8-(1) 父親
夜の居酒屋内は、苛苛しそうな程に眩しい照明で照らされていた。本来居酒屋というものはそういうものなのだろう。だが、現在の僕の精神状態にとっては、眩い照明は気を散らす毒でしかなかった。それでもここに通う事を辞められないのだった。
少しでも胸中に蔓延る不安や悔恨の念を誤魔化したかった。それには飲酒が最も効果的だと考えての事だった。だが生憎、僕は酒に強い方ではなかった。その為、何も考えられなくなるまでに飲むとすぐに酩酊状態となってしまうのだった。
周囲をちらとうかがう。どうやら今夜はカーヤは遊びに来ていないようだ。おそらくアンナの元にでもいるのだろう。ふわふわとした意識でもその事はわかった。
これまで外出時には必ず持ち歩いていたスケッチブック。その習慣はもう無くなっていた。実を言ってしまえば、アンナに目の前でキノコの絵を破り捨てられた一件が、トラウマとなっていたのだ。あの時のアンナの、無機質でいてこちらを嘲るかのような表情。そして、無惨にも切れ切れになった大量のキノコ達。あれらの光景が網膜に焼き付いたきり離れてくれないのだ。
酔いのせいで頭痛がする。今夜もいつも通り、思考不可能になるまで飲む。そして見事に酔い潰れた僕は、そのままカウンター席に突っ伏しひたすら時が過ぎ去るのを待つ。夜が明けるまでの時間は途方もなく長い。だが、今夜は違っていた。
「お兄さん、お隣いいですか?」
朦朧とする視界で見上げると、そこには一人の青年が立っていた。ろくに頭の回らない僕は、そのまま何となくの調子で「どうぞ」と答えた。すると、青年は「ありがとう」と微笑み僕の真隣に座った。
「いつもここには来るんですか?」
青年は、着席するなりそう問いかけてきた。僕は、「はい、まぁ……」と力なく答えるので精一杯だった。できるならば、話しかけて欲しくはなかった。到底雑談をするような気分では無い。現在の僕の状況が第三者にどう捉えられているかは分からないが、会話が弾みそうな感じではない事くらいはさすがに見て取れるだろう。
だが、変わり者な青年はしつこく僕とのコミュニケーションを続けようと試みてきた。最初に名前を聞かれた。そこで、彼は僕が答えるよりも先に、礼儀を思い出してまずは彼自身の名前を名乗った。彼はオリヴァーと名乗った。名を名乗られてしまえば、こちらまで名乗らなければならないではないか。そのような罰の悪さを覚えながらも、僕は弱々しい声で「ルーカス……」とだけ答えた。最低限の返事だった。
すると、オリヴァーの表情が一瞬けわしくなったように思えたが、すぐに見間違いだろうと思いそこまで気に留めることはなかった。オリヴァーは、なおも質問を重ねてくる。その見かけからして学生か、趣味はあるか、恋人はいるのか、等といったありふれた投げ掛けだった。
僕は、その質問攻めにうんざりしてしまい、「恋人はキノコだ!」と答えてしまった。そして、趣味はその恋人を大量に描く事だとも。それ故に自分のスケッチブックは大量のキノコで埋め尽くされており、それらを眺める度に癒されるのだと、呂律のろくに回らない舌で、殆ど投げやりに話した。
この僕の意味不明な回答(半分は事実なのだが)に呆れて席を外してくれる事を願った。だが、そうも上手くはいかなかった。青年が忍耐強いのか、はたまた彼もキノコを愛する同士なのか。それは定かではないか、微笑をうかべて「面白い人だな」と彼は言った。それに続けるようにして、オリヴァーは言った。
「俺、あんたみたいな変わり者って好きなんだよな。なぁ、毎日ここには来るのか?」
ただでさえ疲弊の蓄積している僕の精神は、オリヴァーのその言葉により一層重い鎖に拘束された。まさか、追い払う為に口にした変人めいた言葉が、逆に相手を惹き付けてしまう要因になるなどと思ってもいなかったからだ。
