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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: ちゅんぴ
第8歌 蝕む呪縛
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8-1 二年後

 私の世界は死んでいる。どこもかしこも灰色で、まるで私の内側の空虚が外界に溢れ出したかのように、誰一人として生気を感じさせない。私以外の人間は、皆ロボットのようだった。本当は生きているはずなのに、生命を感じられなかった。


 こうなってしまったのはいつからだろう。以前は、私の世界は、生き生きとして様々な色を放っていたはずなのに。何かが、あるいは誰かが足りない気がする。そうは思っても、その対象がいったい何なのかは分からない。


 そんなある日、お母さんと近所の森を歩いていたら、鳥の死骸が落ちていた。その鳥だったモノからは、赤い液体が溢れ出していた。この灰色の世界で、唯一鮮明に輝く色。そして、この死んだ世界で唯一生命として認識できるもの。それを、ようやく見つけた。

 私はこの瞬間、久方ぶりに自分以外の生命を感じ取る事ができた。それだけでなく、自分の世界が死んでいないという確信も得た。それから私の頭の中は、赤い血でいっぱいになった。あの感動がある限り、もう、私は寂しくなんてないのだから。


 の中で回想される幼い私。けれど覚醒してしまえば、瞬く間に消えてしまう儚いもの。


 ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎


 ルーカスという人間が私の世界から消失してから、約二年という月日が過ぎた。もちろん、かつての幻想、カーヤという存在も私の傍には一度も現れない。


 私は、預けられた親戚の家の近くにあるフラワーショップで働いていた。どうして私が仕事先をここを選んだのかは、自分でも分からなかった。やはり、血の繋がりというものは誤魔化せないものなのだろうか。

 ある日、店前で鳥の死骸を発見した。それは赤黒い血で染まっていた。私は、どうしてこんな場所で死んでしまったのか……という疑問を抱きながら、店長に報告しにいった。すると、人の良い店長は、供養してやろうと提案した。私はそれに同行した。鳥は、店の裏庭に埋葬された。

 仕事から帰宅し、自室へ戻る。思い出されるのは、仕事先で見た鳥の死骸だ。

 あんなにも血液で染まっていたというのに。あんなにも内蔵がこぼれ落ちていたというのに。私は、何も感じなかった。何も感じる事ができなかったのだ。

 私はベッドに横になり、悔しさに涙が滲む瞳を閉じた。かつて私の内側を焼き焦がしていた衝動は、今となっては完全に消え失せてしまった。それもこれも、一人の人間のせいである。


 ルーカス・ロイエンタール。二年程前に突然私の目の前に現れ、帰る場所のなかった私に衣食住を与えてくれただけでなく、私の身を狙う人間からも救ってくれた、命の恩人。にも関わらず、二年経過した今もなお、私を苦しめ続けている対象でもあった。

 私は、あの日――母の恋人に麻酔銃で撃たれた日――の事を殆ど知らない。ルーカスは、必要最低限の事しか教えてはくれなかった。その上、その説明だって人伝であり、彼の口から実際に私に向けて発せられたものではない。それらの事実が私の心を靄で覆った。

 あんな事があったというのに、なぜ彼は私に何も言う事もなく、最後まで私に会う事がなかったのだろう。正確には、先に彼の前から消えたのは私の方であったが、それでも納得いかないものは納得がいかない。

 必要最低限の事をして、後は何もしないだなんて、まるで私の事を捨てたようではないか。そう思う度、言いようのない切なさと苦しみが私を襲う。それは今日も例外ではなかった。私は、ベッドの上でひとり、静かに涙を流していた。


 ――死にたい。心中に溢れた声はそれだった。


 かつての安心から捨てられた自分も、かつての衝動を忘れてしまった自分も、どちらも無価値なものだった。

 現在はこうして身の危険も何も無い、いわゆる“普通で平和”な生活をおくれている。これは紛れもなく、ルーカスのおかげである。だが、これらの日々は、ただ空虚な生活をおくっているだけでもあった。胸中には空洞が空き、そこから風が吹き抜けてゆくかのような毎日。

 私にとっての喜びとはいったいなんだったのだろう? それはやはり、血液の憧れだろう。けれど、今となってはそれももう過去の憧憬と化してしまった。またもや、昼間見た鳥の死骸が脳裏に走る。何も感じない。


 やはり私は、変わってしまったのだ。この変化を、いつかルーカスと共に喜んだ事があった。だが、現在はその変化が私を苦しめる要因となっていた。昔の自分に戻りたい。そう強烈に切望する毎日だった。あの頃に戻れれば、空虚な毎日でも空想で一時の悦びを得ることができる。

 そして私は、空想した。精神的に打ちのめされているルーカスの姿を。屈辱と苦痛に苛まれ、もはや身動きできないまでに追い詰められている彼。その瞬間、私は忘れていた感動を思い出した。


 これだ! この感覚だ! 私が取り戻したかったものは――。

 まるで全身に電流が走ったかのようだった。心臓が熱くなってゆくのがわかる。なんて素晴らしい瞬間だろう!


