6-(1) ルーカス・ロイエンタール
もう時期冬も開けるという頃の空は曇っていて、太陽の灯りを庭へと運んではくれなかった。
だが、字の読み書きを教えるには支障をきたさない程のものであり、普段通りにカーヤと僕、そして相変わらず退屈そうにしているアンナの計三人は、ガーデンチェアに座り、各々の役割を果たしていた。
僕は従来通りにカーヤの疑問点について教え、アンナは読書しながら時折こちらの様子を様子見しているようだった。もう教え手が二人もいらない程に、カーヤの読書スキルは上達していた。
今日はそのような、昨日のようでもあり明日のようでもある、何の変哲もない日だった。だが、そのような“普通”がほんの数秒間だけ――もしくは一瞬か――崩れただけの事である。カーヤが、うまく字を書けた、と喜びながら無邪気にノートをこちら側に向けてきた。彼女の笑顔は相変わらず恐ろしい程に可憐だった。だが、その笑顔が、何故か突然別の人物のものに変わったのである。
そう、それは突然の事でもあり、同時に自然に生じたようにも思えた。その不可解な自然現象は、平生だった僕の脳髄や精神を震わせた。
こうして現在僕に笑顔を向けている少女は、銀髪でも銀の瞳でもなく、あの神秘的な雰囲気と比べると、ごくごく素朴な方に思えた。だが、それは客観的に見た場合の事であり、僕という個人にとってはまるで違った。
様々な感情を呼び寄せるセピア色の髪は、アンジェと違って直毛ではなく、僅かにくせ毛のまじった、ふわりとした髪質だった。僕を見つめる無垢な瞳は、髪と違ってアンジェそっくりの、緑のさした柔らかな茶色だった。
だが、アンジェらしくない要素があった。それは顔の造形だ。アンジェは、天真爛漫な性格に反して、大人びた印象を受ける美人だった。だが、現在僕の目の前にいる少女は、美人というよりも可愛らしい、という表現の似合う女の子だった。
特に異なるのは瞳の形だ。アンジェはややツリ目がちのアーモンドアイだったが、この子の瞳は全体的に丸く、僅かにたれ目だった。その為、カーヤの本来の姿よりもいくらか幼く見える程に童顔なのである。その小動物のようなあどけなさは、本来のカーヤとは違った愛らしさを醸し出していた。
「るーかす?」
そのカーヤの問いかけによって我に返った。眼前の少女も、いつも通りの銀色の少女に戻っていた。
今のは幻覚か? いや、そうに違いない。カーヤはカーヤであり、それ以外の何者でもない。故にたった今目にしたのは、日々の疲労が起こした単なる見間違いに過ぎないのだ。だが、そう考えるには引っかかる。たとえ幻覚の類だったとしても、あんなに鮮明に目に映るものなのだろうか? それに未だに脳裏に焼き付いて離れない。先程のカーヤである筈の全く違う別人の相貌は、間違いなく、アンジェの面影を感じさせるものだった。
「ごめん、ちょっとボーっとしてた。どれどれ……」
ノートに書かれているのは、絵本の一節でも詩でもなく、問いかけだった。
『どうしてるーかすは名前が二つもあるの?』
「これには、るーかすも紙に書いて答えて! そっちの方が、面白いから」
間髪入れずに、カーヤがそう指図してきた。そして、彼女は続けて言った。
「質問を書いて答えてもらう遊び方はね、ほるてに教えてもらったの! 懐かしいな、一緒にお勉強したの。今では、話すことさえできないもの」
カーヤのとつとつとした語りが、まるで彼女の独り言のように、僕の外側で霧散していく。その間も、漂白された脳内で、どうにか質問に対して“良い”言葉を探そうとした。静かにペンを握り、思考を巡らせるも、冷たい汗が流れるだけだった。そんな僕にお構い無しに、カーヤは新たな質問を追加した。
『どうしてあんなはるーかすのこと、えどがーって呼んでたの?』
氷漬けの頭が、そのままの事実を書くよう促した。故に、僕は機械のような心地で『それは、僕がそういう名前だと教えたからだ』と紙に書いた。
そして、カーヤは迷うことなく、新たな質問を書いた。
『どうしてあんなにはそう教えたの?』
僕は、咄嗟に答えた。
『この名前が嫌いだからだ』
そうだ。僕はこの名前がどうしようもなく嫌いなのだ。僕の誕生を祝福せず、迫害してきた人間によってつけられたこの名前が。醜悪な僕の出自を連想させ、あの実家との繋がりとも言える、この識別番号が。
その為、彼女らには本名は明かさなかった。せめて、彼女らと共にいる瞬間だけは、この烙印から逃れたかった。堕天の印のような代物を、彼女らと過ごす空間にまで持ち込みたくなどなかったのだ。
「今日はもうお開きにしよう」
気づけば僕はそう言い放っていた。その声は、我ながら刺々しく聞こえた。
