8-ⅱ 俺の最終目標
あれから一度も鳴り止まない頭痛に幾度目かの吐き気を覚える。まるで鎖で乱雑に縛り付けられたかのように、心臓が声にならない悲鳴をあげる。
どうして俺は、あんな事を……。
そう何十、何百と胸中に浮上する悔恨。もうこの世の全てが、俺を卑しいものとして軽蔑しているかのような感覚に襲われる。
どうして俺は、あんな事を……。
何百回目かの後悔。そうして、脳裏に一瞬現れたのは、銀色の怪物だった。あの、どこまでも純粋な化け物。純粋だからこそ、アレは怪物としてなり得る。そもそも俺があのような蛮行に及んだのも、あの化け物に唆されたからだ。深夜にあの男がある居酒屋で飲んだくれている事を教えてきたのもあいつだ。話を聞くに、アレと俺の利害は一致していた。
だが、どうやらアレにとってアンナという女は、父親と同等の価値を持っていても、父親に対する願望とは違っていたらしい。俺はとんだ勘違いにより失態を犯してしまったという事だ。いや、だが、アレはアンナを利用する事に賛成した。流石にその内容までは伝えなかったが、なぜアレは、あの時あれ程激怒していたというのに、それについて賛成したのか。そうまでして、父親への願望を成就させたかったのか?
考えても考えても、謎があたらしく生まれては、深まるばかりだった。
部屋に閉じこもる日々が続いてから三日目。雇い主のバルバラさん達は、以前の俺の不安定な状態を知っていたからか、現在の俺のこのような状況にも目をつぶってくれているようだった。働いていないにも関わらず、食事を運んできてくれるし、しばしば様子を窺いにやってくる。
いったい何があったのかと聞かれた事もあった。だが、当然ながら俺は何も言えなかった。喋る気が起きないといった事も要因の一つではあったが、それ以上に、驚愕を覚えたからだ。あの女は、自分がやられた事を警察にもバルバラさん達にも話していないのか。泣き寝入りというやつか、そうも思ったが、他にあの男が残っている。あの夜の悲愴な様子からも、あの男はアンナを相当気に入っていると考える事ができる。ならば、俺の事を警察に届け出すのが自然だろう。
そのように深まるばかりの謎を思い描いていると、その答えがやってきた。なんと、バルバラさんが、匿名で俺宛に手紙が届いていると、手紙を差し出してきたのだった。俺はそれを力なく受け取ると、バルバラさんの足音が遠ざかるなり恐る恐る開き、内容に目を通した。
『君は訴えない。彼は私が説得した。私のことは存分に利用するがいい。私を利用して、彼の心に一生残る傷跡を作って欲しい。それならば、私のことを殺したって構わない』
叫び出してしまいそうだった。それでも声は出なかった。あまりの恐ろしさに、呼吸さえ忘れていたからだ。
あの女は気狂いだったのだ。アレといい、あの女といい、あの男の周りにいるやつは気狂いばかりだ!
あれからアレも俺の元へ訪れてくる事もない。もしもまた来るようだったら絶対にアレの言葉には耳を貸さない。アレは危険だ。危険すぎる。何より、あの男の存在自体が、危険分子なように思えてならなかった。
震える両手でおぞましい内容の手紙を破り捨て、ゴミ箱の最奥に詰め込むと、手を洗ってから机の中からある物を取り出した。それは姉が俺宛に遺した遺書だった。
この時の俺は、何故か無性にこれを読みたくなっていた。未だにぬぐえぬ嫌悪感を抱きながらも、拙い字で綴られた文字に目を通す。
私の最初で最後のわがままをどうか許してください。
私は変わってしまいました。もうあなたの役に立てる私ではなくなってしまったのです。この鼓動を聞いてもらうことができたならばどんなに良かったでしょう。きっと一瞬にして分かるはずです、全てが彼に向かって歪んでいることに。
幸福や悲しみ、様々な感情が綯い交ぜになっていて自分でもよく分からないのですが、ただ一つ確かなのは、よく彼――エドガーに会いたいと思うことです。彼の事を思い出すと、胸がざわざわして気持ちが悪くなります。私は、彼に愛想を尽かされたことがとてつもなく苦しいのかもしれません。そうです、苦しくて堪らないのです。あんなに一緒にいて楽しいと思えた人は彼が初めてだったのですから。
そしてなぜ私が海の底へ憧れるようになったのか。それはいくつかちゃんとした(もしかしたらなんてくだらないと笑われるかもしれませんが)理由があるのです。鳥のように自由気ままに飛んでみたいと思ってしまったのです。海と書いたのに、なぜ鳥なんだと思うかもしれませんが、崖から飛び降りて海の底へ沈むつもりだからです。鳥ってとっても綺麗な生き物ですよね。少なくとも私はそう思います。前にエドガーと、ある詩について話したことがあるんです。
