5-⑥ 手がかりの先には
林道を歩きながら、アンナから貰ったサンドイッチを口に含む。すると、それまで押さえつけられていた空腹感が爆発し、雑木林から出るよりも前にたいらげてしまった。ここの雑木林は一見複雑に入り組んでそうに見えるものの、一本道で出口まで到達する事ができた。だが、そこで問題が生じた。
私は、ここに来るまでの道のりを、全く覚えていないのだ。なので仕方なく、周囲に行き交う人々を片っ端から捕まえ、海岸までの道のりを教えて貰うはめとなった。結果的に、あの住居を出てからだいたい一時間半をかけて目的地へと到着する事ができた。
海岸に来た理由はごく単純なものだった。海岸から自宅への帰り道ならば分かっている為、海岸まで行ってしまえば、かなり遠回りした事にはなるが、家へと帰れるからだ。だが、それよりも優先的な理由があった。それはもちろん、カーヤの手がかりの調査に他ならない。
私の推測が正しければ、カーヤの母親とやらはスラム街の元住人だ。そしてそのスラム街は、ここからそう遠くない。あの伽藍堂な家に帰りたくないというのもあった。それと同時に、一刻も早くカーヤの正体を突き止めたいという衝動が私の中を這いずり回った。
私は、思い立ったら即実行の精神で生きてきた人間だ。この瞬間も、その精神に突き動かされるままに、疲れているはずの両足は行きたい場所へと歩を進めた。
スラム街はそう広くはなかった。私は、まずは聞きこみ調査から始めた。妊娠した事があり、かつ、既に死亡している女性。それを手当たり次第に聞いていった。
だが、なかなか望んだ成果は得られなかった。思えば、ここの住民でもかの人物が妊娠していたという事実を知らないという可能性は大いに有り得るのだ。何せ、かの人物は、中絶手術を行っている。妊娠を周囲に隠したまま手術してしまえば、身ごもっていたという事実は誰にもバレることはないだろう。
私は、歩きながら落胆から大きくため息をついた。先ほどから鼻腔を刺激する汚臭も相まって、今の私の気分は最悪だった。空回りしている自分に嫌気を覚える。そんな憂鬱とした気分を振り払う為に、あの事を思い出した。
あの、何度か夢に出てきた、カーヤの世界でもありながら同時に私の世界でもある特別な場所。あそこは、どこかこの本能への切望を癒してくれる、そんな感じがした。具体的にはイメージのしづらい場所ではあったが、どうしようもならない本能的な部分を温もりで包み込んでくれるには十分な場所という事は確かである。それも、なんだかとても懐かしい――。
そこで、私は再度自分の内側に電流が流れるのを感じた。それは先ほどのように破壊的なものではなく、炎のように熱く感動に満ちたものだった。
どうして自分の精神が突き動かされているのかは判然としなかった。だが、直感的に振り返った場所に見えたあるものによって、自分が何に遭遇したのかを瞬時に理解する事ができた。
そこはボロ屋に挟まれた、こじんまりとした空き地だった。そして、雑草の生い茂るある場所に置かれている石のようなものと花束によって、私は今度こそ確信した。私は、衝動のままにその石の前へと駆け寄った。
石は大体全長二十センチ程で、ひらっべたい形をしており、石というよりかは石板のようだった。花束はまだ新しく、供えられたばかりである事が窺える。どちらも市販のように見えるが、かなり安価なものといった感じだ。まじまじと観察していたら、石板に薄く文字が刻まれている事に気がついた。
瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。私は、逸る心音に全身を揺られながら、目を凝らす。そして思った通り、それはどうやら人名のようだった。私は、興奮で打ち震える心中で、その名を唱えた。
アンジェリカ・フォーゲル。
間違いようがない。彼女こそカーヤの母親だ。
そう、“わたし”を生み、殺したあの空間を身体内に備えていた張本人。私は、脳内に住む“わたし”の魂が訴えていた、言い表しようのない悲しみを全身に浴びた。
どうして“わたし”が――カーヤがあんなふうに惨たらしく殺されなければならなかったのだろう。彼女には、焦がれる程に会いたい人もいたし、見たい世界も、知りたい感情もあったというのに。
そのように感傷に耽っていたら、突然背後から影がさした。私は、反射的に背後を振り返った。すると、そこに佇んでいたのは、私と同い年くらいの男だった。
日光の影となった事で見えなかった容貌は、次第にその影を薄め、顔立ちを一通り確認できるまでになった。
誰かを彷彿とさせる黒髪に、顔の中央に散ったそばかす。そしてその髪と同じ黒い瞳が、貫くように私を見下ろした。その瞳の奥には明らかに嫌悪の感情があるのが見て取れた。
私は突然の出来事に驚愕し、そのあまり行動を起こせずにただ彼を見あげる事しかできなかった。だが、そんな静寂を破ったのは彼の方からだった。
