8-ⅰ 俺の決意
「やめて、父さん! これ以上この子に手を出すようなら私が身代わりになるわよ」
決まって毎日家の中で響き渡るのは、僕に殴りかかろうとする野蛮な父の怒号と、それを止めに入る姉の声だった。
「私の身体に傷一つでもついたら商売ができなくなるって、わかってるでしょ?」
姉がそう言うと、父は大きく舌打ちをしてから壁に殴りかかった。ただでさえ脆い壁は、瞬く間に瓦礫の欠片を落とした。何も壁に穴が空いているのはそこだけではない。気づけば家中ボロボロだった。それもこれも全て父の癇癪によるものだった。
「ごめん、姉さん。また迷惑かけちゃった」
僕は、姉と外に出ると、姉にそう謝罪した。これもいつもの事だった。
すると姉は、悲しそうな表情をしたかと思うと、すぐさま笑みを携えた。その笑顔は、強がっている事が容易くわかってしまう程に張り詰めていた。
「何言ってるの。ユリアンが謝る必要なんてないの。私はあなたが大切だから、あの人から守りたいだけなの」
姉はそう言うと、僕の頭をそっと撫でた。とても優しい手つきで、その暖かさに思わず涙ぐんでしまう。これも、いつもの事だった。僕が謝ると、姉は優しく抱きしめてくれたり、頭を撫でてくれたりする。
だが、今日はいつもと違う点が一つだけあった。
「僕、大きくなったら姉さんを守れるような男になるよ」
この時初めて僕は、これまで胸中に留めていた決意を口にしたのだった。
すると姉は、心の底から嬉しそうにはにかんだ。
「ありがとう。ユリアン」
そこで現実世界へと帰還した。
未だに夢の中での姉の笑顔が脳に、網膜に、心臓に焼き付いて離れない。ベッドの上から起き上がれないまま、刻一刻と時が過ぎてゆく。
このような夢を見てしまうのは、おそらく昨日のカーヤとの会話による影響だろうだろ。未だに魂を焼き焦がす灼熱は冷める事なく、ある男への憎悪を湧き上がらせる。
あのようなクソったれな事実が事実であっていいものだろうか? どこまでも神というものは残酷だ。
だが、いつまでもこうして打ちひしがれている余裕などありはしない。今日も朝から仕事がある。俺は、酷い頭痛と込み上げる怒りに苛まれながら、支度をした。
嫌でも脳内を駆け巡る残酷な真実に、仕事中も襲われ続けた。それにより、何度かミスをしてしまった。俺がミスをするのは滅多にない事だった為、余程疲労が溜まっていると判断したのか、フランツさんはいつもよりも長く休憩をとるようにと命じてきた。それは今の俺にもありがたかった。少しでもいいから思考の整理が必要だった。
ふらつく足元で外に出る。頭痛は増していくばかりで、思考の整理どころの話ではなかった。気を紛らわせる為に、俺は浜辺へと向かう。本来ならば心地よいはずの波の音も、姉の記憶によるせいで、嫌なものに聞こえて仕方なかった。
それでも、僕の足はここに向かう事を選んだ。もしかしたら、姉の死んだ場所で、姉に問いただしたかったのかもしれない。
カーヤの話していたあれらの事は本当なのか。ならばどうして俺に相談してくれなかったんだ。そう思ってしまうものの、本当は知っていた。姉はあの男に惹かれていた。弟の存在など気にかける余裕など持ち合わせる事もできないまでに溺れていた。
ふいに頬が濡れた感触がした。雨でも降ってきたのだろうかと思ったが、俺の頬を濡らしていたのは熱い涙だった。
未だにぬぐい去れない喪失感と共に、浜辺の奥へと向かおうとした、その時だった。前方に、見覚えのある男女が見えた。そしてそこには、カーヤの姿もあった。
俺の全細胞が怒りではち切れそうだった。前方にいるのは、間違いなく、カーヤの話していた彼女の父親だ。そしてそれは同時に姉が恋焦がれていた対象でもあった。俺は数年前、あの男を実際に目にした事がある。故に、見間違える筈がない。姉の言っていた通りの、珍しい鳶色の髪に、いかにも育ちの良さそうな身なり。
あいつから放たれるオーラ全てに吐き気がした。
人を追い詰めておいて、人の人生を狂わせておいて、何お前は普通に生きているんだ。それも、娘の霊魂なんかに懐かれて。その上、姉にあの様な事をしておいて新たな女まで連れている。
その瞬間、俺は悟った。あいつにとって姉は、数いる都合の良い女のうちの一人にすぎなかったのだと。手のひらから血が滴る。気がつけば握り締めた拳の爪が、手のひらにくい込んでいた。
それまであの男にくっついていたカーヤが、女の方へと移った。そして女の横顔を初めて直視した瞬間、全身が固まった。あいつと共にいる女は、つい最近同じ職場に入ってきた奴ではないか。それも、二年前にここで、霊が視えるだのと変な事をのたまった。
最悪な気分と共に、浜辺を後にした。腕時計を見やると、通常の昼休み休憩が終わるまでにまだまだ時間がある。だというのに、今の自分の休憩時間はそれよりも長いのだ。何もしていないと、先程見てしまった光景が脳に浮上してしまう。雑用でも何でもいいから仕事がしたい。
