5-④ 銀色の案内人
ここは楽園だった。安心する程の暗闇の中で暖かな海に浸かり、誰とも知れない――けれど確かに私は知っている――声に耳を傾ける。
まだ会ったこともないその人に、私はただ焦がれた。彼女から送られてくる命の源が、私をここまで育んでくれた。それは、単なる栄養成分だけでは無い。彼女の穏やかな歌声、彼女の誰かを想う優しい心、それら全てが、今の私をつくりあげた。
早く外界に出てかの人に会いたい。そう切望するのは自然な事であったろう。
だが、そのごく当たり前の望みも儚く砕け散る代物でしかなかったのだ。
外界に、彼女以外の声が沢山聞こえたかと思うと、暗闇の中に、突如として光がさした。
とうとうこの瞬間がやってきた。
私は、そう確信して瞬く間に歓喜した。けれど、次に私に待ち受けていたのは、声にならない苦痛だった。肉体的な痛みが全身を駆け巡る。そのあまりの衝撃に、一瞬感覚を失った。が、すぐに感覚は戻り、激痛が襲い来る。
見れば、私の片脚が無造作に引きちぎられていた。私は、その光景が嘘である事を願った。それでも、無慈悲にも次々に私の身体は引き裂かれていった。瞬く間に周囲は血の海となった。私は、気がつけばもう下半身がなくなっていた。だが、そんな事お構い無しに、ぬらぬらと血に濡れた凶器は、私を引き裂こうとこの中に入ってくる。
まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない。まだ死にたくない。
そう必死に唱える私の胸部に、凶器が触れた。このままだと、私は本当に絶命してしまう。そんな事は有り得ない筈だった。私はこれから外界に出て、私を待ってくれている色々な人達に出会う運命だった筈なのに。それとも、そのような当たり前の運命さえ、簡単にねじ伏せられてしまう世界なのだろうか。
胸元に凶器が突き刺さる。私は、絶命する恐怖に、生への渇望に、心の中で慟哭した。
お願いだから、わたしを独りにしないで。
その途端、私は眠りから目覚めた。それと同時に、思わず上半身を思い切り起こしてしまった。あの恐ろしい悪夢の感覚が、まるで現実であるかのように生々しく精神の中に残ったままだった。下半身を覆う布団の下を恐る恐る確認するなり、安堵する。私の両脚は、引き裂かれている事無く無事にくっついたままだった。
私は、頭がうまく働かないまま、カーテンのない窓の向こうに視線をやる。すると、私の目に飛び込んできたのはただの雑木林だった。それも、特に思い当たりもない、これといって変哲も無い。
何故自分がこのような辺鄙な場所にいるのか、てんでわからない。意識を失うよりも前の記憶を蘇らせようとしても、なかなかそれは意識の表面に現れてはくれなかった。私はいったい、何をしていたんだっけ? そう必死に自分自身に探りを入れても、成果は得られなかった。
そんな時、部屋の扉を開く音が耳に届いた。それによって、私は我に返った。そして扉の方を見やる。瞬間、それまで重苦しかった私の頭の中にあった様々な思考が、どこかへと飛んでいってしまった。そして瞬時に、これまでの記憶が蘇った。
「目が覚めたんだね、お姉ちゃん」
何故ならば、たった今部屋へと入ってきた少女は――私をここまで導いてくれた相手だったからだ。ある日を境に私の脳内に住み始めた、私だけの死神。そして同時にもう一人の私でもある彼女。まるでテレパシーでも受け取ったかのように一気に記憶が舞い戻る感覚は、魔法のようなものだった。
それにしても彼女は、銀色の髪に銀の瞳と、どこからどこまでも銀色でできている。まだ私よりも一回りは幼いような容貌なのにも関わらず、その幻想的な雰囲気は、とても年下などと年齢なんかで区別できるものではなかった。
「あんな、お姉ちゃんが起きたよ」
