8-4 絶対に許さない
旧市街地で見つけた安い宿に泊まり、すぐに次の日がやってきた。時間は私の事を待ってはくれず、あっという間に午後になった。昨晩は緊張のあまりよく眠れず、頭の中には絶えずルーカスの存在が漂い続けた。
それを鬱陶しく思うも、どうも脳内から離れてはくれなかった。その事実が余計私を追い込んだ。できればあんな奴のこと、考えたくなんてない。誰が嫌いな人間の事を進んで考えたがるものか。だが、私のそんな心に反して頭はぐるぐると奴の憎たらしい顔を映し続けた。
そのような事があった為に、私は少し彼に会うのが億劫だった。だが、ここで会わなければ、今後一生彼と会えなくなるだろう。それは、あの日の真相と、奴の秘密を知る機会を永劫に失う事を意味する。後者に関しては、奴について少しでも多く知る事で、カーヤの正体を突き止める一歩に近づくのではないか、という考えからだった。
奴は、私があの家を出ていく日に自身の罪を自白した。だが、もしかしたらまだ他に隠している事があるのかもしれない。そう思うのは自然だった。
そして、もしも更なる罪が明らかになった時、私は奴を糾弾してやるのだ。それこそ、地の底に這い蹲ることしかできなくなるくらい、徹底的に。それ程までに、私の中の憎悪めいた何かは膨れ上がっていた。
とうとう指定の時刻の五分前になり、私はルーカスの住居の玄関扉の前に立っていた。着いてきたカーヤには、古本屋で買った絵本を与え庭で待っているよう事前に言っておいた。
高鳴る心音により揺れる指で、インターホンを押す。
すると即座に扉が開き、その向こうから、昨晩頭の中で散らかっていた顔が現れた。その憎たらしい顔は、何故か安堵の表情を浮かべたように思えた。それが何だか腹立たしくて、私は真顔を崩す事なく冷たい瞳で彼を見据えた。
すると彼は、僅かに俯きながら、私に入るよう促した。私は早足に歩き、無言のまま居間のテーブルへと腰掛けようとした。だが、その行動もあるモノによってはばかられた。
ちらと視線をやった先、ソファの下に、紙切れが落ちている。そしてその紙切れの上には、二年前嫌という程見慣れた物体が描かれていた。
私は、彼の「あっ」という情けない制止まがいの声にお構い無しに、それを拾い上げる。やはり、思った通りだった。おそらく元はスケッチブックの一部だったであろう紙切れの上には、おびただしい数のキノコが量産されていた。シャープペンシルで陰影をつけられた、無駄に立体感のある無数のキノコが、私を見つめている。
おそらくこれを描いた主は、来客の存在が気がかりで仕方なく、その緊張を和らげる為に必死にこれらを描いたのだろう。その姿を想像すると、誠に滑稽だった。
私は、紙切れに視線を落としながら鼻で笑った後、彼に向き直った。そして、あえて彼の瞳を直視しながら、彼によく見えるように真正面からその紙切れを破り捨てた。キノコは両面びっしりに描かれていた為、彼の目にはちゃんとキノコが無惨に破り捨てられる光景が映っていた事だろう。
私が紙切れを堂々と破り捨てるなり、彼の表情は絶望に染まっていった。その彼の無様な姿が愉快で、私は胸の奥が疼くのを感じた。だが、いつまでもこの悦に浸っている訳にはいかない。私は、おもむろに咳払いをしてから、落ちた紙切れはそのままに、ダイニングチェアへと腰掛けた。彼はというと、紙切れに名残惜しそうな目線を残してから、ダイニングテーブルを挟んで私の正面に着席した。
「じゃあ、早く本題に入って」
私は即座に口火を切った。今すぐにでも何かを言わなければ、この空間を沈黙が永遠に包み込むような気がしてならなかったからだ。
するとルーカスは、先程の出来事が嘘のように、意を決したような表情となった。私は、その真剣な眼差しにほんの少しだけたじろぎそうになる。
だが、ここで負けてはいられない。この機会を逃してしまえば、私の求めていたものはおそらく二度と手に入らなくなる。徐々に逸る心音を自分に対し誤魔化しながら、私は汗ばむ両手を膝の上に置く。