だが、仕事に戻ったところで、また俺はあの事――カーヤから聞かされた事で頭がいっぱいになってミスを繰り返してしまうだろう。そう判断した俺は、民宿の二階にある自分の部屋に戻り、机に向かった。そして紙を取り出すと、そこにボールペンでがむしゃらに書いた。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
この程度ではとても足りなかった。俺の手は疲労した頭とは打って変わり、働くのをやめなかった。しばらくして、紙の表裏両方が「死ね」という言葉で埋め尽くされると、俺は脱力してそのまま机の上に突っ伏した。
蘇ってくるのは、昨日カーヤから聞いた、彼女についての話。カーヤはどうやら、あの鳶色頭の男が姉を孕ませた結果生まれた胎児らしかった。それも、結局姉が自殺してしまった為にこの世に産まれてくる事はなかった訳だが……。
俺は複雑な心境に苛まれる。初めて会った時から、不思議とカーヤからは泣きたくなる程の懐かしさを感じた。その正体がまさか、姉が残したものだったからだなどと予想が出来ようものか。そうとなれば当然、カーヤは俺にとって大切な存在だ。
だが、そこで厳しい問題がある。カーヤの父は、なんといったってあの男なのだ。確か名前はエドガーとかいった。姉が生前しょっちゅうあいつについて話していたものだから、嫌でも覚えている。
つまるところカーヤは、世界で最も大切な人の子でもあり、世界で最も憎い人間の子でもあるのだ。これから俺は、どうカーヤと接していけばいいのだろう。昨日は父親が判明するなり酷い暴言まで吐いてしまった。俺の精神は、混沌とした渦に飲まれて、今にも壊れてしまいそうだった。
俺は、風俗嬢だった母が父とは別の男、つまりは客との間に身篭ってできた子供だった。ただでさえ貧しい暮らしに、子供の存在は邪魔者でしかない。それらの理由から俺は、いつも給料をひったくる貪欲な父に特別憎まれていた。暴力を振るわれるのは日常茶飯事だった。幼い頃、何度か父に殺されそうになったが、その度に姉が助けてくれた。
姉の自殺後、母は客の男と蒸発し、薄暗い家には酒と暴力に酔いしれる父と、俺だけが残された。その父も数年前に死んだ。ギャングもどきの輩と揉めた挙句に殺されたのだ。誠に自業自得だと思う。
独りが寂しくないと言えば嘘になる。だが、父がいなくなってからかなり自由になった。何より、父に給料をひったくられることがない。一か八かで雇ってくれる民宿を探して練り歩いて辿り着いたのが、ここだった。
そんな事を回顧しているうちに、部屋の扉が開かれる音がした。頭を上げて扉の方を見やった瞬間、愕然とした。なんと入ってきたのはカーヤだった。彼女は、銀色に輝く瞳を瞬かせ、俺の方に近づいてきた。そして、俺が口を開くよりも先に、向こうが口を開いた。
「ねぇ、ままのお話、たくさん聞きたいって言ってたでしょ。だから今日も来ちゃった」
俺は、吐き気を覚えた。昨日、俺からカーヤに「君の母、アンジェリカについて知っている事があれば教えて欲しい」と頼んだのだ。初めて会った時はカーヤがあまりにも不審すぎたので追い払ったが、それからすぐ後、なぜか忽然と後悔が胸に残ったのだ。カーヤからは、懐かしい気配がする。そう感じた事に気がついた頃には時すでに遅し。
だが、幸運にもカーヤは次の日も俺の元へとやってきてくれた。そこで俺は、昨日の無礼をお詫びし、カーヤの無垢な優しさに救われながら、休憩時間に彼女に話を聞いた。そこで俺は衝撃的な事実を聞かされた。なんとカーヤは姉の子供らしかった。実際に外界の空気を吸う事はなかったものの、それまでの記憶は鮮明にあるらしかった。何とも信じ難い話ではあるが、同時に納得もできた。彼女から漂う懐かしさがそれを物語っている。
だが、そこで疑問が生まれる。いったい、父親は誰なのか。嫌な予感がした。姉は仕事では必ず避妊道具を使用していた。もちろん、姉の提示する条件に気がくわない連中もいただろう。それでも姉は妊娠しにくい体質だった為、身籠る事はなかった。少なくとも、俺が知る限りは。
渦巻く胸中が警報を鳴らす。知ってはいけない。一度予感が事実に変わってしまえば、俺はきっとまともに思考ができなくなる。それでも俺は、気がつけばカーヤに対して問いを投げかけていた。
「父親は……父親は誰なんだ?」
俺は、前のめりになっていた。そんな俺に対してカーヤは、嬉しそうな笑顔で答えた。
「るーかすだよ。ままは、えどがーって呼んでたけどね」
俺の脳みそが勢いよく破裂したかと思った。そいつの名前なら知っている。よく知っている。姉が生前、最も多く口にしていた男の名前だ。そして同時に、姉を狂わせた原因でもある男。気がつけば俺はテーブルを勢いよく叩き、カーヤに対して怒鳴っていた。
