6-(0.2) アンジェリカという少女
今日は近辺の街で音楽祭が開かれている。自国の芸術文化を肌で学ぶためといった理由で、全生徒が祭りに参加することを義務付けられている。といってもほとんど自由行動であり居酒屋で友人らと飲む者や街の異性と遊んで回る者など、祭りとあまり関係ない娯楽を楽しんでいる生徒もちらほら確認できる。
特にサボる理由がない僕は、大多数の生徒と同じように広場に集まり演奏を鑑賞していた。昼休憩が訪れたので席を離れ、適当な居酒屋へ足を向かわせた。
その道中、アンジェらしき少女が二人の男に絡まれているのを目撃した。目を凝らして少女を見てみる。やはり、あれはアンジェだ。
嫌な予感を感じ影から見守っていると、アンジェは男たちに近くの家屋の中へ連れ込まれた。男の一人は彼女の尻に手をやり、もう片方の男は下卑た笑みを浮かべていた。
その光景を認識した瞬間、僕の心臓がこれまでにない程にどくんと脈打ち、頭は赤く染った。
決心して近くに乱雑に置かれていた角材を手にする。家屋ににじり寄り、思い切って扉を開けると視界に飛び込んできたのは半裸のアンジェだった。
その光景を目にした瞬間、怒りからアンジェの近くにいた男に角材で殴りかかる。再度角材を振り上げるより先に脇腹に衝撃が走り、次の瞬間には全身を地べたに打ち付けられていた。瞬時に、もう片方の男に思い切り脇腹を蹴られたんだと理解した。
「いきなりなんだこのガキ」
先程僕を蹴った男が唾を吐いた。
「もしかしてこいつ君の知り合い?」
同じ男がアンジェを振り返って尋ねた。
その質問を受けたアンジェは、現状に理解が追いついていない様子で固まっていた。再度服装の乱れたアンジェの姿が視界に入り、吐血してしまいそうな程の怒りが腹中を這いずり回った。
顔のすぐ横に放り出された角材を掴み立ち上がろうと試みるが、傍らにやってきたもう片方の男に前髪を持ち上げられ、思い切り顔面を床に殴りつけられる。顔面から頭にかけて強大な電流が走った。
「お坊ちゃんはこんな事に首突っ込まずに呑気にお茶でも飲んでようね」
顔中がじんじんと痛み、鼻から生暖かい鉄の匂いが垂れてくるのが分かる。それでもこんな外道に屈する訳にはいくまいと口を開く。
「人間以下の屑共め、今すぐここから消えろ」
すると男どもは互いに顔を見合わせ、一斉に笑い始めた。どこまでも軽薄で下品な反応に腸が煮えくり返る。
「こいつなんか勘違いしてんぞ。なぁ、アンジェリカちゃん、俺たちなんも悪いことしてねぇもんな」
僕の傍らで下賎な挑発面を浮かべる男が視線は僕にやったまま、背後で縮こまる彼女の名前を呼んだ。
「ふざけるなよ」
怒りに震える乾いた声が僕の口から漏れた。
そんなことに構うことなく男は癇に障る声を部屋中に響かせる。
「お前この子に気でもあるのか知らんが、もしそうなら好きな子の営業を妨害するなんて男として最低じゃねぇか」
その男の台詞は、一瞬僕の頭の中を白く染めた。刹那、言葉の一つ一つが繋ぎ合わされ、今この場にアンジェと男どもが居る理由が――何とも信じ難い真実が、推測されてしまった。
「は…………?」
その僕の魂の抜けた反応に、男たちはさらに可笑しそうに、今の状況が楽しくて仕方ないというように笑う。
「まぁ、とにかく、お前が俺たち全員の邪魔をしたのは事実だからな」
傍らの男はそう言い放ち、立ち上がって僕の脇腹を思い切り蹴り上げた。呻き声が漏れ、鉄の味が口内に広がる。
自分の置かれた立場や彼らとアンジェの間にあるであろう特殊な関係で思考は渋滞し、生理的なものか心理的なものか、目尻が熱を持っていた。もう片方の男らしき足音までもが近づいてきて、為す術もないまま背中が重くなった。成人男性一人分の体重に全身の骨が軋む音がした。
「あの、やめてください」
部屋の中に、震える少女の声が木霊した。
僕も男どもも、音源であるアンジェへ咄嗟に視線をやった。
「今回と、もしあるならば今回以降も、料金は半額にするので、もうやめてください」
アンジェは涙声で、必死に喉奥から絞り出すようにして、言葉を紡いだ。
それを聞いた男たちは僕への攻撃を辞め、傍らで見下ろす男は僕の顔面に唾を吐き、上に乗る男は鼻で笑ってから、痛々しく落涙しているアンジェの元へ向かった。
「エドガー。お願いなのでもうここから出ていってください。――私のせいで、ごめんなさい」