そして、彼は何故か苦しそうに口を開く。その瞬間、空気が変わった。それまで感じていた懐かしさは消失し、まるで見知らぬ場所にいるかのような心地になった。
「まず聞いておきたいんだけど……君が知りたいのは、どうして自分が自由の身になれたのか。母の死はなぜ世間に漏れていなかったのか。それらだけか?」
対して私は、空気の重さに押しつぶされそうになりながらも、はっきりと言い放つ。
「ええ。そうだけど。それ以外にあると思う?」
私は、無意識に喧嘩腰になってしまった。だが、それ程までにこの男に対し苛立ちを募らせていた。私の知りたい事など、考えればすぐに分かる事だろう。なんといったって、思いつくであろう要素がそれらしかないのだから。
するとルーカスは、「そうか。わかった」と、何故か安堵したような表情を僅かに浮かべ、すぐに神妙な面持ちへと切り替わった。だが、その瞳の奥にはただならぬ緊張が見て取れた。
「君を麻酔銃で襲った男が、君の母親の恋人である事は知っているね。それで、その男がなぜ君を襲ったのか。それは……君の母親が生前考えていた無理心中を完遂させる為だったんだ。この無理心中というのは、もちろん、君と君の母親の事を意味する」
私は、言葉が出なかった。今しがた彼の話した内容が、あまりにも予想外すぎたからだ。
無理心中? なぜそのような事を――。そこで、私は、以前母の言っていた言葉を思い出した。
“私の唯一の娘、アンナ。愛しているわ。私も、すぐそっちに向かうから、どうか待っててくれたら嬉しいわ”
この言葉は、確か母が私を殺害しようとした時に放った言葉だ。当時は意味がわからなかったが、無理心中という言葉と重ね合わせてみると、確かに納得できるものがあった。ようするに、母は、私を殺めた後に自分自身も死ぬ事を決めていたのだ。
私は、納得した事でさらに困惑した。では、母が無理心中を企てた理由はいったいなんだというのか。そのようにぐるぐると思考を巡らせていたら、ルーカスの冷静な声が耳に届いた。
「当然、困惑するのもわかるよ。いきなり無理心中の標的だったなんて知ったら、困惑するのが当然だ。でも、まだ話は終わってないんだ。……どうする? 少し、休憩してから続きを話そうか?」
私は、そのルーカスの提案を即座に断り、続きを話すよう促した。もうほとんど意地のようなものだった。
「わかった。それまでの勇気があるなら。それで次は、どうして君の母の死が世に知られていないのか。それは、あの恋人の男が、君の母の死体を食したからだ」
この男は、いったい何を言っている? 私は、ただでさえおかしくなりそうだった頭が、まるで、様々な色でごちゃ混ぜになったパレットのように、混沌としていくのがわかった。故になのか、ルーカスが私をからかっているかのように思えてきて、腹立たしくなった。
「食べる……? 意味、わかんない! そんなわけないでしょ。私を馬鹿にするのもいい加減にして」
人間が人間の死体を食べるなんて、そんな現実離れした事があってたまるものか。私は、確かにそう憤慨していた。だが、ものすごく現実離れしている現象が私の身近で既に数年前から起こっている事も事実であった。
「事実だよ。アイツは、常識が通用しない人間だったんだ。いや、人間なんかじゃない――バケモノだ、アイツは」
その、ルーカスの口から放たれたバケモノという言葉に、私の心臓は大きく跳ねた。確かに人を食べるだなんて、とても人間とは思えない。それこそバケモノという言葉が似合う。けれどその言葉は、私の自尊心を踏みにじるものでもあった。だからこそ、ルーカスが平然とその言葉を使用したのが断じて許せなかった。
「確かに人喰いなんて普通じゃない。でも、だからってバケモノなんて呼んで完全に突き放すなんて、それは違うでしょ。たまたまあんたが常識を持って生まれてきただけでしょ? その傲慢さ、気持ち悪いのよ」
私は、自分で言っておいて何だかおかしな話だと思った。何せ私は、自分を襲った人間の事を庇っている。いや、あの男を庇ったのではない。私の心を守ろうとして発しただけの反論に過ぎない。
