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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: ちゅんぴ
第8歌 蝕む呪縛
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8-① 無意味なカウンセリング

「今日もありがとうございました」


 私は、そう言って会釈すると、カウンセリングルームを退出した。

 こうして町の相談所に通うようになったのは二年程前からだ。アンナが遠戚に預けられて以来、私は心を打ち明ける事のできる相手が身近にいなかった為、この施設を利用する事にした。


 相談所といっても、カウンセラーはしばしば代わるし、正直初めのうちは心の底から向こうの事を信用する事ができなかった。もしかすると、両親への不信感がそのまま周囲の大人への不信感へと繋がったのかもしれない。

 それでも、最近新しく私の担当になった先生は、信用できる相手だった。何より、綺麗事を言わないし、大人特有の優しい嘘とやらもあまりつかない。真正面から言葉を放ってくれる姿勢は、まさにこれまでの私が求めていたものだった。


 その先生のおかげか、最近の私はどこか調子が良かった。いわゆるネガティブ思考とやらがあまり浮かばなくなったのである。それにどこか晴れやかな気分だった。考えてみれば、それにはもう一つ理由があるのかもしれない。そうだ、それに違いない。これまで遠くに住んでいて中々会えなかった唯一の友人が、現在はこうしてすぐ近くに住んで働いているのだ。影響が無い訳が無い。

 そうして、しばしば思う。私もカウンセラーみたいに、アンナの話を聞ければ良いのにと。さすがに、私なんかの浅学がカウンセラーなど夢のまた夢だろう。だが、そう切実に思ってしまう程に最近のアンナは、見ていて心配になるのだった。


 アンナに会う度に、どこか違う世界にいるかのような空虚な雰囲気が強まってゆく。このままでは彼女は、いつか本当に壊れてしまう。そのような気がしてならない。そこで、原因として思い浮かぶのは、やはりルーカスだった。

 アンナは、ルーカスを自分の奴隷のような存在だと口にしていたが、それは彼女が自分を誤魔化す為の口実に思えてならない。何故ならアンナは、言葉ではルーカスの事を毛嫌いしていながら、同時に尋常では無い執着を募らせているように思えるのだ。以前、私はアンナに、ユリアンの存在の事からも、たとえどんなに利用価値のある人材でもルーカスとは距離を置いた方が良い、と助言をした事があった。

 だが、アンナはそれを断固拒否した。その際アンナは、彼を奴隷として扱いたい為、距離を置けばそれは叶わなくなってしまう、と説明した。私にはすぐにそれが嘘だと――あるいは自身への誤魔化しだと分かった。アンナは、どうしようもい程にルーカスに依存している。それは大変危険な事なように思えてならない。


 今日は数日ぶりに、アンナと会う日だった。彼女は休みの日が少ない為、顔を合わせてしっかり対話できる機会は少ない。私は今日こそアンナを説得しようと試み、集合場所の喫茶店へと足を踏み入れた。店内をぐるりと見回すと、奥のテーブルに彼女が腰掛けているのを確認できた為、すぐさまそちらへ向かった。

 おまたせ――そう言おうとしたが、言葉が出てこなかった。間近で見るアンナは、以前よりも明らかに衰弱しているのが見て取れたからだ。虚ろな瞳は、スプーンで無造作に掻き回されているティーカップに向けられ、私の存在に気づいていないようだった。

 数秒の後、私はようやく言葉を発する事ができた。


「アンナ、どうしたの」


 そう言ったものの、彼女のこの様子の元凶は概ね予想がついている。アンナは、私の声を聞いて初めてこちらの存在に気がついたようだった。スプーンを動かす手を止め、光の無い瞳で私を見上げた。


「ああ、ホルテ。来てたんだ」


 その声は、死を目前にする病人のようにやつれていた。私は、腰を下ろす事も忘れ、ただただ呆然とそんな彼女の姿を見つめる事しかできない。持ってきたお菓子の入ったカバンを落とした事にも気付かず、私は彼女にほとんど意味の無い問いを投げ掛けていた。