またもや我を失っていた私は、彼女のその声によりハッとした。銀色の死神のインパクトのせいで気が付かなかったが、なんとここの部屋には、彼女が来るよりも前に、もう一人私以外にいたのだ。その容貌には確かに見覚えがあった。
間違いない。今目線の先で眠りから目覚めた少女は、私が接近しようと努めている、アンナという名前の人間だ。私は、急速に心音が速まっていくのを嫌でも感じざるを得なかった。
「……ああ、そうなの」
その妙に冷めた声で確信した。その途端、私の頭の中は、アンナにどう言葉をかければよいのかと、壊れた時計の針のようにぐるぐると回り始めた。なぜって、アンナにはこれまで散々誤解を招くような行為をしてしまっていた。
どう弁明すれば良いのか、それに果たしてそれを受け入れて貰えるのかどうか、わからなかった。その上、私の脳みそは普段以上に仕事をしてくれなかった。おそらく、まるで夢の中にいるかのようなふわふわとした心地が、そうさせてしまったのだろう。
気づけば私は、口を開いていた。
「あの、アンナ……あれ、全部誤解なの!」
自分で言っておいて、拙い言葉だと呆れた。そして案の定、アンナは私の発言に対し、呆気にとられている様子だった。
そして、それから数秒してから、アンナは訝しげに私に問うた。
「あれ全部って、私にやたらとケンカ売ってきたこと?」
アンナは、明らかに意味がわからないといった調子だった。私は、そんな彼女の様子にさらに焦った。故に、考えるよりも先に、言葉が先立って出ていってしまった。
「そうなの、そうなのよ。私は、ただあんたと、その……仲間になりたかっただけ。でも、それには繋がりが必要でしょ。だから、私たち二人を繋ぐ、唯一の証を何度も見せたのよ」
私は、焦燥感に呑まれながら腕をまくり、壁際で座るアンナにあの傷跡を見せた。もう何度目かわからないこのシチュエーション。ただ一つ違う事とといえば、私から高圧的な部分が消え去っていた事だろう。
「ね、アンナ。だからお願い、わかって。私はあんたを威嚇するつもりなんて、ホントはなかったのよ!」
私は、気がつけば泣く寸前まで追い詰められていた。気を抜けば、今にも涙が溢れてしまいそうな程だった。自分でも、そんな自分が子どもじみている事はわかっていた。それでも、これまでのように虚勢を張る余裕が無いという事も、同時にわかっていた。
てっきりアンナは、そんな私を軽蔑すると思っていた。だが、意外な事に彼女はみるみる神妙な面持ちとなっていった。それは、まるで私の奥に何かを見つけ出したかのような、達観に満ちた瞳だった。そして驚く事に、アンナはこれまでの私を許した。
私は、当然ながら、そんな彼女に詰め寄った。どうしてそう簡単に許せる事ができるのか、と。そんな私の疑問に対して、アンナはただ、「元はといえば私の責任なんだ」と悔恨を孕んだ表情で答えるだけだった。
そこで私は、アンナへの弁明ばかりで、肝心な存在を忘れていた事に気がついた。それまで私とアンナのやりとりを呆然と眺めていた銀色の死神に、まるで責め立てられているような心地を覚えた。
なんと私は、あれ程焦がれていた案内人を無視してまで、アンナに夢中になってしまっていたのだ。私は自分に失望した。アンナももちろん重要な存在だが、私が何よりも最初にすべき事は、銀色の案内人に挨拶する事だったのではないのか。
私は、胸中を畏怖のような念に侵されながら、銀色の案内人に向き直り、しゃがんで彼女と目線を合わせる。そして、震える声で彼女に挨拶した。
「こんにちは、私にこれまで語りかけてくれていた人」
私は、透き通る銀色の瞳を見据え、しどろもどろながらもそう言った。すると、たちまち銀色の少女は、微笑んだ。
「こんにちは、わたしのことが好きなお姉ちゃん」
その愛らしい返事を聞くなり、私の中に満開の花が咲き誇るのを感じた。少女の姿をした案内人は、私に対して寛大なようだった。その事実が嬉しくてたまらなかった。
