6-(0.1) エドガーという少年
人気のない礼拝堂で、僕はいつものように問いかける。
「主は、私のような忌まわしい人間が存在する事を許してくださいますか」
僕の通っていた高等学校は全寮制で、厳格な規則に縛られる日常の中、学園内の礼拝堂で行われる日曜礼拝の後は近くの町にだけ外出することを許されていた。
その日も日曜日で、礼拝後のことだった。僕は学校の規定を破り、町に行くことなく近くの海岸に向かった。変革の兆しが映る気配のない曇った水面鏡のような人生を送っていくのが馬鹿らしくなったのだ。
海岸へ着くと、人気のない浜辺に歩み寄り膝下まで海水に浸かる。さらに進もうと踏み出した片足が滑り、すんでのところで後方に仰向けで倒れてしまった。
海水が目に染み込む痛みなどさして気にならなかった。眼前で揺れる水面を眺めていると、それまでさんさんと降り注いでいた陽光が人影により遮られた。
上半身を起こすと、照り返る日光を反射した水飛沫が跳躍した。背後を振り返ると、茶に緑のさした透き通った瞳と視線が交差した。背後に佇む少女は、明るいセピア色の髪を風にたなびかせながら微笑んだ。
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自分でやっておいて、これはかなり困った。このびしょ濡れの姿なまま寮に帰りにでもすれば、頑固な寮長からの詰問を受けることになるだろう。濡れた服を乾かそうにも、この場で裸になんてなれるわけが無い。
すると彼女は、ちょっと待っていてください、と意気揚々に言ってからどこかへ走り去っていった。寒さに蹲りながら待機していると、しばらくしてから彼女は木材を抱えて戻ってきた。そして慣れた手つきで浜辺に篝火を焚いた。
「ここでそんなこと、大丈夫なのか?」
「心配ありません! ここは焚き火の規制はないんですよ」
これで無事服は乾きます、と朗らかな笑顔で言う彼女が、不思議でならなかった。見ず知らずの人間に対し、ここまで尽くせる人間を今まで見たことがない。彼女は、無地の質素なワンピースを着用していた。そのあまりの飾り毛の無さに、珍しい服だな、なんて考えていると、ふいに彼女が口を開いた。
「炎って、不思議です。見ていると、心まで暖かくなります」
あんたの方が不思議だよ、と心中で独りごちる。
「どうですか? 服、乾きました?」
「なんとか乾いたよ。……その、ありがとう。わざわざ知らない奴なんかのために」
僕なりの誠意を込めて、不思議な少女に礼を言う。こんなふうに他者からの親切心を受けるのは実に久しぶりで、嬉しい反面照れくさい。
「いえいえ、礼には及びません! なんなら私の方こそ、炎が恋しい気分だったので」
よく分からない理屈だが、とりあえず無難にはぁ、と応答する。
「そろそろお帰りになりますか?なら、後片付けは私がしておきますのでお気になさらず」
「いや、後片付けくらいするよ。部屋はここから近いし」
ありがとうございます、とにこやかに微笑む少女と一緒に焚き火の後始末をする。
「その制服もしかして、学園の方ですか?」
「まあ、うん。そうだよ」
「ここへはよく来るのですか?」
なぜ彼女は、今しがた出会ったばかりの人間にここまで興味を寄せるのだろう。彼女の事を浅薄で下品と見下す軽蔑心が意識の膜を突き破らんと浮上した。だが、即座にそんな自身を恥ずかしく思う。彼女の親切心を享受したばかりの癖に。
僕は、気を取り直して先程の彼女の質問に答えた。
「いや、今日初めて来たよ」
すると彼女は納得のいったように頷いた。
「どおりで、今まで一度もあなたを見たことがなかったわけです。その鳶色の綺麗な髪、一度見たら忘れるわけがありません」
彼女の口から放たれた言葉に、心臓が大きく反応した。
綺麗、なんて感想をここまで率直に言われたことなどなかった。何か答えるべきなのだろうが、何を言えばいいのか考える余裕もなく、目を輝かせる彼女から視線を外しただ黙り込む。夕焼けを呑み込む地平線。普段は何とも思わないのに、この時は妙に幻想的に映った。
黄昏を見つめながら、彼女は語った。
「私、頭は良くないですけど、本は好きなんです。特に、エドガー・F先生のは」
その作家ならば、僕もよく知っていた。何なら一時期、その作家の本ばかり読みふけっていたくらいだ。
「ああ、僕もエドガー・F先生の作品は好きだ。部屋に何冊か置いてあるくらい」
僕は、口にしてハッとした。何自分はいきなり、会って間もない異性にそんな自分語りをしているんだ。だが、彼女は僕の羞恥心などお構い無しに、花開くような笑みを浮かべた。
「そ、そうなんですか!? 羨ましいです! それに、ここで同じものが好きな人に出会えるだなんて……!」
「い、いや、そんなに驚かなくても……。その人、すごく有名だし」