「あんた、ほんとにやばそうよ」


 もはやこれが問いなのかは疑問だが、今の私は、混乱する心中を上手く言語化する事ができなかった。現在の友人の状況がとんでもなく危険である事は分かるものの、それをどう本人に伝えれば良いのかと、思考停止しそうな頭は目まぐるしく時計の針を回した。対してアンナは、先程の私の言葉に、ただ不思議そうに首を傾げるだけだった。

 思考の整理が最低限できた頃合になってようやく、私は席に腰を下ろした。落としたカバンはそのままに、アンナに向かい合った。


「ねぇ、今のアンナはどう見ても追い詰められてる。このままじゃ本当に壊れるわよ。……いや、もう、既に壊れかけてるかもしれない」


 アンナは、私の精一杯の言葉を聞いても、ますます不思議そうな表情をするだけだった。まるで、私の声など彼女の内側に届いていないかのように。それでも、私は言葉を重ねる。そうしなければ、友人を見殺しにしてしまうような危機感があったからだ。


「ねぇ、アンナがそうなっちゃったのって、ルーカスが原因なんでしょ? だって前々から嫌いって言ってたのに、まだ付き合いがあるみたいなんだもの。アンナをそれ程酷い状態にするような相手なんて、離れた方が良いに決まってる」


 私は、ろくに論理的思考回路がまとまらないまま、頭に浮かんだ言葉をそのまま口に出す。どうか、壊れた目の前の友人にこの声が届く事を祈って。


「嫌いな奴と無理に一緒にいても、自分を追い詰めるだけよ。それに、アンナはあいつを利用してるって言ってたけど、本当はそうじゃないんでしょ。本当は――」


 そこで、私の言葉は遮られる事となった。


「うるさい」


 私は、驚いて声の主を見た。声の主であるアンナは、スプーンを握り締めながら忌々しげに私を睨んでいた。


「うるさい」


 彼女は同じ言葉を繰り返した。まるで、その言葉の言語モジュールしか搭載されていない機械のように。

 私は、一瞬たじろいだものの、このまま彼女を放っておく訳にはいくまいと、口を開いた。この際、もはや彼女に嫌われても良かった。いや、正確には嫌われるのは怖いが――それよりも、彼女が完全に壊れる未来の方が何倍も恐ろしかった。


「ねぇ、お願い。本当の事を聞かせて。どうしてそこまで、あいつに……ルーカスに、こだわるの?」

「そんなの決まってる。あいつは利用価値があるから」

「なら、どうしてそんなに苦しそうなの? 利用するだけなら、もっと適切な距離感で接すれば良いだけの事じゃない。ねぇ、お願いだから誤魔化さないで答えて。どうしてあなたは、そこまでしてあいつと一緒にいたいの?」


 そう私が問い掛けた途端、アンナの表情と動きが静止した。しばらくすると、彼女は無言で虚空を見上げた。そして、弱々しい声で小さく呟いた。


「……一緒に、いたい?」


 それはまるで、自分自身に問い掛けているかのように聞こえた。


「そうよ。アンナは、あいつを利用したいんじゃなくて、ただ一緒にいたいだけなのよ」


 アンナは、虚空へとやっていた瞳をテーブルへと下げ、それまで握り締めていたスプーンを静かに置いた。その瞬間、アンナの光のない瞳から、輝くものが静かに流れ落ちた。私は、黙ってその姿を見つめる。

 アンナは、声をほとんど漏らさずに泣いていた。そして彼女が口を開くまで、非常に長い時間が経ったかのように思われたが、それは単に体感的なものに過ぎないのだろう。

 アンナは、唇を震わせながら口を開いた。


「それは……ルーカスが……」


 アンナは、再び置かれたスプーンを握り締めた。その手も唇と同様、小さく震えていた。


「ルーカスが、私の、大切な」


 お父さんだから。

 アンナは、そう震える声で言い切った。


 私は、そのアンナの答えに驚愕も覚えたが、同時に腑に落ちた。アンナとルーカスの二人の間から感じるものは、家族のようなそれだった。

 それに私はルーカスから、アンナ自身が忘却している彼女の過去を聞いている。あのような事があったのならば、そういった存在を身近に求めてしまうのは自然な事だろう。だが、そんな彼女だからこそ、何としても伝えなければならない事がある。それがどれだけ彼女にとって、残酷な事であろうとも。


