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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: ちゅんぴ
第6歌 罪が返り咲く音
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6-(0.5) 罪人にはどうか断罪を

 それからというもの、殺人を犯し少女を撃った記憶は頭の隅に追いやられ、出張ってくることはなかった。最新の罪も過去の懺悔も全て忘却の彼方へ追いやられた。――ピストルを忘れてきてしまったことなど、意識の外だった。


 だがある記憶だけは、内側の支配者のように居座り続けた。一人の人間の記憶――それも美しい部分だけで溺死してしまいそうだった。

 その呪縛に操られ、一日中外の世界を巡り記憶の庭で微笑む彼女の姿を探し求め続けた。必死に探しても、月日が流れても、残酷な世界は彼女の現れを拒み続けた。

 その日も探しに外へ出ていた。やはり今日も見つからなかった。頬に水が滴り落ちた。雨が降ってきた。空を見上げると、どこもかしこも分厚く薄暗い雲が陣取っていた。

 なにか、引っかかることがある。それはなんだろう。ああ、そうだ。以前雨の日、彼女はいつもの場所へいなかったんだ。会えないのは残念だが、今日はもう寮へ戻るべきだろう。この雨で風邪でも引いてしまったらいけない。早く戻らなければ。


『何考えてるんだよ』


 どこからか声が聞こえた。


『お前まさか、自分が何をしたのか忘れてないよな。期待が粉々になったからって想い人を陵辱したのは誰だ。あれだけ守りたいと願っておいて、蔑んでいた類の人間と同じようなことをするだなんてどこまでも救いがない』

『お前がたとえ死のうと無に帰ろうと、罪は消えない』

『お前が彼女を想うことは許されない』


 目が覚めると見知らぬ天井が出迎えた。妙に慣れないベッドの上だった。見ると、見知らぬ女性がベッド横の椅子に座りこちらを見ている。

 女性はおはよう、いやこんばんはと微笑んでから、軽食を作りに部屋を出ていった。

 しばらくすると女性はサンドイッチとグラス一杯の水を持ち部屋に戻ってきた。小さく 礼を言ってから、水を飲み干しサンドイッチを頬張る。顎に上手く力が入らない。どうやら彼女の家の前で倒れていたところを彼女に発見され、まる一日寝たきりだったらしい。


 改めて礼を言ってから、立ち上がろうと腰を持ち上げる。が、女性が両肩に手を添えてそれを制止した。僅かに持ち上げられた体は再びベッドの上に落ち着き、意図が分からず女性を見上げると、肩に添えられていた女性の両手が下がっていき胸元でとまった。現状が理解できず身動き出来ないでいると、ふいに耳に女性の細い指が触れた。そして彼女は、胸元に力なく頭を押し当てた。

 ほんの少しの間思考停止し、我に返り女性を押しのける。女性は残念そうに眉を下げて微笑した。その微笑みに生理的嫌悪感が募る。

 堅苦しい口調で再度礼を言い戸を開ける。

 去り際、女性は「いつでも来ていいからね」と笑顔で言った。それに答えることなく少し力を入れて戸を閉めた。


 彼女はいったいどういうつもりだったのだろう。恩人には変わりないが、例え悪ふざけでもよく知りもしない人間をいきなり誘うなんて非常識な上に軽薄すぎる。何より誘いに乗りそうな男だと侮られていたことが心外極まりない。

 いつまでもそのような事を考えてひとりでに腹を立てているのは馬鹿らしいことに気づき、他のことを考えることにした。

 そこで浮上したのは、ある疑問だった。なぜ自分はあそこで意識を失っていたのか。そしてその疑問は瞬く間に解消された。自分は人を探し続けていたのだ。そして、それよりも以前から忘れていた事実があることに気がついた。