僕は、もうここからいなくなってくれという意思表示も込めて、雑に二回程首を縦に降った。それでもオリヴァーは食い下がる事なく、むしろ僕にさらに食いついてきた。鈍感にも程があるだろう、そのような不満に胸中を支配され、僕はおぼつかない足取りで席を外した。すると、オリヴァーは意外にも食い止めてくる事はなかった。
翌日目が覚めると、昨夜の出来事が瞬時に思い出された。重い自責の念が僕を押し潰す。あれ程友好的に接してくれた相手に対し、自分は酷く無愛想な態度をとってしまった。酔い潰れていたとはいえ、そもそもあそこまで酔い潰れる僕が悪いのだ。アンナへの重苦しい贖罪の念が泥酔へと導いていた故、その責任は全て僕にある。
どこまでも自分勝手な自分に嫌気がさす。今夜、もしも例の居酒屋でオリヴァーに会ったら謝罪しよう。そのような重たい気分にずっと縛られているのも嫌だったので、彫刻を彫る事にした。いや、気分を重たくさせているのは、何もオリヴァーとの一件だけでは無い。毎日昼にやってくる、恒例の情報共有だ。
現在の僕はアンナにほぼ全ての主導権を握られている。彼女にカーヤの詳細を調査するよう命じられたものの、これといって進展はなかった。
カーヤはときたま僕の元に遊びに来るものの、僕の質問に答えられる程の語彙力、あるいは概念が備わっていないように思えた。何しろカーヤの本質は赤ん坊だ。その上、流産された胎児が特定の人物の思い描いていた姿となって目の前に現れている時点で、あまりにも謎だらけなのだ。そのようなあまりにも不可思議すぎる物事を、ただの生きた人間が解明できるとでも本気で思っているのだろうか。
そのように、アンナに対する一抹の疑念を抱きながら彫り進めてゆくと、あっという間に一羽の鳥が出来上がった。正直、鳥の彫刻に関していえば、アンナの方が上手だろう。アンナがこの家を去った後から現在に至るまで、彼女が彫った作品は残してある。中でも特に出来の良いものは、僕の部屋の棚の上にこっそりと飾っていた。それを眺める度に、なぜこのような美しい代物を創りあげる事が可能なのかと心底不思議に思うものだった。
鳥の彫刻が終わると、意を決してキノコを彫ってみる事にした。未だにキノコの絵を目の前で破り捨てられたトラウマは消えないが、それでもキノコを諦める事はできやしない。そう思ったところで、昨夜オリヴァーに言った覚えのある言葉が脳裏に蘇った。
“恋人はキノコだ!”
果たして僕の恋人は、本当にキノコだけなのだろうか。やはり気がかりになってしまうのは、僕の主導権を握る彼女の事だった。一度意識しだしてしまうと、彼女に対する思考や感情を制御できなかった。その為、昼での情報共有の際、僕はつい自分の立場もわきまえず、彼女に問うてしまった。
「君にとって僕ってどういう存在なんだ」
僕は、口にしてからしまった、と思った。そして同時に、いつか同じような事を彼女からも問われた記憶を思い出した。あの時、僕に追い詰められた様子でああ投げ掛けたのは、いったいどのような意図からだったのだろう。
アンナは、一瞬間だけ呆けたかと思うと、すぐに意地の悪い笑みを浮かべながら言った。
「何それ? 私にどう答えて欲しいの? あんたの事だから、まさか恋人だなんて言う訳ないでしょうね」
質問に質問で返されてしまった。それも、僕の心の奥を見破られたようで異様に気まづくなった。
そんな僕にお構い無しに、アンナは質問の上にさらに質問を重ねてきた。
「でも、恋人の定義って何? 熱いキスをする事? 今の私たちみたいによく一緒にいる事? それとも、以前のあんたみたいにいやらしい行為を沢山する事?」
僕の全身は、その投げかけにより強ばった。恋人の定義等考えた事もなかった自分にとって、その質問はあまりにも予想外なものだった。何よりも、最後の例えが以前の僕の醜態を思い出させ、羞恥心を掻き立てた。あまりの不甲斐なさに、いたたまれなくて仕方がなくなる。