「出て行け、化け物!!」
それからの事はあまりよく覚えていない。俺は気を失っていたところをバルバラさんに発見され、自室のベッドの上まで運ばれていたのだ。その後まもなくして夫妻に事情を聞かれたが、俺は、何も覚えていない、と語るだけだった。夫妻は、疲労によるものだと判断し、あまり無理しないようにと気遣ってくれた。
そして今に至る。俺は、固まったまま動けないでいた。そんな俺にお構いなしに、カーヤは語り始める。
「あのね、ままはわたしと会う前に死んじゃったの。あ、これは弟ってやつだから知ってるか。それに、もっとよく言うなら、ままはわたしと会う前にわたしをうまれなくさせちゃったんだもんね」
そのカーヤの言葉に違和感を覚える。言語としてうまく成立していないものの、どこか引っ掛かるものがある。そしてまたもや、嫌な予感が駆け巡る。俺はこれまで、カーヤを姉が自殺した時にお腹の中にいた赤ん坊だと勝手に思っていた。だが、もしもそれが間違いだったとするならば。その可能性を考えただけで今にも吐いてしまいそうだった。
そして無邪気な妖精は、自分勝手に話し始める。
「あのね、うまれなくされちゃった時、すっごく痛かったんだよ! ままは凄くわたしに謝ってたけど、そんなの気になる余裕もないくらい。だってね、固くて鋭いもので足から次々に引きちぎられていったの! 本当に痛かったよ」
またもや嫌な予感が的中した俺の内側は、もはや後始末が出来なくなっていた。魂が憎悪の炎で焼かれる。その苦痛と共に叫びながら、先ほど殴り書きしていた紙を無造作に破っていた。ただただ一心不乱にそうする事しかできなくなっていた。
荒れ狂った脳は、かつて心身共にボロボロになって帰ってきた姉を回顧し始めた。真相らしいことを何も話さない姉。その日から姉はどこか上の空で、仕事から帰ってくるとほとんど寝ずに部屋の隅で本を読んでいた。
元気の無い姉を元気づけようと、姉を散歩へ誘い、二人で出かけた日があった。姉が好きな花畑での散策を提案すると、姉は一瞬頬をひきつらせたが、すぐに前のような朗らかな笑顔で承諾した。花畑の散策中、ずっと姉は気分が悪そうで、それを俺に隠そうと無理に頬をひきつらせていた。
その日は花畑を早めに切り上げた。そして並木通りを通り始めると、姉の顔色は幾らか良くなっていた。すると姉は突然立ち止まり、涙を零しながら僕に礼を口にした。
「ありがとう、ユリアン。ここまで私を気にかけてくれて」
なぜ謝るのか! 俺があんたを元気づけようとするのは至極当たり前の事なんだ。なんと言ったって、俺はあんたの弟なんだから。それに幼い頃誓ったんだ。あんたを守れるような男になるって!
その日の夜、姉は布団の中で嗚咽を漏らしていた。よく耳を済ませてみると、「エドガー」としきりに呟いていた。その弱々しい呟きに胸が締め付けられ、色々な憶測が脳内を飛び交い眠りにつくことが出来なかった。
後日、姉が以前しょっちゅう話していた人物“エドガー”について尋ねようとするも、いつ切り出そうかとタイミングを伺う日々が続いた。数日後、やっとの事で切り出すが、姉は表情を曇らせ、彼はいなくなってしまったとだけ口にし、それきり黙ってしまった。
いてもたってもいられなくなった俺は、以前姉と“あの男”が落ち合っていた浜辺へ向かった。その日あいつは現れず、次の日曜にも来なかった。
そんな日々を続けていたら、ある日姉に日曜に浜辺へ通っていることがバレてしまった。なんと言い訳をしようか頭の中が真っ白になっている俺に対して姉は怒るでもなく、事情を話した。自分が彼を怒らせてしまい、完全に嫌われてしまったから、彼はもうあそこへは来ない、と。
だからあれ程言ったんだ。あんな奴、本名を名乗ろうともしないような奴、信用してはいけないって。もう会うのはやめた方がいいって、何度も何度も警告した。ある日は姉と共に浜辺に行き、エドガーとやらがどんな奴であるか顔を見に行った事まである。名門な高等学校の制服を来ていた。相当な金持ちであると想像する事は容易かった。
なぜそのような良い所の出身の男が、貧民層の姉に接近したがるのか。そんなの決まっている。人が良い姉を都合よく利用しようとしているだけだ。そして、その予想は見事的中した。
馬鹿だ。本当に馬鹿だ。あんなに忠告したのに。あんなに守ろうとしたのに。結局姉は俺の言う事にろくに耳をかさなかった為に利用されて終わった。結局俺は口先だけで何もできなかった。兄弟揃って馬鹿だった。だが、こんな馬鹿なりにもやらなければいけない事を理解するのは容易かった。
あいつを――あの男をこの世から消さなければならない。姉にした事への報いを受けさせなければならない。