 自分はひたすらその事実に蓋をして、世界を彷徨うことで逃げ続けていたのではないか。覗いてはいけない闇に触れてしまい、突然目眩に襲われた。しきりに後頭部が圧迫されているような鈍痛を訴えかけ、妙に冷えている頬に冷たい汗が伝う。お前に彼女を想う資格などありはしない、という言葉が鐘の響く頭の中を駆けていった。意識が沈む直前に頭の中で静かに響いた自分自身を咎める声が、今は鮮明に轟いた。


 それでも頭は、彼女の像を思い描く。秋の湖のような瞳がこちらを見つめた。その輝きは、それまで目にしてきたくだらない世界にも、希望を抱かせる程の美しいものが存在していることを、優しく教えてくれていたのだった。だが、次の瞬間には、その湖面は何も映さなくなってしまった。忘れかけていた暖かい感覚は即座に失意に呑まれていく。もう、この世のどこにも彼女はいない。

 おぼつかない足で林道を歩き、帰路に着いた。玄関扉の取っ手に手をかける。扉の向こうには罪人の帰りを待ち続けている悠久の牢がそびえ立っている気がした。

 こちらに気を留めることなく時は過ぎ去っていった。高等学校を卒業し、流れに身を任せるままに大学生になっていた。胸中はすっかり錆びて、蔦が這っていた。それは自然なことであり、また同時に、彼女への贖罪のようなものでもあった。


 大学の図書館は、外界に比べて生の香りが色濃く漂っていた。適当に本を手に取っては、文章の意味をろくに考えずに、機械のように文字の羅列を目で追っていた。その時本棚から抜き取った書物は、風景写真集だった。

 なんとなしにページをめくっていると、ある写真に目がとまった。アンジェと初めて出会った浜辺だった。入水自殺を試みたが恥ずかしくも転んでしまい、彼女がこちらを覗き込んでいたのを思い出す。それに連鎖し、灰色の精神に僅かに色が刺した。その色彩は、恐ろしいほど迅速に、僕の中に溢れていく。


 僕はその時、久しぶりに何かに対して――いや自分自身に対して、驚きを覚えた。この暖かい生きた感覚は、実に久しかったから。

 あれ程失望と懺悔に蝕まれていた相手に対し、今度は懐かしいようでいて真新しい灯火を募らせている。その不可思議な相手について思い出すことは、心臓を枯らすことよりも遥かに容易かった。

 朗らかで純粋無垢な笑顔、それは理不尽な境遇を全く連想させなかった。諦観を持った大人びた声、それは少ししか年が違わないとはまるで思えなかった。人生を諦めていても捨てきれない周囲の人間への愛、見ず知らずの人間へ理解を深めようと意気込む仁愛に満ちた精神、そして、ふとした時に影が刺す秋の湖のような吸い込まれる瞳。

 体の奥よりも深い場所で、心臓を呑み込もうとするようにくすぶる熱が、胸中を縦横無尽に広がっていく。それを否定するように力なく頭を横に振った。


「――違う、こんなのは」


 絞り出すようにして零れた震え声は、哀れなほどに弱々しかった。

 この沈痛により、愚鈍な僕はようやく自覚した。

 彼女への常軌を逸した感情は、消失した訳ではなく、斬鬼に蝕まれ心象の廃墟で埃をかぶっていたにすぎないことを。目覚めた魂は、頑なに目を逸らし続けていた自我に、信じられぬ本心を叩きつけた。アンジェリカとの顛末を記憶していてもなお、彼女の存在は、凍てついたこの心臓をかろうじて支えてくれていたのだ。

 それらの事実を認めることなどできるはずがなかった。全てまやかしであり、思い込みであり、単なる自己陶酔であることを切望した。

 瞬く間に紙面にしみが浮かんだ。屋内なのにも関わらず雨が降り始めたかのように、淡い斑点は数を増していく。震える手で写真集を本棚に戻し、嗚咽を堪えようと口元を腕で覆うが、まるで意味がない。奥底に閉じ込められていた感情の叫び声は、心臓を突き破って全身に響き渡る。


