5-② ホルテンジア
自室に戻るなり、着替える事もせずベッドへ倒れ伏した。すると立て掛けてある写真が視界に入った。その中に映っているのは、幼い私と父だった。私は、それが視界に入らないように寝返りをうった。
そんなに嫌なら、仕舞うか捨ててしまえばいいのに。何度も自分自身にそう言い聞かせた。だが、どうしてもそれはできなかった。その証に、今もこうして私の心中を締め付ける何かが存在していた。それは悲しみか、郷愁か、はたまた悔恨か。今の私には、そのどれであるのか、それとも全てであるのか、何もかも分からなかったし、分かりたくもなかった。
今では私にまるで無関心な父。それでも、昔は私にべったりだった。幾度も不倫を繰り返す母を差し置いて、父はずっとと言って良い程に、私と一緒にいてくれた。仕事から帰ってくる度に、毎回私のところに来て抱き締めてくれた。休日には、必ず私と二人きりで遊びに行ってくれた。就寝時も一緒だった。けれど、そんな幸福な日々も、ある時を境に崩れ落ちた。
ある日、母がとうとう家を出ていった。おそらく、離婚というものだろう。当時の私に父はろくな説明をしてくれなかったが、子供心ながら、母は別の男の元で過ごす事を選んだのだろうという事を察していた。
それからさらに父は私を拠り所とした。そんな折、私は幼いながらも理解した。自分は、父に純粋に愛されていたのではなく、ただ単に孤独からの逃げ道とされていただけに過ぎないのだと。当然ながら、私の事を実の娘として愛してくれていた部分もあったろう。だが、それをはるかに凌ぐ依存心が、父にはあったのだ。実際に、それを証明するように父は新しい恋人――現在の義母――ができると、私の元から離れていった。徐々に私に対する態度が、よそよそしくなっていったのだ。
私は父に捨てられた。そう理解していながらも、タイミングを見極めて父に近づいた時があった。そして、また二人きりで遊びに行きたいと懇願したのだった。それを父は了承してくれた。当然、その時の私の安堵と感動は計り知れないものだった。やはり父は私の事が好きなのだ、そう再認識できた瞬間だったのだから。
だが、その感動も虚しく散ってゆく事となった。遊ぶ約束の日、私と父はあるテーマパークに向かった。だが、なんとそこには、待っているはずのない人間が私たちを待っていたのだ。
父は私にある女性を紹介した。その女性の事を、これから新しい母になる人だ、と父は語った。その時の義母は、以前の母に比べて温厚な雰囲気を漂わせていた。血の繋がっていない私にも、優しく接してくれた。だが新しい兄弟ができでもすれば、私の事を邪魔者扱いするようになるのは想像に容易かった。
私は、その日から既に義母に冷たく接していた。義母への嫉妬心もあれば、同時に、どうせ捨てられるならば最初から嫌われた方が楽だ、という心理も働いていたような気がする。
そしてその日、義母が席を立った時、父に尋ねた。今日は私とぱぱ二人きりで来るんじゃなかったの、と。私は裏切られた悲しみで、思わず父に対して、責めるような口調になってしまった。
だが、向こうは大人だ。子供の甘えたいが故の純な不満くらい、察してくれるだろうと信じていた。自分勝手かもしれないが、その時の幼い心は、そう信じる事でしか自分の心を守る事ができなかったのだ。
だが、そんな私の淡い信頼も、砕け散る事となる。
父は、至って普通に、こう答えたのだ。
「え? そんな約束したっけ?」
心臓が凍てついたように、私の内側が冷たくなっていった。
例えどんなに小さな約束事だろうと、当時の私には、何よりも重要な事だったのだ。私は、あまりのショックに泣く事さえできなかった。世界は瞬く間に灰色に染まり、絶望の底に落ちていった。
それからも父はなんの変哲も無い様子で、後の義母にばかり話しかけていた。まるで私の存在など忘れ去ってしまったかのように。義母は、場所がテーマパークというのもあり、必死に子供の私に話題を降ってくれた。だが、私はそれに応える余裕もなく、ただ沈んでいた。
もはや父にとって私は、どうでもいい存在なのだ。いてもいなくても変わらないような、そんな存在。むしろいない方が、父にとっては都合が良いのかもしれない、とさえ思った。人はこんなふうに、いとも容易く変わってしまうものなのだと、残酷な現実を突き付けられた瞬間だった。
それから私は父を避けるようになった。当然義母も。最低限の衣食住さえ与えてくれれば、それ以外何も求めなかった。義母が私の為にわざわざ開催してくれた誕生日パーティーさえも、私は席に出る事無く、ひたすら外で時間を潰していた。その日を境に、義母の方もどうやら私と信頼関係を築くのを諦めたようだった。私に、必要以上の介入をしてこなくなった。
私はむろん、それで良かった。父も義母も、今となっては家族でさえないのだから。そう思っているにも関わらず、こうして回顧している間、どうしようもなく涙が溢れて止まらないのは、いったいどうしてだろう。