だが、そんなふうに歓喜にうち震える私とは反して、隣のアンナは何故か身を固くしていた。この時の私は完全に浮かれきっていた為、私にとって重要である存在が同じ場所にいる偶然に驚愕を覚える暇もなかった。それか、無意識のうちにそれが自然な事であると思っていたのかもしれない。
「ねぇ、あなたのことはなんて呼べばいいの?」
私は、銀色の案内人に問うた。すると、すかさず彼女は答えてくれた。
「カーヤ。それがわたしの名前だよ。あんなにつけてもらったの。えへへ、いいでしょ」
銀色の案内人――カーヤは、嬉しそうに瞳を輝かせた。それはさながらその瞳の中に星空がひろがっているかのような眩さだった。自分で例えておいて、おかしく思った。銀色の星空とは、いったいどのような光景なのだろう。だが、そのような疑問もすんなりと受け入れてしまえるような、そんな力がカーヤにはあった。彼女はまさしく星空そのもののように思えた。身近にありながら、決して届くことの無い存在。そして何より、人間の想像力を遥かに凌駕する神秘が、彼女を構成していた。
そんなふうに私がカーヤに魅入っていると、降り掛かる音があった。
「――なんで?」
頭上から聞こえたものはアンナの短い台詞。私は、彼女がいったい何に驚いているのかわからず、彼女を見上げ、「どうかしたの?」と問いかけた。
すると、数秒の後、アンナは、問いかけというよりも、ひとりごとのような声を漏出させた。そしてそれは、溶けかけた私の脳を固めてくれるには十分な代物だった。
「どうしてカーヤが見えるの?」
え、と思わず私の口から声が漏れた。それはアンナの言葉の意味がわからなかったからだ。
「だから、さっきも言ったじゃない。このお姉ちゃんは、わたしと繋がったんだって」
そう言ったのはカーヤだった。おそらく、それはアンナに向けた言葉なのだろう。という事は、お姉ちゃん、というのは私の事か。
そこで、私はまたもや重大な事を忘れているのに気がついた。私は、まだカーヤに名前を名乗っていなかった。こちらから名前を尋ねておいて名乗らないなど、無礼にも程がある。私は、急いでカーヤに向き直った。
「ごめんなさい、カーヤ。私はまだ名乗ってなかったわ。私は、ホルテンジアっていうの。短くホルテって呼んで」
私は、なるべく自然な笑顔を意識してそう自己紹介をした。が、やはり彼女を前にするとどうしても緊張してしまう。
カーヤは私の拙い自己紹介を聞くなり、「わかった。なんだか、キレイな名前だね」と頬を綻ばせた。
それにしても、カーヤは、いったいどうしてこのような姿をしているのだろう。銀色の髪と瞳には、何か意味でもあるのだろうか。残念ながら、私には見当がつかなかった。
だが、それもおかしな話だと思う。何せ、カーヤはもう一人の私であると同時に、死神でもあるのだ。いわば、私の為に存在しているのだ。だというのに、どうしてこのような私の理解の及ばない風貌をしているのだろう。
そんなふうに考え込んでいると、突如アンナが立ち上がり、そのまま駆けて部屋を出ていった。その時に一瞬だけ目に映った彼女の表情は、まるで何かから逃げるような恐怖感と緊迫感に満ちていた。
私は、そんなアンナに呆気にとられながらも、カーヤとの対話を続けた。
「ねぇ、カーヤ。どうしてあなたはそのような姿をしているの?」
「これはね、あんなが求めてた姿なの。わたしはあんなと出会うことでこの姿を手に入れたの。でも、その前はなんにも姿はなかったの」
「じゃあ、あなたはアンナの為に存在する案内人って事でもあるの?」
「むずかしい言葉はわからないけど、きっとそうだよ。わたしは、あんなのためにいるんだと思う。でも、わたしはちがうの。他に、欲しいものがあるの」
「欲しいもの?」
「うん。それはほるてもあんなも、同じもの。るーかすと同じ人だよ」
そのルーカスって、誰?