カーヤは、残念そうに不満を漏らしたものの、持つ物を持ってすぐに家の中へと戻っていった。僕は、その姿を確認するなり途端に後悔の念に襲われた。カーヤと会ってから決して短いとは言えない時間が流れたとはいえ、あの態度はあまりにも大人気がなかった。何よりカーヤは、こうして僕らと読書する時間を何よりも楽しみにしているのだ。
僕は、たった今その無垢な気持ちを踏みにじってしまった。そんなふうに気を沈ませて微動だにしない僕を見て、アンナが慰めの言葉を口にしてくれた。
「気にする事ないよ。カーヤは子供に見えても人間じゃないんだ。妖精の心を傷つけたとしても、明日にはもう元に戻ってるよ」
僕は、そのアンナの言葉に、ただ「ありがとう」と曖昧な返事しかできなかった。彼女の厚意には感謝している。それでも、その感謝の気持ちを不純なものにしてしまう何かが僕の内側に潜んでいた。そしてその靄を消せないまま自室へ戻り、そのまま眠りについた。
僕はいつも大きな屋敷で独りぼっちだった。というのも、僕は赤ん坊の頃に、疎遠な商家に引き取られ、九歳までそこで育った。
その為、義理の親や兄弟たちの間には見えない壁が存在しており、幼心ながらもその存在に気がついていた僕は、彼らと馴染もうとする事から逃げていた。なにゆえ僕は、自分には彼らから敬遠される要素がある事を自覚していた。
そう、てんかんだ。この持病のせいで僕は育てづらい子供だったろうし、何より、ロイエンタール家から忌み子を押し付けられた、という嫌な実感が義理の両親にあったのだろう。ロイエンタール家は屈指の名門軍家であり、当然そのような場所は、僕のようなてんかん持ちを求めてはいなかった。それに、なにより僕は――いや、これについてはまだよそう。
そんな僕の孤独な幼少期も、九歳の頃――つまりは僕が実家に戻る年齢――に転換期をむかえた。ある日僕が庭で絵を描いていたら、使用人の一人であるポールに話しかけられたのだった。彼は僕の絵を褒めてくれた。それまで誰にも褒められた経験のなかった僕は、たったそれだけで有頂天になってしまった。そして、ポールにもそれは分かったのだろう。
いや、思い返してみれば、僕がそういった反応を示す事を予想した上でそうしたのだ。それからもポールは、毎日のように休憩時間を使って僕のもとを訪れてきた。基本的に日中僕は裏庭で絵を描いていたので、発見は容易だったのだろう。そうして言葉を交わしていくうちに、僕は彼に心を開いていった。
義父母からは関心を持たれず義兄弟達からは空気のように扱われている自分にとって、彼は本当の父のようだった。信頼できる大人が傍にいてくれるのだという初めての実感が、幼い僕の心を幸福で満たし、そして、盲目にした。
完全に僕に懐かれた事に気がついたポールは、ある日、こんな事を語った。どうやら、彼の母親は重病らしく、その治療費の為にポールは金目の物を全て売り、仕事にも一層精を出すようになった、と。だが、それでも虚しい事に、彼の母親の難病の治療費にかかる膨大な費用はまだまだ足りないらしかった。このままでは母の寿命はそう持たない、とポールは苦しみを堪えるかのような表情で重く口を開いた。
どんな事をしてでも彼と彼の母の力になりたい、そう願うのは、当時の自分にとって自然な事だった。人間、本気になればどんな事もできるものなのだ。その後、すぐに僕は行動を開始した。書斎の奥にひっそりと存在する物置部屋に足を踏み入れ、懐中時計など金目のものを持ち出し、それらを町の骨董品店で売り払った。貴重品の売却により儲けた金を、後日ポールに手渡す。
「こんなお金、いったいどうやって……」
ポールの素朴な問いに押し黙る。例え彼の為とはいえ、窃盗を働いた事実を口にするのは億劫だった。ポールは優しい笑顔で「あなたのおかげで助かるかもしれません。ありがとう」と礼を言った。
数日後、彼に母親について尋ねると、先日僕から渡された金だけではまだ足らず、まだまだ稼ぐ必要があるとの事だった。しかも、母の様態は以前よりもさらに悪化しているらしい。
焦燥が忙しなく内側を掻き混ぜていく。どうすれば、どうすれば更に多くの金を得られるだろう。
「もう、アレに頼るしか……」
ポールが掠れた声を絞り出した。
「アレって、何のこと」
思わず問う。自分にできることがあるならば、何でもしてやりたかった。いや、しなくてはいけなかった。
「一階の西部屋の鍵がどこにあるのか、知っていますか」
切羽詰まったポールに詰め寄られる。
一階の西部屋とは、父が豪華な賓客との談判に利用している特別な部屋だ。一族の威厳を知らしめるため、あらゆる宝が飾られている。