「聞いて、アンナ。ルーカスは、あなたの本当の父親なんかじゃない。それに、アンナがそうであって欲しいと願っても、相手はどうだか分からない。このまま偽りの安心に浸かってても、いずれ壊れるだけよ。もう、覚めた方が良いわ」


 こんな事を言ったとしても、現在のアンナにはほとんど届かないだろう。そう分かってはいても、伝えざるを得ないのが今の心境であった。そして案の定アンナは、私の言葉など意に介していないように、表情を変える事は無い。そして彼女は小さく言った。


「本当かどうかはどうでもいい。ただ、何となくそんな感じがしていれば、それだけでいいの」


 一瞬、彼女が無垢な子供のように見えた。その姿がどうしようもなく愛らしく見えてしまい、私はしばらくの間思考を停止していた。そうしているうちに、アンナは席を立ち、私を見下ろして礼を言った。


「今日はありがとう、ホルテ」


 そう言うと、彼女は席を離れ店の出口まで向かってゆく。私は、我に返り急いで彼女の後を追う。彼女が店を出るよりも前に腕を掴むと、「待って」と言おうとした。だが、それもはばかられる事となる。

 振り返ったアンナの笑顔が、私の友人を救うという使命感をことごとく粉砕したからだ。彼女は、まるでこの世の汚れを知らない幼子のように、淀みのない笑顔を浮かべている。

 その笑顔は、私にこう告げていた。お前に彼女はもう救えない。


 私は、世界が止まったかのような錯覚に陥った。そして、動かない体の傍から彼女の姿が遠ざかってゆくのがゆっくりと見えた。

 私はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。だが、他の客が次々と店を出入りしていくのに我に返り、席へと戻る。その際、本来アンナに渡すはずだったお菓子の存在を思い出した。それが入ったカバンを握りしめると、おぼつかない足取りで店を出た。

 店の周囲を見回すも、既にアンナの姿は無かった。思考が上手くまとまらないまま、旧市街地を歩き続ける。

 今にも崩れ落ちてしまいそうな両膝を叱咤する。どこか一人になれるような場所へと向かう必要があった。それは、私自身を落ち着かせる為の判断だったかもしれないし、同時に、そこにもしかしたらアンナがいるかもしれないという淡い期待から生じたものだったのかもしれない。


 繁華街の喧騒から離れた場所へと来ると、寂れた公園が見えた。私は、僅かに希望を募らせながらそこへと向かった。公園には一人分の人影があった。私はその人影を認識するなり、頭の中が真っ赤に染まっていた。

 気づけば私は、その人物の目の前へと向かい、相手が私を見上げるよりも先に、手に握りしめていたカバンを思い切り投げ付けていた。そして襟元を掴み、握り締めた拳を勢いよく相手の肩頬へと振り下ろす。ベンチに腰掛けていたその人物は、体制を崩すも地面への落下は免れた。


「情けない奴!! 情けない奴!!」


 私は、咳き込む相手を――ルーカスを睨み付けながら、そう吐き捨てた。もはやこの尋常では無い怒りは、目の前の人物に向けられたものなのか、それとも友人を救えなかった自分自身へと向けられたものなのか、判然としない。

 ルーカスは、未だ咳き込みながらも私を見上げた。ただ、予想外な事に怒る事は無かった。その姿はまるで、自分のされた仕打ちを心の底から受け入れているかのように見えた。私は、その様子にますます腹が立ち、怒鳴りつけた。気づけば私の両目からは熱いものが流れ落ちていた。


「なんであの子を突き放してやらないのよ! あの子がどれだけ追い詰められてるか知らない訳が無いでしょ!? 全部全部、お前が元凶なのよ。お願いだから、あの子を解放してやって!!」