“鳥はたとえ飛べなくても、綺麗な翼を持っている”
これは私が良く読んでいた物語に出てきた台詞で、なんの取り柄もない主人公の鳥が励ましの言葉として、友達である一人の人間に貰った言葉です。私は体力もなく頭も悪く、皆のために身売りしかできない残念な人間でしたが、そんな臆病な鳥にも、長所があったんです。エドガーは私を前向きだと、そしてそれを羨ましいと言ってくれました。あの時、私は人に初めて認められてとても嬉しかったのです。それも憧れていた彼にそう褒めて貰えたことが、喜びを増幅しました。
ですが、最近の私はどうでしょう。いつもいつも、私の世界から消え去ってしまった人のことばかり考えていてとても前向きとは言えず、むしろ過去に囚われていて後ろ向きな人間になってしまいました。彼に見つけて貰った唯一の長所を、自分自身で踏み潰してしまっているのです。もしも浜辺にまた彼が来たらと何度も夢見ました。その願いが実現したとして、今の欠点だらけの私を彼が見たら果たしてどう思うでしょう。
そう考える度、このままではいけないと自分を叱咤しどうにか心の風向きを変えようと奮闘しましたが、どうにも心は言うことを聞いてくれません。彼に会いたいという想いを消すことなど、ついにかないませんでした。
それもそのはずです、私は過去を振り払いたいのと同時に、たとえ壊れてしまった仲だとしても決してあれらの大切な記憶や想いを手放したくないのです。
そこで、彼に貰った本を読み続けて私はある喜ばしい事に気が付きました。もう一度あの詩に触れます。鳥はたとえ飛べなくても、綺麗な翼を持っている。そうなんです、私にもまだ尊い部分が残っていたのです。
私が悩まされている膨れ上がる摩訶不思議なこの想い、これは、もしかしたら俗に言う「恋」なのかもしれないと、そう思ったんです。この心に名前をつける事が合っているのかは疑問ですが、私は、この感覚を最上の幸福だと信じています。そしてそれは何に対しても陰ることの無い美しいものです。その発見は、後ろ向きに感じていた私の縛られた心を前向きにしてくれました。
ですが、彼の言葉を思い出してしまったのです。例の詩について彼と話している時、彼はこう口にしました。
たとえ見た目が良くても目の前の物事に向き合えないようじゃ苦労する、と。
心は人の目には見えませんが、この異質な想いは、衰弱している私の精神に綺麗な旋律を奏でてくれています。こうして書いていて恥ずかしいですが、私の翼は彼のお陰で確かに美しい見た目をしているのです。
でも、彼からしたらそれだけではダメなのです。彼にもう一度認めてもらえるような人間になるには、目の前の物事と真摯に向き合えるようにならなくてはいけません。では、目の前の物事とは……?
すぐには思いつきませんでした。ですが、代わり映えのない日々を送っているうち、段々と、私の翼つまりは恋心こそが向き合うべき対象なのではないかと感じるようになっていったのです。
記憶や想いは色褪せていくものです。そんな当たり前のことが残酷であることを、彼の存在が教えてくれました。このさざなみが色褪せないうちに、何者でもない私自身の手によって終わらせたいのです。
塵となって消えてしまえば、何も思うことも考えることもできない。それでいい。他の感情や思考に上書きされるくらいならばいっその事、新鮮な純粋さを保ったまま海の底へ閉まっておきたいと願うのはいけないことでしょうか。
私は彼を知らずにこれから先何十年も生きるよりも、彼と出会ってその為に生を終わらせる方が何億倍も幸せです。心残りがあるとすれば、どうせならもっと色んな本を読んで、彼ともっと色んな話をしたかった……もっと私の頭が良かったら、彼に嫌われることもなかったかもしれないのに。
後悔の言葉ばかりで読んでいて苦しいですよね、ごめんなさい。でも悲しみだけではありません。この不思議な感覚を彼に貰ったと思うと、今でもとっても嬉しいんです。もう二度と彼に会えないことには気づいています。だからもう一度認めてもらうという願いも叶うことは無い。けれど、彼の望むような人間でありたいのです。
そしてどうか祝福してください。あなたの頼りない姉は、何にもかえられない程尊いものを得たのです。産んであげられなかったあの子も、あちらで私を祝福してくれていることでしょう。
私は頭が悪いのでこんな安っぽいことしか言えませんが、あなたの姉に生まれてきたことを本当に心から嬉しく思っています。
さようなら。そして今までありがとう。