「なんだあんた。盗みなら他のとこから取れ」
少年はそうぶっきらぼうに言い放つと、私を勢いよく突き飛ばした。幸いにも辺りは雑草ガ生い茂っていたので、体を痛める事はなかった。私は、少年の立ち振る舞いを注視する。
なぜなら、彼の左手には花束が握られていたからだ。そして私の予想通り、少年は添えてあった花束とその手に握っている新しい花束を置き換えた。悔恨のような感情を忍ばせた黒い瞳は、石板をただただ見つめている。それは、まるでこの世の全てに怒りを募らせる哀れな子羊のように見えた。
私が観察しているのに気がついた少年は、ふいにこちらを振り返った。そして立ち上がり、こちらまで歩み寄り、目の前まで来るとしゃがんで口を開いた。
「あんたさっきから何見てるんだよ。そんなに故人を弔うのが珍しいか」
そこで私は我に返った。より鋭利な思考が私の脳内を駆け巡った。少年は弔いと口にした。ならばやはり、あれは墓だったのだ。そして、その墓が誰の死を意味しているのか。
そしてもう一つ、その墓をここまで入念に通うこの少年と、墓に刻まれた名前の持ち主の関係。色々と調べたい事が急速に思考の波に流れては延々とそれを繰り返していた。だがまずは、誤解を解くことから始めなければならない。
「違うの。私、別に盗っ人とかじゃなくて。ただ、その人の事をよく知りたかっただけなの」
私は、自分でも驚く程に素直に胸の内を言ってしまった。
すると少年は、間髪入れずに問うてきた。
「何でだ。何で知りたい。あんたは姉さんのなんなんだ」
少年は、鋭い眼光で私を貫いた。それは害虫を駆除しようとせんとばかりの気迫だった。おそらく、今の彼には私がそのような汚らしい代物に映っているのだろう。だが、そんな事お構いなく私は少年に質問を投げかける。そのような事を気にしている余裕が無いくらいに、今の私は、真相が暴けそうな現状に気分が高揚していたのだ。
「姉さんって、もしかしてそれは君があの人の弟さんって事?」
すると少年は、不快感がさらに募ったのか、これまで以上の低く生気のない声で言った。
「質問に質問で返すな。俺の問いにさっさと答えろ」
彼の鋭い眼光は、一向に私を見逃してはくれない。そこで私は、少年の言葉の通り、いったい私は彼女――アンジェリカという女性の何なのだろう。と思ったところで、“という女性”なんていうあまりにも他人行儀な感覚でいるのはおかしな事であり、同時に非常に失礼な事でもある事に気がついた。
何しろ、アンジェリカはカーヤの実の母親なのだ。ならば、カーヤの同胞である私が、いやそれだけでなく、私の一部に彼女が宿っているという事実からも、アンジェリカは非常に身近な存在と言える。なんと言ったって、私は何度かアンジェリカのタイナイの中で浮かぶ夢を見た事がある。ならば私は、もう紛れもなく彼女の知り合いと言えるのではないだろうか。
「私は彼女の知り合いよ。それも、凄く身近な」
私は、誇らしげにそう答えた。すると少年は、何故か悔しげに拳を強く握りしめたかと思うと、再度口を開いた。
「そんなのいくらでも嘘つける。――証拠だ。証拠を言え。お前が姉さんと親しい間柄だったっていう証拠を」
私は、思わずうろたえた。証拠といっても、私とアンジェリカを結びつけるカーヤという存在は、どうやら限られた人間にしか認識できないらしい。そしてこの少年が、カーヤの存在を認知しているという確証もない。仮にカーヤの話をしたとしても、あまりにも摩訶不思議すぎて嘘っぱちと判断される可能性が高すぎる。
そこで私の頭に、ある言葉が浮かんだ。それは、カーヤとの勉強中、彼女がノートに書いたものの一つ。今この瞬間に思い出したのもきっと運命だろう――そんなふうに思いながら、私は少年に対し、その言葉を言い放った。
「鳥はたとえ飛べなくても、綺麗な翼を持っている――これは、彼女が好きだった本に書いてあった文章でしょ? 当然、私も彼女からその事を聞かされてたのよ」
私は、背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、口を動かした。すると、少年は口を微かに開いたまま、それまで握っていた花束を落とした。そんな彼の表情には、憎悪とも感じられる酷く冷たい何かが張り付いていた。
もしかして私は、言うべき言葉を間違えてしまったのだろうか。そのような不安がよぎったが、それも杞憂に終わった。なぜなら、次に放った少年の言葉が、証拠の提示の成功を確信できるものだったからだ。
「それは、確かに姉さんが好きだった言葉だ。それと同時に」
少年は、一瞬間を置いてから、吐き出すように吐露した。
「姉さんを死に追いやった言葉でもある」
少年の瞳は、空虚なものに変わっていた。それはまるで、太陽の光が当たらない影の国に追いやられた不幸人のようだった。