 陵辱の感覚を覚えていない訳では無い、綺麗な肌に刻まれた傷と頬に残っていた涙の跡が見えなかった訳では無い、卑怯に逃げた臆病な自分を許すことなどできない。

 であるのに、今自分は、部を弁えぬ許されざる感情に全身を焼かれていた。――複雑極まりないあの感情を表現することは、到底不可能だろう。

 当然ながら、こんな身勝手な感情が存在することは決して許されない。誰でもない誰かに問いかけた。この狂気はいかにして鎮めるか。こんな気味の悪い自分をいかにして殺すか。

 だが問いかける自身の声よりも一際大きく、もう一つの特別な名で自分を呼ぶ暖かな声が、胸の奥で響いた。その愛おしい声は、朝を知らせる子鳥のさえずりのように、幾度も胸の戸を叩いた。


 一度胸に灯った火はなかなか消えてはくれなかった。何度も悪夢にうなされ、何度も彼女を夢に見た。目覚めると精神は、自責の念と深い後悔により混沌とする。両手で自身の首を圧迫し、何度も自決を試みた。その度に、生の本能が手の力を弱める。

 自分で死ぬこともできないのか。本当に、何もできない、無価値な人間。

 呆けて天井を見上げていたら、ある不埒な言葉が脳裏を掠めた。いつでも来ていいからね、と薄気味悪い微笑で見送る女の記憶が、突然蘇ったのだ。

 禁忌の扉を発見してしまい、戸惑いと躊躇いが腹の奥で同時に燻った。以前の自分ならば誰かと淫らな関係を持つくらいならば命を絶ってしまった方がましだと断言するだろう。

 それでも禁忌の扉は、胸中に蔓延る卑しい情を掻き消すには、対照的な作用に頼るしかないと推し立てる。その心の声に対抗し、他に方法はないかとろくに働かない頭で思案した。だが、その奮闘も虚しく、空っぽの脳みそはなかなか良案を提示できず、根性も自尊心も沈没していた自我は思考さえもやめたのだった。


 久しぶりに会う彼女は、自分の訪問に酷く驚いたが、気前よく歓迎してくれた。どうやら彼女の名はマリーというらしかった。

 マリーと体を重ねている最中脳裏にアンジェの存在が浮上し、その罪深い雑念を粉砕するため、目の前の身体をひたすらに貪った。

 マリーと接吻を繰り返す度、触れる唇がアンジェリカのものだったらとどれほどよかったろう、と叶わぬ願いが胸を焼き焦がした。

 挙句の果てには、今身体を繋げている相手はアンジェリカであると自らに暗示をかけ、夢のような幸福に浸る時もあった。

 そして早くも、マリーの元によく訪問してくる女性たちとも繋がりを持つようになった。極限まで精神を腐敗させ、一瞬にして燃え広がる異常を跡形もなく塗りつぶしてしまいたい、そう自身に言い聞かせ続けた。


 だが実際のところは、いっそう卑しい動機である。だらしのない自分を虚偽の無い真実として受け容れることに一心だった。そうすれば、過去の己の罪に対し納得がいき気が楽になるかもしれないと思い浮かんだ時は、それだけでいくらか心が軽くなったほどだ。そして、未だ自分を支配するあれらの記憶をいつしか忘却の彼方へ押しやれるかもしれないと。

 だがそれだけでなく、複数の身体を味わう悦楽と、新鮮な優越感を求める恥ずべき意思も含まれていたことも確かであった。次第に、肉欲の下賎な色に染っていき、幼稚な理想と無駄な拘りを抱えた以前の自分とは別の人間になったように感じた。

 なんといっても、合意の上で異性を快楽で満たすことは、長年蓄積されてきた劣等感をかき消してくれた。ふとした瞬間に胸によぎる虚しさなど、過剰なまでに植え付けられた自信と押し寄せる快楽に瞬時に呑み込まれた。