読み終え、遺書を机に仕舞う。そしてポケットからある写真を取り出す。ただでさえボロボロに傷つけられた被写体を、机の上に無造作に転がっていたボールペンで何度も突き刺す。何度傷つけても物足りない。むしろ自身に内包されている攻撃性を増幅させてゆくばかりである。
このむず痒い感覚をどうすれば解消できるだろう。無論、その答えは既に知っている。誰にでも分かるようなものであり、同時に俺の最終目標でもある。そんな事を考えながら写真越しでの被写体への攻撃を続けていると、不意に部屋の扉の開く音が響いた。
反射的に背後を振り向くと、開かれた扉の前には、銀色を纏うアレが立っていた。アレは普段通りの笑顔でこちらへと接近してくる。俺は、握り締めていたボールペンを落とし、椅子から力なく転げ落ちた。その際、ボロ雑巾のように成り果てた写真も床へと舞った。
軽やかな足取りで近づいてくるアレから逃れたい一心で背後へと体を動かそうとするが、机に阻まれて為す術がない。早鐘を打つ心臓に全身を絡め取られそうになりながらも、心中で必死に願う。お願いだから来ないでくれ。
そう願うも儚く、アレはもう既に俺の目の前にいた。相変わらず不気味なまでに笑顔を絶やさない。あの夜、俺に激怒していたのがまるで嘘のようだった。そして銀色の怪物は口を開いた。
「わたしの願いを叶える助け、またやって欲しいの」
馬鹿な。冗談じゃない。もうお前なんかとは関わりたくないんだ。そう口に出すことは躊躇われた。何せコレは変な能力を持っている。まるで全身を引き裂かれるかのような激痛を与える、謎の能力を。
故に僕は、相手を刺激しないよう言葉を選ぶよう努め、震える唇を開いた。だが、冷静さを欠いた頭は、充分な言葉選びをしてはくれなかった。
「君は本当なら存在してはいけないものなんだ。無自覚だろうけど君は周囲を不幸にする怨霊なんだ。……もう僕はお前とは関わらない。自分の行いが間違いだったことだって認めてる。だからもう、お別れだよ」
立て続けに口から出ていった言葉に重しを感じ、緊張からか呼吸が浅く速くなってゆく。本当にこの言葉で良かったのだろうか。果たして今俺が放った言葉の数々は、コレに伝わるのだろうか? そんな風に不安に駆られている矢先、カーヤが言い放った。
「嘘つき」
俺は、それまで床を眺めていた視線をカーヤへと移した。すると、視界に映る両の銀色の瞳は、真っ直ぐに俺を見据えていた。そこに悪意も善意も、何も無いように思えた。あるのはただ、無垢なものだけ。
「わたしが不幸にしてるんじゃないよ。だってゆりあんは、自分の意思で今までわたしと話してたじゃない。わたしのせいにしないでよ」
息が詰まる。反論しようとしても、そのせいで不可能だった。
「ままが忘れられないんでしょ。ままのことが大好きで仕方ないんでしょ。だからるーかすのことが羨ましくて仕方ないんだよね」
違う。そんなんじゃない。
「わたしね、るーかすと一緒にお勉強したから知ってるの。そういうのって、嫉妬心っていうんでしょ。それは人間誰しもが持ってるから仕方ないんだって言ってた。だから、ゆりあんがるーかすを嫌うのも、酷いことをしたくなるのも、仕方ないんだよ。だから、間違いなんかじゃないの」
「違う、違うんだ」
俺の口から漏出した声は何故か、まるで助けを乞うように懇願の色を帯びていた。
「大丈夫だよ。人間の強くて大きな心は、いつだってとめられないんだもの。自分に素直になることで幸せになれるんだよ。――そう、ままみたいに」
俺の中で何かが破裂した音が、聞こえたような気がした。
気が付けば俺はその場で耳を塞ぎうずくまっていた。
これまでの自分の醜態が嫌でも脳裏を駆け巡る。見たくない、見たくないのに! 狂った頭は、そんな醜い俺の姿を映し出す。そして浮上した疑問は、これまで幾度も呪った自問自答である。
どうしてこんな事になった。
答えは単純である。あの男がいるからだ。この世に未だ存在し続けているからだ。ならば、あの全ての元凶さえ排除してしまえば、俺のこの苦痛も消え去るだろう。
そうだ、そうに違いない。それに目の前にいる怪物だって、それをお望みなのだから。せっかくここまで自分の手を汚してきたんだ。ならば最後まできっちり終わらせてしまおうではないか。
俺は、目の前で不思議そうに見おろしている怪物に、先程頼まれた願いへの答えを返した。
「悪かった。もうアンナには手を出さない。約束する。だから、お願いだ、君の願いを叶えさせてくれ」
するとカーヤは、満面の笑みで抱きついてきた。そして、喜びを全面に押し出して、願いの叶え方の希望を語りだした。この時ばかりは、俺もこの怪物に共感してしまった。なぜなら、誰だって大切な人とは、できるだけ長い時間一緒にいたいものだから。