今まで聞いた事のないアンジェの悲痛な声色に従う以外出来るはずがなかった。痛む体を起き上がらせ、一言も発さずに家屋を後にした。扉が完全に閉まるまで、背後からは男たちの汚れた笑い声が聞こえた。
腕時計の針が公演再開の時刻をさしても広場に戻れる気にはとてもなれず、行き場のない両足は並木通りを抜けて人気のない公園へと踏み入れた。寂しげに佇むベンチに腰を下ろす。
そのうえ、内心浮かれていた少し前までの自分が何とも哀れで滑稽に思えてならなかった。それに何よりも、嫌悪の対象である汚れた行為に彼女が身を染めているという事実が形容しがたいまでの胸糞の悪さを生んだ。
アンジェは悪くない。きっとそうせざるを得ない事情があるんだ。そう頭では分かっていても、一度根付いた嫌悪感を払拭するのは難しかった。そんな自分に嫌気がさすのも本当だった。
そうやって悶々としながら数十分とベンチに腰掛けていると、隣に誰かが座った。見やると、隣に来たのはアンジェだった……仕事はもう終わったらしい。
アンジェは、先程の事があったからだろう、僕を案ずるように覗き込んできた。
「やめろ」
するとアンジェはそれまで見たことのない顔をした。悲しみに満ちた表情だった。
僕は咄嗟に謝った。どこまでも自分は情けない存在であると痛感せざるを得ない。
「いいえ、本来謝るのは私の方なんです。実は私は……貧民街で生まれ育った人間なんです。私は昔から物覚えが悪くて、体力もなくて、何もできないダメな人間なんです。でも、そんな私でも唯一お金を稼げる方法があって……それが、さっきのやつです」
僕は、彼女の語りを聞いていて苦しくなった。今にも嗚咽が漏れそうになるのを堪えるのに必死だった。
「私のやり方が受け入れられないのは分かります。でも、私にはこうする他生きていく術がないんです。それに、避妊も必ず毎回していますし……。そのせいか、これまで一度も赤ちゃんができた事はないんです。きっと元から子供ができにくい体質なんだと思います」
この空気を取り繕うためなのか、アンジェは必死に自分の事を赤裸々に語り続けた。だが、その語りは僕にとっては拷問に等しかった。
それからはアンジェと二人で何となく気まづい祭をすごした。僕の口数は普段よりも極端に減っていたが、アンジェの口数は普段通りどころか、いつも以上に多くなっていた。そんなふうに気を遣わせてしまう自分が嫌でたまらなかったが、何も話す気になれなかった。
それから数日間、授業後に寄宿舎の自室で物思いに耽る日々が続いた。次の日曜日、彼女にまともな顔をして会える自信がなかった。その上でもまだ会いたいと感じている自分に嫌気がさした。
あっさりと訪れた日曜日、礼拝堂を出ると沈んだ心を皮肉るような晴天が現れた。ざわざわと腹の奥を摩る不安と共に浜辺へ向かう。浜辺に座り込む少女の後ろ姿を認めた。間違いない、アンジェだった。彼女は誰かと話しているようだ。あの大きさからしておそらくは弟だろう。どのタイミングで声をかけるべきかと足りない脳みそで思案しているうちに、対象との距離は縮まっていく。
すると、思わず足が止まってしまった。アンジェの柔らかな声色が耳に届いた。
「エドガーは優しい人なのよ、感謝しなくちゃ」
胸がじんわり温まっていくのを感じた。きっとその発言をした時のアンジェは、花のように朗らかな笑顔だったことだろう。想像してしまい、鼓動の音が速く大きくなる。
「私もお仕事もっと頑張るからね」
変わらず愛らしい声だった。その健気な響きが、余計心を締め付ける。目元が滲んでいくのを感じながら立ち尽くしていると、人の気配を感じたのか彼女は振り向いた。
「エドガー! 来てたんですか」
相変わらず笑顔で名を呼ぶ彼女。弟らしき人物はこちらを睨み、離れていってしまった。その日の別れ際、来週は街の外れにある花畑に向かいたいというアンジェの申し出に首を縦に振る。
当日、僕とアンジェは合流するなり早速花畑へと向かった。何でも、もうすぐアンジェの弟の誕生日らしかった。
「でも、どうして花畑なんだ?」
僕は、素朴な疑問を問うた。
「毎年ユリアンの誕生日には花冠を作ってあげてるんですよ。その花冠は、花畑で作ってるんです。やっぱり材料のある現地で作った方が、色々なバリエーションにできて良いじゃない」
「でも、弟って男の子だよな……。花冠で喜ぶのか? って、まぁ大事なのは気持ちってやつか」
