに、彼に伝えたはずだ。彼の罪を許し訴えないと、それどころか、肯定しこのまま過激な方法を利用しても構わないと。
もしかすると、犯罪に手を染めた者は、いつ自分の罪が想像だにしていない事態により暴かれるかの不安に駆られ、どうしようもなくなってしまうのかもしれない。これまで読んできた犯罪系の小説で、そういった描写は特段珍しくなかった為、すぐに腑に落ちた。
試しに、休み時間が始まってすぐにユリアンの部屋をノックし、扉の向こうに声をかけてみた。扉に耳を添えると、向こうから微かに息を飲む音が聞こえた。それからも何度が声を掛けてみたが、依然として反応が無かった為、その場を離れた。
今日も、ルーカスは私よりも先に待ち合わせ場所にいた。最近の私は、生きていてこの時間が最上の時間に思えた。歩く足はつとめて静かに、胸の高鳴りを悟られぬよう、冷静を装い彼と落ち合った。
もう私の頭からは、先日の友人からの忠告など消失していた。今の私には、彼さえいてくれればそれで良いのである。
だが、彼の顔を見上げてすぐに全身が違和感を訴えた。
ルーカスは、普段の穏やかな様子とは打って変わり、神妙な面持ちで私を見下ろしていた。
「何、その顔」
私は、思わずそんな態度の彼に反発していた。
これまでも何度か突き付けられた事のあるその表情。まるで、別の世界から私を見ているかのような、どこか遠くに感じる表情。まるで、私を諭そうとするかのような、上から目線の表情。私は、そんなルーカスの顔が大嫌いだった。
しばらく睨み合っていると、ルーカスが重々しく口を開いた。
「以前君は、僕が何も言わずに離れ、会いにいかなかった事に対して酷く怒ったね」
「今更そんな事どうしたっていうの? 何で今そんな事言うの」
「これからもう君とは会わないと、こうして直接伝える為だ」
彼のその言葉を脳が認識した瞬間、私の口から声にならない空気が漏出した。
「なんで、」
いきなりそんな、と続けようとしたが、喉がつっかえそれが声となって外界に出る事は無かった。一瞬にして脳内は漂白され、思考という行為を完全に忘れさる。嘘だと思いたかった。だが、ルーカスの瞳が、先程の発言が真剣なものであると物語っている。
私は、しばらくヒトではなくそこら辺に生えているであろう草だった。そして徐々に現状が現実味を帯びてくると、私の内側に最も大きく生じた感情は怒りだった。
「ふざけるな! お前は私の奴隷なんだ! 私があんたのせいでどれだけ傷つけられたか前に言ったの覚えてるでしょ!? そうだ、お前は私の人生を狂わせたんだ! だから生涯私に贖罪し続けなきゃならない、だから離れるなんて事は許されないんだ」
口から出てくるのは、もはや言葉ではなく感情そのものだった。
「それにお前のせいで本来の私は死んだんだ。私はもう、血に惹かれない性質に変わってしまった。お前が本当に私に対して悪いと思ってるのなら――殺された本来の私を生き返らせてみろよ!」
私は、ルーカスに掴みかかると彼の頬に思い切り爪を立てる。すると、傷口から真紅の液体が滴り落ちた。だが、悲痛にも、私の魂はその赤色に反応する事はなかった。あれ程焦がれた瞬間を今目の前にしようとも、胸中に満ちるのは快楽ではなく空虚だった。
悔しさで今にも涙が溢れそうだった。どうして私は変化してしまったのだろう。以前のような悦楽を感じる事ができない等、もはや私では無いではないか。
すると、ルーカスは頬の痛みに眉をひそめながらも、口を開いた。
「……血を見ても何も感じない今の君も、血に異常な執着を見せる昔の君も、僕にはどちらも同じ人間に見えるよ」
何故か彼の表情は、どこか寂しげであった。その慈愛に満ちた表情が余計に私の神経を逆撫でする。
「そんな訳ないだろ、全然違う。今の私は、抑圧されてた数年前の私よりも生ける屍同然だ」
私は、彼のあまりの綺麗事がさらに癇に障り、糾弾した。それでも、私の糾弾など無かったかのように、ルーカスは酷く冷静に語る。
「どうしてだ。最近の君は、以前よりもずっと人間らしいじゃないか。僕と出会ったばかりの君は、おそらく僕をどうにか欺いて利用しようとしていたんだろうけど、今は違うだろう。真正面から君の想いをぶつけてきてくれるようになった。僕にはそんな君の姿が――」
それ以降、彼は言葉を続ける事を躊躇い、続けなかった。だが、すぐにまた口を開いた。
「変化は確かに怖い。なぜなら変化は他者によって自己が育まれていくようなものだからだ。でも、だからこそ僕らはそれを受け入れて前に進んでいかなきゃならない」
「そんな必要どこにあるの。少なくとも、私にはそんなの必要ない」
私は、すぐさま反論した。だが、彼も間髪入れずに答えてきた。
「あるよ。だって僕は、それで幸福を感じたから。僕を変えてくれたのは他でもない君なんだよ、アンナ」
私は、彼の言葉を聞いてなおさら分からなくなった。
ならばどうして私から離れようとするのか? もう彼にとって、私は役目を果たした為いらないという事か?