私は、暗闇に包まれた自室で声を出す事もなく、溢れ出る涙を拭うことも無くそのまま自由にさせてやった。時として自然に流れる涙は、胸中に鬱積した不快感を取り払ってくれる。私には、その感覚がどうも心地よく感じて仕方なかった。
そんな時、ふいにある人物が脳裏に浮かんだ。まだ実際には数回しか会ったことのない相手だが、私にとっては非常に印象深い人物だった。彼女が昔、私と会った事を覚えている事までは分からない。
だが、彼女は、あれから当たり前に日常を溝に捨てるようになった私の様子を、気にかけてくれた。悪い事をしていたのは私の仲間とはいえ、彼女――アンナは、素直になれない私に対して、真っ向から相手をしてくれようとしたのだ。少なくとも私には、そう見えた。
私があの時、どれだけ嬉しかったか、おそらく彼女は知らないだろう。何せ私は顔に出さないタイプであるし、あの日もやはり悪い癖で大きな態度をとってしまった。それでも、いつかは彼女に近づきたいと思う自分がいるのも確かだった。
そんなもどかしい想いを溜め込んでいたある日、ロバーツに問われた。アンナとの件について、どうしてそんなに他者の介入を拒むのか、と。私は、当然ながらそんな彼の疑問に呆れ返った。お前だってそのいかつい胸に秘めているのはほとんど私と同じようなものだろう、そんなふうに思いながら、答えた。
「だって、もっと近づく為には二人きりで話す方が良いに決まってるじゃない」
そうすると、質問者であるロバーツも、その傍らで成り行きを見ていたクラウスも、黙りこくった。そして二人は互いに視線を合わせたかと思いきや、すぐに私の方へと向き直り、驚愕の眼差しでうろたえた。そして、どちらとも知れず、まるでミステリーの真相を突き止めたかのような驚嘆の表情をして問うてきた。
「もしかして、ホルテはあの女とダチになりたかったのか!?」
私は、彼等のその反応に置いてけぼりをくらっていた。なぜそんなに驚かれるのか、全くもって理由が分からないからだ。その為私は、なんでそんなに驚くんだ、と少し怒った。さすがにここまで自分の目的について驚かれると、侮辱されているような心地になってくる。
すると、クラウスが咳払いをしたかと思うと、男らしい眉を下げて何やら深刻そうに話し始めた。その話を聞いて、私は脳髄が爆破したかのような衝撃に襲われた。
何と、彼らから見れば、これまでの私に対するアンナへの態度は、どこをどう見ても喧嘩を売っているようにしか見えなかったとの事。その為、彼らはてっきり私がアンナを憎んでいて、その腹いせをしたがっていると思っていたという事。そして、何よりも私に絶望を与えたのは、おそらくアンナの方も彼らと同じように私が見えていただろうという事だった。
私は、自覚しているつもりだった。自分は社交下手な傾向にある人間である事や、何故かいつもここぞという場面で本来とは真反対の態度を人にとってしまう事が多い事を。
それでも、実際にこうして指摘され、しかもそれが現実として鮮明に実感できるとなると、私の精神的ダメージは相当なものだった。何せ、ただでさえ朽ちている精神を、さらに穴だらけにされてしまったのだから。もしも精神を可視化できていたならば、きっと今頃私の精神は、クッキー袋の残りカスのようになっている事だろう。
私は、もう意識を保っているのも面倒になってきたので、未だにあたふたしている二人に構わず近くのベンチの上に倒れ伏した。謎の脳内再生といい、家族との枯れ果てた関係といい、加えてアンナに対する私の誤解といい、最悪な物事が積み重なってしまい、何もかも限界だった。もはや意識があるのさえ邪魔だった。
そんな私の元へ二人は慌てて駆けつけてきた。彼らはしきりに私の凍った自我を呼び覚まそうとした。だが、私はそんな彼らの言葉に耳を貸さなかった。そんな余裕、今の私には無かったのだ。
だが、ある一つのクラウスの言葉が、私の自我を刺激した。それは、アンナへの誤解ならば頑張れば解けるだろう、といった慰めの言葉の一つに過ぎなかった。だが、今の私に希望を与えてくれるには十分な力を持っているのも確かだった。私は、力の無い声で、「今更どうすればいいのよ……」と縋る思いで二人に聞いた。すると、ロバーツが、鼓膜に悪い無駄に大きな声で答えた。
「そんなん簡単だ! ホルテも俺らみたいに、あの女に告っちまえばいいんだ!」
私は、すかさずそんな事できる訳がないだろう、と、脳内でひとりごちた。いざ本心を打ち明けたところで、大きな繋がりが存在しなければ、私なんか受け入れて貰える訳がない。その上、アンナとの唯一の繋がりであるこの傷も、(彼らによれば)私が散々威嚇してしまったせいで、かえって逆効果だろう。
となると、もはや私と彼女を繋ぐものは何一つ存在しなくなってしまう。果たしてそんな赤の他人を、そう容易く認めて貰えるものなのだろうか。私には、そのような希望のある可能性を想像するには困難だった。