 その日私は、翌日が休業日というのもあり、シャワーも浴びずにそのまま眠りに落ちてしまった。久しぶりに覚えた心地の良い感覚に、どうしても抗えなかったのだ。

 そして、幾度目かの給料日がやってきた。私は、帰還するなり通帳を確認する。通帳には、数百万円分の貯金が記されていた。そして次に壁掛けのカレンダーを見やる。あと二週間程で、七月だった。

 とうとうこの時がやってきた。私の胸は大きく弾み、抑えきれないほどの興奮が襲う。

 私は、ホルテとある約束をしていたのだ――約束といっても、私が一方的に取り決めた事なのだが。七月の初め、私はホルテと――ルーカスの住むあの思い出深い町へ旅行への出かける。いや、ただの旅行ではない。フラワーショップももう時期辞めるつもりであり、新しい仕事先はあの町で見つけるつもりだ。そしてそのままあちらに住むのだ。その為にこの二年間、給料を何にも使わずに貯めてきたのだ。


 私は必ずあの町へ赴く。その決意が揺るがなかったのも、ホルテの存在のおかげであり、それと同時にルーカスのおかげでもあった。私は、何がなんでも彼を問い詰める。あの日何があったのか。なぜ私に重要な事なのにも関わらず、詳細を伝えなかったのか。

 そして、今度こそカーヤの正体を突き止める。カーヤはルーカスとアンジェリカの遺伝子を持つ胎児である事に変わりは無い。ただ、私が知りたいのは、どうして赤の他人である私に彼女の存在が認識できたのか。カーヤがよく口にしていた“繋がっている”とはいったいどういった意味なのか。

 それらを知るよりも前に私は死ねない。どんな事があっても、必ずこれらの目標は叶えてみせる。そして、それら全てを突き止める事ができたその時にやっと、私はこの世界から永遠に解放される。


 ⬛︎ ⬛︎ ⬛︎


 心地よい海風が私の長い髪をなびかせる。初夏の空は雲一つない晴天で、まるで今の私の心境を表しているかのようだった。

 私はまた、ここに帰ってきたのだ。運命のこの地に。


 ホルテとの待ち合わせ時間まではまだ余裕がある。予定の時間よりも数時間早く来ていて良かった。私は、眼前にひろがる、どこまでも青い海に近づいていく。青い世界との距離が縮まる度に、胸中を走る感情がある。その郷愁に包まれながら、私は砂浜へと足を踏み入れる。

 私がまだカーヤと出会ったばかりの頃。彼女は、こう言っていた。この海岸に来れば、またカーヤと出会えると。だが、海岸といっても範囲は広い。そこで私がまっさきに思い浮かべたのが、彼女と初めて遭遇した時の場所――奥まった所にある、小さな洞窟のある場所だった。


 確かに感じる。また彼女は私を呼んでいる。分かっている、私はもうお前を拒んだりはしない。だって私とあなたは同じ存在なのだから。

 カーヤの無邪気な笑顔が脳裏を駆け巡る。それと同時に、私の鼓動も早鐘を打っていた。あの日、初めてカーヤと出会った時は分からなかったが、いまなら分かる。この衝動の意味が。

 気がつくと目的地へと着いていた。そして私の視界に映るは、あの時と同じように、一際大きな岩礁の上に座り込む、銀色の乙女。


「迎えに来たよ。カーヤ」


 私は、無意識にそう口にしていた。

 するとカーヤは、まるで私がここに来る事を分かっていたかのように、微笑みを浮かべた。


「久しぶりだね、わたしのお姉ちゃん」


 私は、カーヤの真正面へと行き、手を差し伸べた。するとカーヤは嬉しそうにその手を取り、岩礁の上から降りた。背後を見ると、相変わらず洞窟の中には、真新しい花束が添えられていた。

 ここで亡くなった女性よりも、私は歳を一つ多く重ねてしまった。もしも彼女が今も生きていたならば、ルーカスは、私と出会う事もなく、彼女と共にいたのだろうか。そうなのだとしたら、私は彼女が亡くなった事に心底感謝を覚えなくてはならない。