ルーカスは、私の言葉を聞くなり、息を飲んだ。そして、悪かった、と心から反省しているように謝った。事実、彼の性格からして反省しているのだろう。私は、そんなルーカスの態度に対し、ただ鋭い眼光で睨みつけるだけだった。
一瞬の沈黙がおりた後、ルーカスは再び語り始めた。その声色は、先程よりも慎重さを増していた。
「それで……僕が、どうやってあの男を始末したかなんだけど……」
「殺したんでしょ?」
私は、間髪入れずにそう投げ掛けた。するとルーカスは、今度こそ動揺を隠せない様子で、ただ黙って私を見つめた。やはり、図星だったらしい。
「だってあんたっておかしい程にお人好しなんだもの。どうせ、私が母親を殺したのも、殺されそうになったのも、過去に自分が起こした殺人事件が原因だと罪悪感を覚えてるんでしょ? 自分の手を汚す事で罪滅ぼしをしようとしたんでしょ。そんな魂胆、全部丸見えなんだよ!!」
私は、何故だかルーカスへの怒りが増幅し、気づけば怒鳴っていた。そして自分でもおかしな事に、泣きそうになっていた。もう、自分の内側を支配する感情が何が何だか分からなくて、それが余計私を追い立てた。
「意味わかんない! 何でそんなに馬鹿なの!? 信じられない、信じられない、本当に馬鹿すぎる」
私は、テーブルに突っ伏して、右手を思い切り叩きつけながら、そう涙声で叫んだ。
どうして私なんかの為にそこまでするのか。どうしてそこまで呆れる程の自己犠牲野郎なのか。本当にこいつは馬鹿だ。大馬鹿者だ。どうして私は、こんな馬鹿な人間に、出会ってしまったのだろう。切ないようで苦しい感情が胸中を駆け巡る。
「…………ごめん」
肝心のルーカスといえば、そう謝るのみ。おそらくこの状況で他に何を言えばいいのか分からず困惑しているのだろうが、今となってはそれさえも私の怒りや虚しさを生むだけだった。
私は、突っ伏していた顔を上げ、未だ涙の乾かない瞳でルーカスの顔を見やった。そして、その間抜け面に対して言ってやった。
「私は許さない。あんたが私の罪を自分の罪だと勘違いして、私から罪を奪った事を。――絶対に許さない、あんたがそこまで馬鹿な真似をした事を」
それは、まるで永久に解けない罪の烙印を押された堕天使を糾弾するかのような声色だった。
対してルーカスは、何も言えずに固まるだけ。そんな彼に、私はさらに畳み掛けてやった。
「私をカーヤの母親と重ねて弄んだ事、それからさっき言ったあんたの罪。それらを完全に贖罪しない限り、私はあんたを逃がしてやらない」
私は、自分の本心にさえ気付かぬまま、呪縛の言葉をそう言い放った。
ルーカスは、テーブルの上で組んだ両手を震わせ、悔恨の色が滲んだ瞳で真っ直ぐに私を見据え、重々しく、けれどはっきりと口を開いた。
「ああ。わかった。僕はもう自分の罪から逃げたりしない」
そうして、ルーカスは私の奴隷のような存在となった。それは彼と出会った当初、私が非常に望んでいた関係だった。だのに、何故か私は満たされる事がなかった。当然ながら、血液への欲望は既に私の中から消えてしまっている為、慰み者として利用するといった願望もない。だからだろうか、私がかつて待ち望んでいた関係性になったのにも関わらず、胸中がこんなにも伽藍堂なのは。
私はルーカスに、カーヤの真相を暴く事を命じた。どうやら、私が遠戚の元に預けられると、カーヤの存在が消えたらしいのだ。何も、見えなくなっただけで本当は存在している、という訳ではなく、カーヤ本人の言い分からしても、消失である事に違いない。
以前カーヤは口にしていた。私が遠くへ離れると、カーヤは存在できなくなると。ようするに、私がカーヤの存在理由の鍵となっている可能性が高いのだ。だがそこでどうしても気がかりになる事がある。では、どうして私なのか。ルーカスがカーヤの本当の父親なのだ。なのに、その彼を差し置いて、どうして私が彼女の秘密の鍵として成り立っているのか。