 自身の変化に伴い、胸に巣食った熱も過去のものとして薄れゆくのが道理だった。

 実際、当初の目的通り、アンジェを忘れることができた時期があった。

 だが、ある日ふと思い出し自分を呪わずにはいられなかった。

 あれだけ彼女の境遇を憎んでおきながら、彼女を辱め痛ぶった身勝手さを。彼女のことであれほど胸を痛めておきながら、享楽の日々に耽る堕落しきった浅ましさを。あんなにも軽蔑していた低俗な人間に成り果ててもなお、アンジェを渇望し未練に身を焦がされている気持ち悪さを。生じた矛盾は幾度も循環し、悔恨と自己嫌悪の逃れられぬ迷路に陥った。

 そして気がつけば、あの過ちから歳月が流れてしまっていた。全てが崩れ落ちたあの夜の事は一時期、意識を揺蕩う箱の中に封じられていた。


 だが、沈没していたアンジェリカの記憶が胸中に浮上してしまってからというもの、それと共に、激しい慚愧により心の中に居座り続けていた。

 それらの記憶を幾度となく吟味し咀嚼しているうち、アンジェに抱く印象は色を変えていった。愚かしくも今になって、当時は見えていなかった当たり前の側面が、見えるようになったのだ。

 その一つに自分と彼女の生まれ育った境遇の違いがあった。

 恐らく彼女には学がなく、その上、身売りが常識の範疇にある世界で生きている彼女にとって、誰かに抱かれる事は忌避すべきでもない日常的なものであったのではないか。

 それはつまり、彼女はあの時善意から僕に体を捧げようとあのような言葉を放ったと考えられるという事だ。僕を軽視していた訳ではなくむしろ好意的だったのではないか。その彼女の真意を、整えられた環境しか知らない当時の僕は自然と彼女の裏切りと置き換え、激情に駆られたたま彼女の存在を踏み躙った。


 それだけでなく、俯瞰の鏡面は絶え間なく当時死角だった風景を映し出す。

 重い足枷に束縛された彼女に救いの手を伸ばすどころか、多大な恩も忘れ、エゴで窒息させた過去の自分を俯瞰することは容易かった。同時に、彼女が生まれ育った世界、要するに心身共に貧困な卑しい人間が平凡に蔓延る、裕福な自分とは縁遠い世界のことも。

 彼女の胸の奥に潜んでいたかもしれない感情を真剣に想像したことが今まであっただろうか。悲しみ、失望、諦め、憎悪。

 もしかすると、僕が彼女に対する偏った解釈に支配され絶望に呑まれたように、彼女の内側も空虚や失意に侵食されていたのではないか。

 本当に救いが必要だったのは、救済を求めていたのは、彼女の方だったのではないか。その考えが駆け巡る度、熱い霙が胸を抉る。あの時、彼女の身と心を抱擁により暖めることができていたらと、信頼できる人間は家族以外にも存在すると真摯に語りかけることが、できていたらと。


 それでもそんな心緒に、思わず自嘲してしまう。何せ、この穢れた血の通う心は誰かに信頼されたことも愛されたことも無いのだから。野ざらしにされた廃村で孤独に揺らめく陽炎のような人間が、誰かを救おうだなんて、薄ら寒い夢物語に他ならない。

 それでも、今となってはもう実現不可能な過ぎ去りし可能性は、蔦が這っている心臓に絶えず亀裂を走らせる。

 彼女の心に寄り添い続けていれば、彼女は今も生きていたかもしれない。もっと彼女と笑い合い色々なことを教え合い、様々な景色を見て、そうして共に日々を過ごすことでいづれ真の信頼を築き上げることができていかもしれない。ひょっとしたら、お互い生涯の理解者になれていたかもしれない。

 そして自信を持って素直に、想いの全てを伝えることも。


 ――なんておめでたい思考回路。

 我に返り、自身を顧みない取り留めのない妄想に失笑を禁じ得ない。


「あんなことしておいて、なに考えてるんだよ」


 質素な自室に呆れ果てた独り言が散っていった。

 窓の向こうで風に吹かれたトウヒがざわめいた。まるで、風化することの無い罪を咎めるように。

第6章完結です。次章では、作中最も古い謎が明かされます。

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