 砂浜を歩きながら、カーヤに、私は告げた。


「カーヤが以前よく言ってた、同じって意味、分かったんだ」


 するとカーヤは、何も言わずにきょとんと私を見あげた。


「ルーカスが私の世界からいなくなって、凄く辛かった。それで、こういった体験は初めてじゃないような気がして。それが段々と確信へと変わっていったの」


 話しながら、私は砂浜に座り込む。すると、カーヤも隣に同じように腰掛けた。


「私はきっと、覚えてないだけで、昔も大切な誰かを失くしてるんだ。そしてそれは、カーヤも同じでしょう。お母さんには会う前に殺され、お父さんには、存在さえ知って貰えなかった。そういう意味だったんでしょ?」


 私は、静かに波打つ海を眺めながら、隣に座る妹に、そう問いかけた。

 地平線は、どこまでも広がっている。それにどこか、見守られているような不思議な感覚がした。


「うん。ようやくわかってくれたんだね。そう。わたしとあんなはおんなじなの。今も、願ってること、同じでしょ?」


 カーヤは、無垢な瞳で私を見つめる。私は、静かに立ち上がった。その意図を察したカーヤも立ち上がり、私の手を握ってきた。私は、その小さな手を握り返して、新たな目的地へと向かう。あの、一時期住み慣れていた、森の中の家へと。

 雑木林は、数年前よりも僅かに荒れていた。舗装済みの遊歩道のあちこちに、短い雑草が生えている。その光景だけで、時の流れを感じるには十分だった。

 私もカーヤも、無言で遊歩道を歩く。カーヤは、浮き足立つあまり何も話せない様子だった。対して私は、緊張を覚えていた。まるで長年の仇ともうすぐ対峙するかのようなプレッシャーを感じながら、歩を一歩、また一歩と進めていく。


 鳥の囀りさえ耳に届かぬ程に張り詰めた胸中は、前方に見えた一戸の住居により、瞬く間に消え去った。人は、緊張が極限状態になるとかえって何も感じなくなるらしい。それをこの瞬間初めて知る事となった。

 住居は、少しづつ目の前に迫ってくる。その度に、漂白された胸中は、ある色を孕んでゆく。それは憎悪のようでもあり、切なさのようでもあり、愛しさのようでもあるように思えた。

 やがて開けた場所に出て、そのままカーヤと共に住居の戸口まで歩を進める。あの男は今頃どのような事を考えているのだろう。私の事等、もうとっくに忘れ去ってしまっているのだろうか。またしても、私の中に憎悪の色が浮上した。

 深呼吸してから、インターホンを押す。隣のカーヤは、待ちきれない様子だった。無理もない。なんといったって、彼女にとっては二年越しの父親との再開なのだから。


 程なくして、扉が開いた。その向こうから現れた青年は、私たちの姿を見るなり、まるで幽霊を見たかのように硬直した。彼は、二年前と何も変わってはいない。少なくとも、外見は。


「久しぶり。会いに来たよ。お父さん」


 私は、にこやかな作り笑いを浮かべて、驚愕の表情を浮かべているルーカスにそう言い放った。

 ルーカスは、何を言えばいいのか分からないといったふうに、僅かに口を開けたまま微動だにしない。だが、カーヤの「るーかす、やっと会えたね!」という無邪気な声により、我に返ったようだった。そして、彼は目線を僅かに下にやり、小さく「久しぶり……」と答えた。

 二年ぶりに足を踏み入れる居間は、何一つして変わっておらず、質素なテイストを保ったままだった。まるでこの家の主の中身を映し出しているかのような空虚さだ。

 私とカーヤは促されるままにダイニングテーブルに腰掛けた。私の正面にルーカスが座ると、カーヤは私の隣から離れ、すぐにルーカスの隣の席へと移動した。


「どうしてここに来たんだ」


 ルーカスは、震える声でそう言い放った。それはまるで自責の念に未だ囚われているかのような声色だった。


「どーしてって、るーかすのことが好きだからだよ! ねぇ、あんな」


 カーヤは、父親を見上げながらそう明るく言った。


「うん。もちろん。話したい事が山ほどあったから、来たの」


 対して私は、棒読みでそう言い放った。あくまでも、顔には作り笑顔を浮かべたまま。彼ならば、その私の偽物の笑顔に即座に気がつくはず。そして、自身に向けられた感情も。数ヶ月同じ屋根の下で暮らしてきた人間の事だ。互いに嫌でもわかるものは、ある。