「それは、わたしとあんなが同じだからだよ」
カーヤに問うたところで、そう返ってくるのみだった。
昨日の喫茶店で合流したホルテに、そのカーヤへの疑問、それから、ルーカスと仲直りしカーヤの真相について暴く事に協力して貰える事になった旨を報告した。もちろん、ルーカスとのやり取りをそのまま正直にホルテに話す事はなかった。
私は何もルーカスと仲直りなどといった平和交渉を交わした訳ではない。むしろ、私の中での彼は、奴隷だった。先程会った彼も、まるで裁判官に詰問される囚人のような気配を漂わせていた。
そして、職場の先輩にカーヤの叔父がいた事も話した。すると、ホルテの表情はみるみるうちに険しいものに変わっていった。そして彼女は、至って真剣で、そしてどこか警戒を孕んだ声色で、「そいつとは関わらないようにした方がいいわ」とだけ口にした。
それに対し、私は異議を唱えた。
「どうして? 相手もカーヤが見えてるんだよ? なら、何かヒントが得られるかもしれない」
私がそう言うと、ホルテは、目を伏せながら苦しそうに呟いた。
「……いいの。理由なんて知らなくていいから、とにかくそいつからは離れて。それで、相方の存在も知られないようにして」
おそらく、彼女の言う相方とはルーカスの事だろう。
私は、それはどうしてなのかと問いただしたい気分に駆られた。だが、ホルテはそれを察したのか、すぐに別の話題に移ってしまった。私は、内心不満ながらも、久しぶりの友人との再開に喜びながら、昨日話しきれなかった色々な事を話し合った。
だが、ホルテと別れた後、ずっと気がかりで仕方なかった。何故なら彼女からは、表面に出さないよう何とか取り繕おうとしていたものの、私に対する強い心配の色が見て取れたからだ。
その後も、彼女の言う“同じ”の意味が見当もつかない私は、ホルテの警告も相まり、もやもやとした胸中と、ぐるぐる回り続ける脳内でもって、仕事に取り掛かり始めなければならなかった。当然、カーヤも遊びに来た。私が仕事中でも、買出し中でも、カーヤは必ず私にちょっかいをかけてきた。ルーカスと私の間を行ったり来たりして、遊んでいるようだった。
だが、そんなカーヤの気まぐれにヒントを貰ったという点だけは、彼女に感謝するべきだろう。本格的に仕事が始まる今日、またしてもカーヤが宿を訪ねてきたのだ。
それは私に会う事よりも、ユリアンに会う事を優先しているように思えた。そのくらいカーヤはユリアンに興味を募らせていた。それもそうだろう。何せユリアンはカーヤの母の弟、つまりは叔父にあたる存在だ。その事実だけでも気になるだろうし、母の事を話してもらいたいという願望もあっただろう。
そして、驚く事にユリアンは、昨日はあんなにカーヤの事を拒絶していたというのに、今日はまるっきり態度を変え、まるで近所の子供を相手にするかのように親切になっていた。なんと彼はカーヤを追い出すどころか、休憩時間に彼女を宿の庭に案内し、茶を入れていた! 私は、仕事の隙間時間にこっそりと近づき、聞き耳をたてた。
「どうりで。君といると凄く懐かしい気持ちになる訳だ」
間違いない。今聞こえてきた優しい声は、間違いなくユリアンのものだった。普段の冷徹な眼差しからは想像がつかない程に柔らかく、そしてどこか浮き足立ったような声だった。それと同時に、ホルテの言っていた言葉が脳裏に蘇る。
そいつとは離れた方がいい――そう彼女は根強く言っていた。だが、私はそのような危険性を彼から感じ取れない。度々睨みつけられた事はあるけれど、根は優しい人柄のような気がする。それはなんとなくな感覚だが、確かに、私はホルテの警告に対し懐疑心を募らせていた。
いっその事、ユリアンに事情を話し、調査に協力して貰うのはどうだろう。信じて貰えるかは分からないが、試してみる価値は十分にありそうだ。
と、そのような事を考えているうちにバルバラさんに声をかけられた。
「あら? アンナちゃん、そんな所でぼーっとしてどうしたの?」
私は、急いで仕事に戻った。