「おそらくはご主人の部屋にあるのでしょう。ですが私は使用人ですから、無闇に立ち入ることはできなくて。そこでルーカスさんに一度確認してきて欲しいのです。あなたにしか頼めない、どうかお願いだ」
僕でもあの鍵の在処は知らない。その事実がなんとも悔しくて悲しくて、気を抜いたら涙が溢れそうだった。もしここで彼の役にたてなければ見捨てられるかもしれない、そんな不安があった。
「待ってて、絶対に見てくるから」
咄嗟に口から出た約束の言葉に、ポールは普段通りの笑顔を見せた。
その次の日、運良く義父は家を離れていた。一階の西部屋の前に立ち、父の部屋からこっそりとってきた鍵束を懐から取り出す。一本ずつ鍵穴に差し込み、目当ての鍵を探す。すると、何本目かでかちりと子気味の良い音がした。恐る恐る扉の取っ手を押すと、物置部屋とは比べ物にならない豪華な部屋が現れた。
ポールにその事を話すと「ありがとう。ルーカスさんを信じてよかった」と頭を撫でられた。その日の夜は、彼との約束を遂行できた達成感と褒められた嬉しさで気分が舞い上がり、なかなか眠りにつけなかった。いや、理由はそれらだけでは無い。自分のした事への背徳感と恐怖もあった。
ポールの次の出勤日にはまだあった。彼に愛想を尽かされるのを恐れて、再び物置部屋へ足を踏み入れ、視界に入った貴重品をバッグの中に入れる。だが、玄関口への道中、急いでいる使用人にぶつかり物がこぼれ落ち、窃盗行為が露見してしまった。
罰として二週間地下部屋へ軟禁される事となった。軟禁生活三日目に、地下までやってきた父に思い切り殴られた。父は、恐ろしい形相で言った。家宝をどこにやったと。その家宝というのは、王国時代に先祖が女王から賜った貴金属の鷲が施されたブローチのことだ。
自分は本当に何も知らない、と泣きながら訴える。深く土下座し本当なんです、信じてくださいと泣きじゃくりながら懇願する。
すると、厳格な父は「では、心当たりのある使用人はいるか」と低い声で言い放った。お前でも一族の者でもないならば考えられるのは使用人しかいない、と父。咄嗟にポールが思い浮かぶも、口に出せなかった。震える唇で知りません、と力なく答える。すると、義父は腑に落ちないといったように大きく靴音を鳴らしながら地下を後にした。
長い軟禁生活から解放されると、屋敷内の空気は張り詰めていた。しかも、それから数日間ポールの姿が見当たらないのだ。どうやら、ポールは窃盗のあった日から一向に姿を現さず、消息不明であるらしかった。当然、例の窃盗事件の容疑はポールにかけられたが、捜索しても見当たらず、家宝を盗んだ後海外逃亡したのではないかという説が浮上した。
一族の者も、使用人達も、皆ポールを酷く罵った。親愛なる人に対する罵詈雑言に耐えかねて、思い切って姉に、ポールは難病の母の治療費が必要だった事を訴えた。すると姉は、ポールに家族はいないこと、彼は孤児院育ちの独り身であることを語った。
それから程なくして、不良行為が理由で僕は実家へ返された。そして実父に出生について聞かされる事となった。それを聞いて、僕は酷く納得してしまった。その為に母は、あんなにも僕に会おうとしないのか。
僕の血には、どうやらロイエンタール家の他に、強姦魔の血が流れているらしかった。そして持病のてんかんは、出生直後に発疹した新生児ヘルペスの後遺症との事だった。
僕の出生当時、新生児ヘルペスの発疹を訝しんだ父が遺伝子鑑定をし、その結果、父ではなく別の男の子である事が判明した。父に詰問された母は、号泣しながら強姦の記憶を打ち明けた……そのような背景が、僕の出生にあったのだった。
厳格な父は、汚れた出生の上、後遺症により軍人としての将来を見込めない血の繋がらない末息子を、人間として見ていなかった。虫けら同然の扱いだった。何となく事情を察している一部の兄弟や古参の使用人にも同じように扱われた。母は、未だ強姦の恐ろしい記憶に苛まれ、精神病の主治医がよく母の部屋を訪ねていた。
自室で横になっている時、勉強中、学校にいる時、絶えず頭の中はポールのことでいっぱいだった。だけれど、涙が出てくることは無かった。唯一の理解者だと信頼していた人間に裏切られたというのに、自分が不思議だった。
それはきっと、胸に広がる感情は悲しみや怒りよりも、空虚が大多数を閉めていたからだろう。人は、真に絶望を覚えると涙さえ出ないことを、その時知ったのだった。
第6章が始まりました。
第6章は、いったいこの物語がどのような構造になっているのか、それに最も近づく章です。