おそらくアンナは、僕を責めているのだ。過去に数人の異性とふしだらな関係にあった癖して、彼女に恋人など大層なものを求めている事を察して。
冷静に考えてみればすぐに分かるはずだった。僕は、彼女と結ばれる資格などない。彼女の幼少期からして、僕の過去の私生活は見るに堪えない代物に違いない。彼女自身でさえも忘却しているとはいえ、潜在的な無意識が彼女に強烈な嫌悪感を与えている事を想像するのは容易い。何より、僕はアンナをアンジェリカとして扱いたいが為に彼女に優しくしたのだ。誰からも見限られ、優しさを求めている彼女に付け入り! なんと最低な事だろうか。自分でも吐き気がした。
僕が何も言えずに無言でいると、アンナはまたも畳み掛ける。
「それに、お父さんは同時に恋人にもなれるの?」
アンナは、先程の意地の悪い笑みを消し、代わりに不思議そうな表情を浮かべてそう問いかけてきた。
僕は彼女のその質問の意味がいまいち理解できず、ただ呆然とその場に立ち尽くす事しかできない。だが、それも次の瞬間にアンナから放たれた言葉により、理解できてしまう事となる。
「だってルーカスは、お父さんでしょ?」
アンナは、挑発的な様子を一切見せず、心の底からの疑問であるかのようにそう口にした。それにより、一つの答えが示されてしまった。アンナは元から僕の事を恋愛対象として見ていないのだ。過去に失くした父親の代わりとして、僕を視ている。
そう確信した瞬間、喉の奥から乾いた小さい笑い声が漏れた。僕もアンナも、しょせん同じだったのだ。死者にいつまでも囚われ、そのあまり目の前の生者をその代わりとする。まさに同類同士であった。
そんな自嘲と同時に、同類だからこそ理解できてしまう彼女の僕に対する感情を、酷く悲しく思った。これまでいかに自分が浮かれていたかが突きつけられたのだから、無理もなかった。
アンナと過ごした日々が思い返された。そしてアンナという少女に出会わなければ良かったと思う自分がいたのも事実である。
果たして、オリヴァーは今夜も現れた。場所は無論いつもの居酒屋である。
いつもと違い僕は、彼に謝る為に飲酒は控えめにしていた。どのような顔をして彼に合えば良いのか分からず、彼が現れるまでの間というもの、心臓を緊張の糸でがんじがらめにされていた。
強ばった体で静かに一人カウンター席に座っていると、つい昨夜聞いたような声が突如頭上から降り掛かってきた。
「やぁ、元気ですか?」
その平坦な声に即座に見上げると、そこには見覚えのある青年の姿があった。間違いない、オリヴァーだろう。昨夜は泥酔により朦朧とした視界での認識であった為、はっきりと顔を確認できなかったものの、どこか身に覚えのある雰囲気に彼だろうという確信が募った。
僕が、「君はオリヴァーか?」とおずおずと訊ねると、相手はどこか作ったような笑顔で肯定の意を示した。その張り付いたような笑顔には不気味さこそ覚えたものの、僕は昨夜の無礼を即座に謝罪していた。
すると、オリヴァーは先程の張り付いたような笑みから屈託のない笑顔へと表情を微妙に変え、そんな小さな事気にする必要は無い、と口にした。どうやら彼は想像以上に寛大な人間らしい。先程の表情からするに、少しは怒っていたようにも思えるが、それはあえて考えないようつとめた。
それから僕は、昨夜よりも酔いが回っていなかったというのもあり、オリヴァーと様々な事を話した。彼は現在フリーターであり、年齢は僕よりも四つ程年下である事。それから彼が昨夜も触れてきた、僕の恋人の事等。