そう問おうとした刹那、部屋に入ってくる新たな人間がいた。私はその人物を認識するなり、カーヤとの会話など遠くへ吹っ飛んでしまった。
気づけば私は叫んでいた。そして部屋の奥に身を縮め、がたがたと震える事しかできなかった。何故なら、その人物は、私に呪いをかけたあの男だったのだ。
私は、動乱する頭の隅で、どうにか思考を巡らせた。そして真相に気がつくのはそう難しいことではなかった。つまるところ、カーヤは、あの男の使い魔なのだ。あれ程の能力を使える人物だ、使い魔の一人や二人いたところで何らおかしくは無い。
それに、私は熱に浮かされるばかりである偶然に気がついていなかった。それは、カーヤに導かれたこの場所に、私の求める人間、アンナもいたという並々ならぬ偶然だ。これまでの様子からするに、おそらくアンナとあの男は恋人同士だ。ならば同棲していても不自然な事ではない。
ようするに、全てこれはあの男が仕組んだ事なのだ。そう、アンナに近づこうとする邪魔な私を始末する為に。そして確かにカーヤは私の感が言うように死神だったという事だ。それも、私の希望となるかたちではなく、それとは真反対の真実を振りかざして。
「ほるて、そんなに怯えて悲しそうで、どうしたの?」
気がつけば、カーヤが私の目の前までやってきて、うずくまる私を覗き込んでいた。この時の私には、それがまるで聖母の眼差しのように思えてならなかった。
カーヤは本当に不思議な存在だ、と改めて実感する。たった今の私を案じてくれる言動だけで、私自身を押し潰していた凶悪な魔物は外界のどこかに散っていった。
いくらか精神を回復した私は、縋る思いでカーヤを見上げた。
「ねぇ、カーヤはあの男の仲間なんかじゃないよね? 私を、あいつみたいに呪ったりしないよね?」
私は、やっとの思いで震える声でカーヤに尋ねた。
「あの男?」
カーヤは、不思議そうに尋ね返してきた。
「あいつよ、今、アンナと一緒に私の目の前にいるやつ。あいつは、前におかしな能力で私を呪ったの! 凄く痛くて苦しかった。でも、そのおかげでこうしてカーヤに会うことができたの……」
言葉にすればする程、カーヤへの不安が舞い戻ってきた。それは、やはりカーヤが奴の使い魔か何かだと考えるのが、これまでの事に筋が通ってしまうからだ。
すると、カーヤはそんな憐れな子羊に、残酷な真実を告げてきた。それも、不気味な程に、幼い初々しい調子に、無邪気な声で。
「痛くて苦しい思いをさせたのは、るーかすじゃなくてわたしだよ。だって、るーかすが他の人たちに取られるのは、絶対にやだったんだもん!」
途端、私の中は氷のように固まった。それか、本当に氷だったのかもしれなかった。とにかく、心の臓の芯から至る所までが熱いくらいの冷たさに覆われたのだ。カーヤの言い分はよく分からないが、彼女が私にあの攻撃を仕掛けた――その事実だけで、まるで生きた心地がしなかった。そして、そんな私の心中を察したかのように、カーヤは続けて言った。
「でも、ごめんね。あの時はごめんなさい、ほるて。あなたがこんなにわたしを求めてくれるなんて思ってなかった。だから嬉しい。それに、わたしと同じだけど、同じじゃない。だから、もうほるてにはあんなこと絶対にやらないよ。本当に、ごめんなさい」
カーヤは、先程まで昂っていた感情を、沈鬱なものに変えてそう謝罪した。私は、そのカーヤの言葉を完全に理解できた訳ではなかったが、現在の彼女は私を好いてくれているという事実だけで、いくらか安心できた。瞬く間に心臓を覆っていた氷が溶けていくのがわかった。カーヤがそう言うのならば、私がつい先程まで覚えていた不安などもうどうでもいい代物にすぎない。
そしてカーヤは、まるで仲直りの証とでもいうように、私にあるお願いをした。それは、私に一日だけ本の読み方を教えて欲しい、といったものだった。普段はアンナとあの男に教わっているらしいが、今日だけ特別に私をご所望らしかった。当然ながら、私にそれを断る理由等なかった。私は喜んでそれを承諾した。
嬉しそうにカーヤが部屋を出ていくと、一気に脱力する私に向かってくる人影があった。それはアンナだった。彼女は、どこか具合の悪そうな虚ろな瞳で、私に先程と同じ事を尋ねた。どうしてカーヤが見えるのか、と。
私は、相変わらずその質問の意味が分からず、今度こそ、どうしてそんな事を聞くのかと尋ね返した。すると、彼女は有り得ないような話を口にした。




