8-(3) 報いは愛を許さず * 8-6 一時の優しさ
彼女の部屋は予想通り飾り気のない質素なものだった。おそらくは、デスクやベッドといった必要最低限の家具以外に本棚や映画のポスターくらいしか存在しない僕の部屋よりもシンプルだろう。やんわりと照らされたこの部屋で、特徴的なものといったら、窓際にひっそりと置いてある花瓶だろう。コンパクトな花瓶の中に植えられた根から、小さく白い花が月に照らされて輝いていた。
「アンナ……」
続けて「気はどうだい」と尋ねようとしたが、それはあまりにも不適切だろうと考え口に出さなかった。今この場で、彼女に何を言えばよいのか分からず、僕ができる事といったら先程の男がここへと近づかないか監視している事だけだった。アンナは、ベッドの上で体制を崩し、虚ろな瞳で虚空を見上げていた。
するとふいに、アンナが口を開いた。
「来て……」
それは、蚊の鳴くような声だった。僕は、少しだけ驚きつつも彼女の傍によった。監視するつとめよりも、彼女の傍に寄り添い先程の苦しみを僅かでも和らげる事の方が重要だと思案したからである。僕は足音を殺してベッドへ向かい、アンナの隣に無言で腰掛ける。すると、彼女は僕に体を預けてきた。
僕は軽率にも、この瞬間幸福を感じてしまった。その一瞬だけ、胸中の奥底までぬくもりに包まれたのである。だが次の瞬間、その幸福も薄まる事となる。
「パパ……」
アンナの口から漏出した声は酷く小さかった。だが、普段よりも幼さを含んだ声色は、鼓膜を刺激するには充分な威力を持っていた。
少なくとも、アンナは僕を異性として見ていない。それどころか、僕自身を見ているかさえ定かではない。だがそれでも、僕は彼女の父親――たとえそれがただの影法師に過ぎなかったとしても――であろうと思った。この時ばかりは、その決意が彼女への愛情からくるものなのか、それとも罪悪感からくるものなのか、自分でも判然としなかった。
アンナは、虚ろな瞳で僕を見あげる。その生気を感じさせない様子は、二年前、僕の目の前で川に飛び込んだ時と似ている。そして小さく口を開いた。
「違う……」
アンナは、そう呟くなり僕を突き飛ばした。
「違う……パパじゃない……パパじゃない……」
アンナは、しきりにそう呟いた。対して僕は、戸惑いや悲しみがごちゃ混ぜになり、ろくに上手い言葉を返せなかった。いや、そもそも、彼女自身、僕からの返事など求めていないのかもしれない。
アンナの衰弱した姿はなるべく見ていたくなかったし、それに拒絶された事もショックで仕方がなかった。その為か、僕は半ば反射的に彼女を抱き締めていた。
「ごめん、君の思うような人間じゃなくて……。でも、こんな事を言っても迷惑だろうけど……それでも言いたいんだ。僕は、君の父親になりたいんだ」
本音はもっと違うものだった。その為か言い終わった後、針に刺されたように、胸がちくりと少し痛んだ。
アンナは、それに対して返事らしい事は口にしない。だが僕を振りほどく事もしなかった。僕は痛みを伴う空気の中で、しばらくの間そうしてずっと彼女を抱き締めていた。するとアンナは、我に返ったかのように僕の名前を呟いた。
「ルーカス……?」
それはまるで、旧友の名を久しぶりに思い出した際の発見の意が込められたかのような響きだった。僕は、アンナが徐々に正気に戻りつつある事と、やっと僕の事を思い出してくれた嬉しさから、僅かに弾んだ声で応えた。
「うん、そうだよ。僕はルーカスだよ」
虚ろな瞳に僅かに光が灯った。そしてその光は徐々に彼女の瞳全体へと広がっていく。彼女は、声とも判別つかない程の小さな声を漏らしたかと思いきや、しばらくの間僕の顔を呆然と見つめていた。そして、唐突に笑いだした。あたかも、何かがおかしくてたまらないといったふうに。
「私の父親になりたい……? お前が……?」
面白そうに笑いながら、アンナはそう言った。僕は、その尋常ではない様子から、とうとう彼女の精神が崩壊してしまったのかと判断し、愕然としてしまった。