思考を巡らせればするほど、脳は不可解の海に溶けていく。それと同時にどうしようもない怒りが全身のあちこちで煮え滾り、爆発する。
「なら、あんたに幸福を与えた相手を捨てる事はどういう意味なんだよ。もうお役御免って事? つまりあんたは、結局私を、最初から最後まで都合の良いように利用してただけなんだ」
最早、堰を切ったように溢れ出るこれを防ぐすべなど存在しない。彼はまたも裏切るつもりなのだ。いや、またも裏切ったのだ。そんな事は許されない。何故なら彼は、私の人生を大きく狂わせた元凶な上――替えのきかない人間なのだから。
それでも、私の感情の弾丸等お構い無しに、ルーカスはつとめて冷静に語る。果たしてこの男は、私にどれ程残酷な仕打ちをしているかという事を、理解しているのだろうか。
「君は長い事呪縛に囚われ続けていたんだ。今もそう。君にとって僕という存在は、呪いそのものなんだ。だから君が何と言おうと、どれだけ僕を罵倒しようと、どれだけ君を傷つける事になろうと、僕は先程の発言を取り消さない」
彼は、魂を射貫くような真っ直ぐな瞳で、何の躊躇いもなくそう言い放った。
対して、私の喉は震えたまま、その役割を果たさない。
私の身体は、崩れるようにしてそのまま深く落ちてゆく。底なし沼に落下したかと思いきや、幸い、真後ろにあった岩礁が椅子の役割を担ってくれた。脱力しきった身体は、私の精神と同様に崩壊したのである。やけに大きく響く波の音に鼓膜を壊されそうだった。脳内でぐるぐると、つい先程彼の言った事が反芻される。
思考もままならなかった脳が機能を取り戻し始めると、私の両目からは冷たいものが自然と零れ落ちた。まるでどの世界からも私の居場所が消失してしまったかのような暗闇が私の内側を覆った。
だが、突然暖かな灯りが灯された。気づけば、私の体は他の人間の体温によって温もりを与えられていた。これまで何度も感じた事のある感覚。だが、そんなもの今の私には、気休め程度にしかならない。
「大丈夫、今は信じられないだろうけど、君は独りじゃない。僕なんかいなくても君は充分一人で生きていける」
嘘だ、そんなのは単なる綺麗事だ。第一、私はそんなに強い人間じゃない。そう反論しようとしても、唇は一向に動く気配を見せない。だが、そんな固まった唇に、柔らかなものが重なった。そしてそれは次の瞬間には遠くのものとなってしまった。
「これは家族からの別れの挨拶だ」
そうして彼は体を私から離すと、私の両手を握り締め、俯いた私の顔を覗き込むようにして、一方的に語り続ける。
「これまで辛い思いをさせた事について改めて謝りたい。それどころか、これからしばらくはまた傷つくだろう。それについても同様謝るよ。それでも僕は君に礼を言いたい、身勝手なのは承知の上だ」
その先を口にされるのはあまりにも恐ろしく、私は心中で必死に言うな、と懇願する。だが、それも虚しく、彼は私の内側で溢れる恐怖の証明となる言葉を口にした。
「これまで僕の傍にいてくれてありがとう」
意味わからない。やめて。離れないで。どこにいもいかないで。捨てないで。そう言い返したいのにも関わらず、私の口は未だ思ったように動いてくれない。もしかしたら、先程唇に触れたものによって喋る事のできない魔法をかけられてしまったのかもしれない。
私は、ただただ涙を流す事しかできないでいた。おそらくこの涙は、背後に広がる海よりも余程冷たいことだろう。
しばらくの後、彼はそれまで握り締めていた私の両手から手を離し、踵を返した。そしてそのまま振り返る事なく、さざなみの響き続けるこの場から、姿を消した。私の前からも、永久に。