 私は、そう怒鳴り終えるなりぜえぜえと息を整える。その間、ルーカスは何も言わずに私を見つめていた。

 その瞳の奥には、何故か安心が満ちているように思えて、意味が分からなかった。それがさらに私の怒りを誘発し、殴っていない方の頬を思い切り叩いてやった。


「ありがとう」


 その時、確かにそう聞こえた。耳を疑ったが、打たれた彼の表情は苦しげに眉をひそめられていたものの、瞳には確かに感謝の色が滲んでいた。私は、途端に恐怖を感じ、走ってその場を後にした。あいつに投げ付けたカバンの存在を、またも忘れていたが、そんな事はもはやどうでもよかった。


 あれから一週間が経ち、またもカウンセリングルームへと足を運ぶ。この時が待ち遠しくてたまらなかった。先生は私と対面するなり、いったい何があったのか、嫌でなければ聞かせてくれないか、と尋ねてきた。おそらく、現在の私の様子は、他者から見て相当思い詰めているように見えるのだろう。

 私は、すらすらと語り始める。驚く程に、言葉が自然と出てきた。

 友人が恋人なんだかよく分からない男に依存しすぎている事、おそらくそのせいで友人は壊れかけている事、そして自分はそんな友人に対し何もできなかった事。

 先生はただ黙って聞いていた。私の口が先生の言葉が発されるのを許さない程に饒舌だったからだ。そして私が一旦語り終えると、先生は静かに口を開いた。


「あなたがそのご友人さんを助けたいのは分かります。けれど、彼女を救えなかったからといってあなたの責任にはなりません。それに、一度壊れてしまった人格を修復するのは非常に困難です。もし差し支えなければ、そのご友人さんも医療機関を受診する事を推奨致します。もちろん、こちらでなくても良いので。さすがにこのまま放置しているのは危険ですし、心配です」


 先生はそう言った。遠回しに、私には今のアンナには何もできないと言っている。だがそれで良かった。自身がいかに無力かを知る事も、彼女を救う第一歩になり得るのだから。その為私は、それ以上アンナの事については話さなかった。いや、正確には、表向きには話さなかった。


 私は知りたいと思った。アンナが以前語ってくれた彼女の抱える変わった性癖や、ルーカスについて聞かされた、そんな彼女の生い立ち。なんとなしに、それらに関連性が存在すると感じたのだ。なので私は、話題を変えると言って、あくまでも小説の登場人物として、それらの特徴を先生に話した。血液や暴力行為に対して性的興奮を覚える者、そしてその人物は幼少期に親から性的虐待を受けていた――そのように。

 すると先生は、考え込む素振りなく素早く回答した。


「攻撃的な欲求は、幼い子供ならば殆どの子が持っているものです。ですが、成長していくうちに、その加虐性が性欲へと変化していきます。ようするに、その人物は、幼少期に受けた辛い経験が要因で正常な性的発達を遂げられなかったと考えられます。本来性欲へと変わる筈だった加虐性がそのまま残り、その加虐性で性的興奮を覚えるようになってしまったのかもしれません」


 それを聞いた瞬間、私の中で込み上げるものがあった。私は、思わず先生に問い掛けていた。


「ならば、その人物は異常者なんかじゃありませんよね?」


 先生は、不思議そうに目を瞬かせた。


「だって、人は正常なまま狂えない。正常だからこそ狂うしか選択肢が与えられなかっただけなの。なら、その異常と呼ばれる狂気こそ、正常な人間である事の証明なんじゃないの?」


 彼女は何もなりたくて異常者になったのではない。いやむしろ、彼女の現状は、彼女の精神構造が一人の人間として正常であることの証明なのではないか。それを上手く言語化しようと試みるも、感情が思考よりも先走り、支離滅裂な言葉になってしまった。

 それを聞いた先生は、厳かに言った。


「正常か異常かで考えるならば、その人物はおそらく正常でしょう。ですが、正常か異常かなんて本当はどうでも良い事なのですよ。あなたがその人物に対してどう感じるのか、それを一番大切にすればいいだけの事です。それに異常か正常かなんて、それを見る人の価値観や精神構造でいくらでも変わります。言ってしまえば、極論、この世に正常な人間も異常な人間もいないのです」

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