もうこうなってしまっては、僕にできる事といっては些細な事しかない。彼女を元に戻す事は至難の業だろうと絶望に暮れる。そんな僕の心中にお構い無しに、アンナはなおも続ける。
「お前、私に何したのか忘れたの? 救いが必要だった私を、私に関係ない自分の罪滅ぼしに都合よく利用したんだよ。それまで私は誰かに心の底から気に掛けてもらうことがなかった、だから、そんなふうに親身になってくれる人がいるのが嬉しくて浮かれて、お前に心を委ねてしまった。その結果、お前は全くの無知で懐いてた子ヤギに自ら罪の暴露をぶつけた。お前があのことを口にしなければ私は一生無知なままでいれたのに。自分がただ利用されていただけだなんて知ることはなかったのに。お前からしたらそんなつもりはなかったんだろうけど、私にとって心の鍵を開くことは身体を許すことと同じくらい重要なことだったんだ。――私に生涯癒えない心の傷を負わせたっていうこと、死ぬまで忘れたりしないで」
僕は、アンナの口から次々と綴られる言葉の一つ一つに、耳を、心臓を、引き裂かれるような心地でいた。だがその苦痛は僕自身が自分の罪を認めている事の証明でもあり、だからこそ、その責任を放棄する訳には絶対にいかないのである。
アンナは、そう言い終わるとおもむろに僕に背を向け、窓際に置いてある植物に近寄っていった。そして、その生命に語りかけた。
「ねぇ、どうしてあなたみたいに、あいつはうまく咲かないの? あなたの方が、あいつなんかよりもよっぽど綺麗。だって私の理想の姿でいてくれるんだもの。それに比べてあの人ったら、ろくに父親としての責任も果たせてないで、その上自分の立場もわきまえてないんだから。あんな奴が私の父親になりたいんだって。ふふ、面白くて笑っちゃうよね。もっと自分の愚かさに気が付けばいいのにね」
アンナは、淡々と、それでいて楽しそうにそう語っていた。それから彼女は何も言わなくなり、ただ窓の向こうの景色を見つめていた。僕は、そんな彼女の姿をただ見守る事しかできないでいた。事実、僕にはそれ以外に選択肢が与えられていないのだから。
アンナに憎まれている事へのショックは大きくは無かった。何せ、以前から彼女からは僕への憎悪を感じ取っていたからだ。もう彼女に許してもらえる日など永久に来ないのだろう。いや、まず、許してもらうなどという発想自体が、僕にはおこがましいのだ。
夜が更け、朝日が登り始めると、それまで窓の向こうを見やっていたアンナは体勢を崩し、壊れた人形のように壁にもたれかかった。そして啜り泣く声が静かな部屋に響き始めた。
* * * * * * *
捨てられる?
またも私は父親に捨てられる?
――いや、またも、とは、なんだ?
脳内で永久にめぐり続けるのはその途方もない自問自答であり、当然ながら、私はその解を知らなかった。故に止まることなく繰り返される。
あの男は誰だったかはもはや忘れてしまった。故にこそ私は彼を求めたのかもしれない。
「ごめんなさい、昨日はあんなこと言ってごめんない。だからどうか許して、お願いだから」
私は大粒の涙で顔面を汚しながらそう懇願した。彼の胸に抱きつき、何度も謝った。すると彼は、私の頭を優しく撫で、そして申し訳なさそうに笑った。
「大丈夫、僕は気にしてなんてないよ。第一、悪いのは全部僕なんだから。君の言った事は正しい。それに僕は何があっても君を嫌いになったりしないよ」
私は、その彼の言葉を聞いてとても安堵した。まるで、それまで暗闇だった世界に希望の光が灯されたかのように。
「もう離れないで」
私は、そう切実に言った。すると彼は、どこか切なげに笑うだけで、何も言わなかった。その沈黙が何を意味しているのか他人の私に理解できようはずもない。なのになぜだか、その笑顔は肯定の意が含まれていると、この瞬間、絶対的に信じてしまった。