「私も最初は男の子だし、嫌がるかな〜って思ったんですけど、これがまた意外なんです! 毎年花冠をあげても、ユリアンは嫌がるどころかありがとうってお礼を言ってくれるんです! これは喜んでるって事に違いありません」
アンジェは、自信満々な笑顔でそう言った。以前ならば突っ込んでいただろうが――今ではその彼女の笑顔が、性質が、美しく見えた。
「お前は前向きだよな」
「そうですか?」
「ああ。嫌味とかじゃなくて、なんて言うかその、羨ましい」
僕には無いものだから、と付け足す。
「それってつまり……褒めてくれているのですか?」
アンジェは、おずおずとこちらを覗き込み、緊張気味にそう質問してきた。その純粋な問いに対して、顔を背けややぶっきらぼうに答える。
「長所ってことだよ」
その答えを聞いて、アンジェは、花が咲いたように喜ぶ。
「私の良いところを見つけてくれてありがとうございます、エドガー」
アンジェは、僕の手を小さな手で握りしめてそう言い放った。それも、今日とびきりの笑顔で。最近おかしくなっていた僕の内部感覚は、その時過去最高に乱れ狂っていた。
そんなふうに会話しているうちに目的地の花畑に到着した。早速アンジェは花を摘み、冠を作り始める。僕は、花を鑑賞するフリをして、楽しそうに花冠を作るアンジェの姿を密かに見ていた。
アンジェが花冠を作り終えた頃、ちょうど突然雨が降り始めた。
そこで、近くの水車小屋で雨宿りすることに。小屋の内部は、寄宿舎の自室くらいの広さで埃が舞っていた。水車の回るぎいぎいという音が、雨音に紛れて響いた。
どちらも口を開かなかった。無言の気まづさはそこに存在していなかった。彼女と共にいる時の静けさは、寄宿舎の窓から眺める夕焼けのように、不思議と落ち着きを与えてくれる。そうして胸につたう温もりに思いを馳せていたら、次第に瞼が重くなってきた。流れるように現れた睡魔に身を任せて、この特殊な一時に心を預けてみたくなった。完全に瞼を閉じると、意識は夢への扉をこじ開けようと宙を舞う。
すると突然アンジェが身を近づけてきた。こんなの、嫌でも全身が火照っていってしまう。
「ごめんなさい、寒くて」
アンジェは、そう呟くとさらに密着してきた。
鼓動は早鐘を打ち、今にでも顔から火がでそうだった。幸い、小屋内は薄暗く彼女にこちらのどぎまぎした様子を見抜かれることはなさそうだった。
「凄く暖かいです」
ご機嫌な彼女の声が、なんだかいつも以上に可愛らしく聞こえた。
喜びよりも、もっと奥の方で昂る熱が自信を侵略しそうな予感がして彼女から離れる。彼女の姿が視界に入り込まないように、彼女に背を向けて横たわる。
「えと、嫌だったのでしょうか」
「横になった方が寝やすいと思っただけ」
発言してからその言葉の穴に気がつく。横になるだけならば、わざわざ彼女から離れる必要なんかないじゃないか。緊張を悟られまいと意地を張ったせいで、早口な上にいい加減な理屈を作り出してしまった。
だが数秒後には、そんな自己嫌悪の念ごと温もりに包まれる。彼女の体温が背中を伝い心臓にまでたどり着いたような、甘いむず痒さを覚えた。
すぐ近くに感じる想い人の存在と、連続して聞こえる雨音が麻酔となり、すっかり幸福に浸かりきった脳は思考を緩め、心の中を小鳥が羽ばたいた。彼女といる時の沈黙は気にならないものだが、今はいつも以上にずっと心地が良かった。
そんなひと時の幸福を邪魔するように、ふいに彼女と家屋の男たちの姿が脳裏を掠めた。
「もう、あんな仕事はやめてくれ」
漏出した願いは、霞のように希薄な語勢だった。
なんてことを言ってしまったのかと後悔の念が湧き上がる。無意識に口をついて出た発言に応答はなく、その無反応がかえって不安を煽った。なにか続けて言わなければ気まづいまま永遠に時間が停止してしまいそうで、心中で命綱を握り締めながら本心を吐露する。
「何もお前がそこまで身を貼る必要ないだろ。他になにか稼げる方法がないか、探そう」
震える小さな声は、雨音にかき消されたのだろうか。背後から応答は伺えなかった。ぼんやりとしか相手に聞こえていないと見当がつくと、胸に安堵が広がった。
再び沈黙が訪れたかと思いきや、継続的に響く雨音に紛れ、背後から浅い呼吸音が聞こえた。
すっかり熟睡している彼女の寝息が耳をくすぐる。実を言うと少し拍子抜けしたが、あまりの彼女らしさに尊敬と安堵のため息が漏れた。