 ルーカスは、困惑気味に私の瞳を見据える。そんな彼にお構い無しに、私は畳み掛けた。


「ねぇ。どうしてあの日あった事を詳しく話してくれなかったの? どうして直接私に伝えなかったの? どうしてあれから私に一度も――」


 その瞬間、とうとう堪えきれずに私の両眼からは大粒の涙が溢れ出した。

 わかっている。私からこの家を出ていったのだから、ルーカスは当然私に嫌われたと思うだろう。彼の性格からして、傷つけてしまった相手に会わせる顔等ないと、自重したのだろう。そう、全ては私がこの家から出ていったから。そうは理解していても、どうして、という矛盾した感情が渦を巻く。


「――どうして、一度も会いに来てくれなかったの」


 とうとう私の口から、禁忌の言葉が溢れた。

 こんな事を言ってしまえば、お人好しのルーカスは私を放っておく事ができなくなってしまう。これ以上迷惑をかけたくないという良心の咎めもあった。だが、それを食い殺す増幅した愛憎が、私の中に潜んでいた。

 私は事件の当事者であるにも関わらず、最も事件を知っている人物には詳細を知らされず、挙句の果てには言伝を利用される。そしてその人物は、私がいつの間にか求めていた心の持ち主だった。それはなんて残酷な事だろうか。

 おかげで、彼と再度会うまでの私の二年間は、空虚に侵されていた。いや、今この瞬間も、虚しくてたまらない。心の中にぽっかりと空いた穴が、悲鳴をあげ続けている。

 ルーカスは、突然泣き出した私にさらに当惑し、申し訳なさそうに言葉を紡いだ。


「それについては、ごめん。君を傷つけるつもりはなかったんだ。でも、現にこうして君は傷ついている。それについては、本当に申し訳ない」


 彼の謝罪を認識するなり、さらに胸が締め付けられた。それは久しぶりに感じる彼の優しさに対してなのか、それとも、こうして苦しい現実を突き付けられているからなのか。

 すると、カーヤが突然口を開いた。


「違うよ、あんな。るーかすは、あんなを守るために必死だった。すごく頑張ってたんだよ」


 うるさい、そんな事分かっている。分かっていても、譲れない何かがあった。

 ルーカスは、まるでカーヤの言葉に便乗するように、再度口を開いた。


「あの日、あの男から聞かされた真相は酷いものだったんだ。だから君に全てを話す事は、同時に君を深く傷つける事だと考えたんだ」

「それでも私は、知りたい。全てを。あの日の全てを。あの男が言ってた話の内容も。カーヤの事も。それから、」


 あんたの事も。

 言葉がそう続く事はなかった。私の中にある彼への憎しみが、そう言うのを防いだ。

 とにかく、私は全てを知るつもりでここへとやってきたのだ。それだけは伝えなくてはならない。


「その為に、私はここに来たの」


 私は、やっとの事で言葉を振り絞った。テーブルの上に置かれてる私の両の拳は震えている。

 対してルーカスは、絶句していた。まさか、私がここまで本音をさらけ出すとは思いもよらなかったのだろう。それか、私の考え自体に驚いているのか。

 彼はしばらく黙った後、重々しく口を開いた。


「……分かった。そんなに君が望むなら、全てを話そう」


 私は、それまで心臓を縛っていた鎖が解けてゆくのを感じた。だが、それと同時に、忘れていた重要事項を思い出した。慌てて時計を見やると、まだホルテとの約束時間まで僅かに猶予があった。壁掛け式の時計は、二年前と変わらない場所にあった。それを認識した瞬間、郷愁の念が胸を焦がした。

 ルーカスは私の挙動に察したのだろう。問いを投げかけてきた。


「もしかして、他に予定があるのか?」

「ホルテと会うの。今から向かわなきゃ、遅れる」


 この時だけ、ホルテの存在が恨めしかった。彼女との約束さえなければ、ルーカスから話を詳しく聞けたのに。

 するとルーカスは、ある提案をした。


「じゃあ、焦らすようで悪いけど……話は明日にしよう。泊まる先は……」


 それきり彼は口を噤んだ。その表情には、心做しか悔恨の念が浮かんでいるように見えた。

 それから私は、ルーカスと明日の午前二時に対談をする約束をして、彼の家を後にした。もちろん対談の場所は、彼の住居でだった。

 カーヤは、二年ぶりの父との再開に感極まった様子で、ルーカスの元から離れなかった。そんな彼女は私に、姉妹に対するような何気ない口調で、夕方には私の元に戻る、とだけ言い残した。

第8章が始まりました。ここから一気にクライマックスに向けて加速します。

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