その日の僕は僅かな酔いのせいか、どこかとち狂っていたのかもしれない。なんとアンナの事を彼に話してしまったのだ。これまで恋人だと思っていた相手が、実は自分に対して父親を求めていたという事、そしてその事実がどうしても居た堪れないという事。自分でもどうしようもないという事は理解していた。だが、この苦しみをどうにかして発散したかったのだ。その点、オリヴァーという新たな友人は好都合だった。
オリヴァーは、アンナに関する話題に対して、とりわけ興味深そうに窺ってきた。彼ほどの年齢ならば、こういった恋愛話に関心を募らせるのも頷ける。だが、何故か僕は、そんなオリヴァーの様子に尋常ではない執着めいた感情を読み取ってしまった。アンナの名前や容姿を、執拗に聞いてくるのである。
その上オリヴァーは、嫌味を感じさせない笑顔で「そんな面倒くさい女、とっとと縁を切ってしまったら? このままそいつに付き合っててもろくな目に合わないよ」と平然と言ってのけた。流石にその無神経な発言には腹を立てずにはいられなかった。
僕は、気がつけば衝動的に言い放っていた。
「そんな事は彼女の事をろくに知らない人間がしていい発言じゃない。確かにアンナは時折何を考えているか分からない時はあるけど、彼女にだって複雑な事情があるんだ」
すると、オリヴァーは何やら含みのある声色で、言った。
「では、“複雑な事情”とやらがある人間は、何をしたっていいと?」
そのどこか挑発的にも聞こえるオリヴァーの言葉に、僕は年甲斐もなくムキになって返す。
「何をするも何も、その行動が具体的にどういったものなのかが分からない以上、答える事はできないよ」
「よくあるじゃないか。殺人犯の動機や要因の一つとして、背景が劣悪な環境だったとか、被害者のせいで人生を狂わされたとか」
僕は、そのオリヴァーの発言にすぐさま言葉を失った。僕は身をもって知っている、そういった事が原因の一つで人間を殺めた事のある人間を。何も反論の余地がなかった。むしろ僕は気分が悪くなっていった。何故自分は今こうしてのうのうと生きているのか。僕にそれ相応の罰が当たっていないのを見るに、神とやらは存在しないらしい。いや、もしかすると、アンナとの一件がそれに該当するのかもしれない。
そんな風にぐるぐると思考を巡らせていると、不意にオリヴァーがテーブルを叩いた。その音によって僕は我に返る。オリヴァーを見やると、何やら確信を込めたような瞳で、僕を見つめていた。その表情は、まるで長年探し求めていた獲物をついに発見したかのような喜びを帯びているような気がして、背筋がうすら寒くなった。
だがオリヴァーはすぐに普段の冷静な表情へと戻り、僕との雑談を再開し始めた。僕は安堵こそ覚えたものの、拭いきれない不安と共に彼と夜を過ごした。
それからも毎晩彼とおなじみの居酒屋で雑談を交わした。もうオリヴァーは、あの日のような不気味な表情は見せなくなったし、こちらを試すかのような質問もしなくなった。
故に僕は安心して新たな友人との会話を心から楽しめるようになっていた。思えば年齢の近い同性の友人は初めてのような気もする。それに何より、彼とは初めて会った気がしなかった。鼻ら辺に散ったそばかすがどうもデジャヴを引き起こした。だが彼の様子からして、僕と彼が初めて出会ったのはこの居酒屋で間違いない。
それにしても、最近カーヤは夜に僕の元に遊びに来る事は無くなった。それもそうだろう、泥酔しきった奴と遊びたがる子供などいないだろうから――そう思った瞬間、自身の父親としての責任を放棄している罪悪感が胸中を覆う。だが、カーヤにはアンナという、他にも僕並に懐いている相手がいる。ならばカーヤが寂しい夜を過ごす事もないだろう――それが、瞬時に生じた自己防衛だった。
そのように呑気な思考に耽っていたからだろう。彼との出会いがあれ程僕にとっての罰になり得る等と考えてもいなかったのだから。