「いいえ! 私にとっては驚くべき事なんです! という事で、その……よろしければ、またここでお会いできませんか?」
彼女は、興奮気味にそう言った。
僕は、彼女の積極性に若干引きながらも質問に答えた。
「……今日と同じ日曜日なら」
すると、彼女は右手を差し出してきた。にっこりと微笑む彼女の顔に打ち負けた心持ちで、僕も右手を差し出し、握手を交わした。
そうして、黄昏時が幕を閉じる前に不思議な生き物と別れた。彼女は軽やかに浜辺を駆けていった。僕は、無意識にその姿を目で追っていた。
次の日曜日、緊張を胸に例の浜辺へ再び赴くと、彼女の姿が見当たらなかった。僅かな失意と妙な納得を覚えながら踵を返そうとすると、聞き覚えのある楽観的な声が耳に届いた。
声の方を見やると、例の彼女がこちらに走ってきていた。僕は、それまで心臓を覆っていた緊張が解けた安堵から、大きく息を漏らした。
彼女は、またも先週と同じような飾り気のないワンピースを着ていた。だが、どんなに装飾がなくとも、海風にたなびかれるその姿はどんなドレスよりも美しく見えた。
「そういえば、まだ私の名前言ってませんでしたね。私、アンジェリカっていいます。長いので読みやすくアンジェって呼んでください。で、あなたのお名前は?」
そんなふうに彼女……アンジェに聞かれるも、生憎忌まわしき名を告げる気は起きなかった。
「適当に呼んでくれ。僕に名前なんて無いのと同じだから」
アンジェは、僕の返答に呆気にとられたようだったが、瞬く間に何か思い浮かんだと言わんばかりに目を輝かせ始めた。
「では、お言葉に甘えて私があなたの名付け親になります!」
名付け親……。僕から言った事ではあるものの、そういうふうに言われると、何だか複雑な気分だった。
「あなたは今日からエドガーです!」
「は? えぇ……」
「なんですか、不満なんですか?」
アンジェは、不服そうに頬をふくらませた。その小動物じみた仕草が、僕の疑問を抹消した。
「いや、それってあの作家からとっただろ。いや、別にいいんだけど。嫌じゃないし」
「では、決まりですね。改めてこれからよろしく、エドガー」
そうして、僕とアンジェは再び握手を交わした。
「他にはどんな作家の本を読むんだ?」
このこそばゆい空気の流れを変えるために僕がそう聞くと、アンジェは言いづらそうに視線を下にやりながら、口を開いた。
「実は、他の作家どころかまだエドガー先生の書いた本を一作品しか読んだことがないんです。貧しいから本に使えるほどのお金も持ち合わせていないし、その一作品だって自分で買ったのではなく偶然海辺で拾ったので……」
僕は、そのアンジェの語りを聞いて、何だか聞いてはいけない事を聞いてしまった、と後悔の念に襲われた。だが、彼女はそのまま落ち込んだままではなく、積極的に僕に本について聞いてきた。
「私、もっと沢山の本を読めるようになりたいんです。でも、現状ではそうもいかないので、エドガーにどんなお話があるのか、教えて欲しいんです」
それから僕は、日が暮れる頃合いになるまで、アンジェにこれまで読んだ色々な本について話した。彼女は、飽きる様子もなくその話を興味深げに聞いていた。
時刻が門限に近づくと、アンジェは、来週もここで待ってますと笑った。
――その頃は、ちょうど周囲が性についての話題を気にかけ始める年頃であったということもあってか、自身の出生を意識し始めていた。自分はあの屑な父親とは別種の人間であることに自信を持っていた。
それ故、僕は恋や愛といった情緒的な概念に対して、変なこだわりを持っていた。その時の僕は一目惚れを軽薄で思慮の浅い輩の性であると蔑視していた。生まれ持った性質が原因となり常に彼にまとわりついている劣等感が、心とかいう抽象的なものへの陳腐な主張を作り上げたのだ。人の本質に耳を傾けるより前に、見掛けで相手を特別であると認識してしまうような浅薄な人間が、この上なく低俗に感じていたのだ。
それ故、胸の内で鳴り止まぬ警報を受け入れることは自身のポリシーに反することと同義だった。僕のの独りよがりなプライドが、アンジェに向く特異な感情を必死に否定し続けた。
旧市街の広場の階段に、アンジェと僕の二人で腰掛けていると、首輪をつけた猫が擦り寄ってきた。抱っこしてやるとゴロゴロと喉を鳴らした。
と、その時、アンジェがあっと大きな声を出した。隣の壁に猫の迷子ポスターが貼ってあり、今僕の腕の中にいる猫は、その写真の猫と瓜二つだった。
早速ポスターに記載されている花屋まで向かい、猫を差し出すと、女性は泣いて喜んだ。お礼にガマズミという花の苗木を貰った。
「僕が持っててもどうにもならないし、これはお前にやるよ」
するとアンジェは、嬉々としてそれを受け取っていた。
そんなある日、浜辺にやってきたアンジェの弟と出会った。アンジェが弟に自分のことを軽く紹介すると、彼は敵意を忍ばせた眼差しで睨んできた。何を言えば良いかたじろいでいるうちに、彼はさっさとどこかへ行ってしまった。
「あれ? ユリアンったらもう帰っちゃうなんて。今日は私たちと一緒にいたいって、あの子から言い出したのに……」
「まぁ、年上に交ざるのも苦痛だろ。あの子の選択を尊重してやればいいだけだ」
その日は街の商店街を見て回った。何か買いたいものでもあるのかというこちらの質問に、彼女はさも当然のように答えた。
「特に何もないですよ」
「じゃあなんでここに来たんだよ」
怒っている訳ではなく、ただ不思議だった。まあ彼女が不思議なのはいつものことだが。
「こういう賑やかなところで、色んなものを見て回るだけで十分楽しいです。……もしかして、エドガーは楽しくないですか?」
その質問に、別に、と返す。
実を言うと、彼女とこうして暇を潰す時間が過ぎ去っていくのが惜しいくらいだ。
古本屋に足を踏み入れるなり、運良く今まで気になっていた小説が目にとまったので購入する事にした。すると、アンジェがある本に見入っていた。
「買うのか」
僕の短いに問いに対し、彼女はえへへ、と困ったように笑った。
「いえ、私お金もってきてないので……」
唖然とした。どういう思考をしていたらこんな場所に手ぶらで来れるのか。
「じゃあ僕がお金払うよ」
気づけばそう口にしていた。実を言うと一瞬、たかる気で来たのではと狐疑の念が浮かんだが、そんな失礼な考えを封じるような速さだった。
アンジェは、僕の発言に対して露骨に慌て始めた。
「えっ、いやでも、知らないおじさんならいいとしても友達にそんなことさせる訳には……」
ぎゅっと本を抱きしめる小柄な少女。そんな彼女の腕の中から本を取り上げる。
「そっちの方がダメだろ。中古本くらい大した値段しないから問題ないよ」
またもや当然のようにとんでもないことを言う彼女に呆れながら、二冊の本を会計へ持っていく。購入した商品を未だにあわあわしているアンジェに手渡すと、彼女は不思議そうにそれを見つめた。
「あの、ありがとうございます」
手の中のものを大事そうに抱きしめる彼女の姿に、胸中がこそばゆくなった。
「いいよ、気にするな」
彼女から視線を外してそう返す。
「これ……大切にします」
彼女は、透き通った瞳を滲ませてそう言った。ただの思い込みだと失笑を買うかもしれないが――その声色は、まるで本が手に入ったことが嬉しいのではなく、小さな贈り物を貰ったことに喜んでいるように聞こえた。
それから一通り回った後、僕達は商店街の中央部にある休憩場所に向かった。ベンチに腰掛けて先程購入した小説を開くと、隣に座るアンジェも本を読み始めた。
「鳥はたとえ飛べなくても、綺麗な翼を持っている」
唐突にそう口にするアンジェを見ると、彼女もこちらを見た。
「今読んだ文章の一節です。なんか素敵で、思わず声に出しちゃいました」
アンジェは、照れたように笑う。
「その文章、どういう意味なんだ?」
「えと、簡単に言うと、なんにも取り柄がない事に悩む主人公に、そのお友達がかけた励ましの言葉です。ちなみに主人公が鳥でお友達は人間なんです」
「もしかしてあれか。その主人公は鳥のくせに飛べないけど、人間からしたら君の持つその翼は綺麗なんだから自信持ちなさいみたいなやつか」
「そうそう、まさにそんな感じです! この主人公は雛鳥から孵っても空を飛べない臆病な子なんです。分かるなんてさすがエドガーです、すごいです!」
持て囃している訳でもなさそうな素直な笑顔が眩しい。
正直そういったネタはありがちだから察せたのは特別すごくもなんともないだろう。そうは思っているのにも関わらず、彼女に褒められて嬉しいと感じてしまう自分がいた。
「まあ、たとえ見た目が良くても目の前の物事に向き合えないようじゃ、苦労するだろうけどな」
そんな虚勢を張った皮肉に、アンジェは頬を膨らませた。
「もう、それはきっとこれから成長するんです」
ぷんぷんという擬音が聞こえた気がした。
すると、いつぞやのようにどこからともなく猫が歩いてきた。どうやら僕は猫には好かれる体質らしい。足元で寝転がる無防備な猫の姿を持参した写真機で撮っていると、アンジェが写真機に興味を示した。
「もしかしてそれ、写真機ですか?」
「うん。そうだけど……撮ってみるか?」
僕は、そう言ってアンジェに写真気を渡した。
すると、すぐ真横でシャッターをきる音が聞こえた。横を見やると、写真機を構えたアンジェがイタズラな笑みを浮かべていた。
そうして盗撮された写真は撮影者本人が欲しがったので差し上げる事にした。ただ単に読書をしているだけの男の写真を欲しがる理由がよく分からないが、嬉しそうな彼女を眺めるのは悪い気分にはならなかった。