重たい表情で沈黙を貫く私を見かねてか、クラウスがその場しのぎの提案を出した。それは、これまで通りの態度でアンナに接し、傷について贖罪するよう命じるというものだった。
これだけ聞けば野蛮に聞こえるだろうが、ここからが本題なのだ。そして、贖罪の内容とは、私のお付きの人、いわゆる子分になるという事だった。そうして主従関係を築き、徐々に私が態度を緩やかなものにしていけば、そのうち上下関係が消失し、友情が芽生えるかもしれない、というものである。
私は、そのいつにも増して頭の回るクラウスの提案に、僅かに胸が浮き立つのを感じた。それならばイケるかもしれない、そんな淡い期待が、私の萎んだ心中に優しい風を運んだ。
そうだ。もう嫌われているようなものなのだ。ならば、子分作戦も一回は実行してみる価値は大いにあるだろう。気づけば私は、そう決心を固めつつあった。
「いいわね、それ。それなら私でも、やれそうだわ」
私は、先程よりかは生気の灯った声で、そう口にした。
すると、クラウスが、あからさまに嬉しそうな表情を浮かべたかと思うと、小さくガッツポーズしているのが見えた気がした。ロバーツが、そんなクラウスの様子を見て、途端に慌てだした。口からはやべぇ、どうしよう、等といった言葉が漏出し、顔面に汗をかいているのが見えた。私は、その光景を不思議に思い、ロバーツに尋ねていた。
「ロバーツ、あんたなんでそんなに慌ててるの?」
私の問いを聞くなりロバーツは、顔色を普段のものに戻し、大きくため息を吐いた。そして、妙に弾んだ声色で言った。
「そうだよな。こんな提案だけで、クラウスに負けるわけないもんな」
私は、彼の言っていることがよく分からず、呆然として彼らを見上げた。
「何、あんた達。なんか競走でもしてるの?」
瞬間、二人は石のように固まった。そのまましばらくどちらも言葉を発さないまま時が過ぎた。私は、このよく分からない茶番に付き合わされるのが面倒で、まぶたを閉じた。色々と疲れたので、今度こそ眠りにつきたかったのだ。
だが、そんな私の儚い望みも、ロバーツの大声によってかき消された。
「まさかホルテ、忘れちまったのか!? 俺らがあんたに告ったことを……」
私は、それを聞いて、ああ、そんな事もあったなぁと思い出した。
そういえば私は、ある日の夜の居酒屋からの帰り道、突然クラウスに想いを告げられたのだ。それまで私は彼を知らなかったので、いわゆる一目惚れというやつだろう。その時、割って入ってきたのがロバーツだった。何と、ロバーツまで私を狙っていたらしく、結果的にその場で二人の人間に告白される事となってしまったのだ。ちなみにロバーツの方も私はそれまで知らなかった。
私は、一夜をかけて考えた末、彼らを試してみる事に決めたのだった。その次の日、居酒屋で待ち構えていた二人に、早速これから私に付き添うように話した。そして、その日々の中でどちらが有望か見極める、というのが私の答えだった。
本当のところは、男女のお付き合いとか面倒くさくて、どうせなら仲間としてどちらも傍にいて欲しい、そんな私のわがままだった。だが、二人は馬鹿と言うべきか、変なところでお人好しと言うべきか、それを承諾したどころか、やる気に満ち溢れていた。それが、私と彼らの始まりだった。何となく告白されたような記憶はあったが、二人を傍に起き続けている理由までは忘れてしまっていた。
いつまでも無言でいる私に、クラウスが話しかけてきた。
「その、急かすつもりはないんだけどよぉ……いつどちらか決めて貰えるんだ?」
私は、その問いに応えるのが面倒で、今度こそ寝落ちしようと試みた。私に答える気が無いと悟ったのか、それきり二人が催促してくる事はなかった。私の頭の中にはただ、アンナを子分にするという事だけが浮かんでいた。例え子分でもいいから、一緒にいて欲しかったのだ。
そんな事を想いながら、夢にまで謎の怪奇現象が現れないよう願い、睡魔の元へと旅立っていった。
だが、恐れている事ほど実際に起こってしまうものだった。そこは生温い暗闇だった。まるでぬるま湯に浸かっているかのような感覚に心地良さを覚える。私は、荒廃しきった現実世界の事など忘れ、永遠にここにいようと思い、生暖かい感覚に呑まれるままに寝転がった。
すると、体制を崩す際に折れ曲がった私の両膝が、何かに当たった。私は、その何かに触れてみた。それはどこまでも広がると同士に、私を包み込んでいる。この事から、私の膝がぶつかったのは壁だという事がわかる。それにしても、随分窮屈な場所だった。私が丸まってやっとスペースができるような具合だった。私は、無意識に、ここはどこ、と誰かに問いかけていた。すると、それに応える声があった。
――どこって、わたしの世界だったところだよ。たった一つの。
妙に幼い声だった。その声の主は、無感情なように感じた。だが、私は何故か、それを聞くなり言いようのない悲しみに襲われて、涙を流していた。自分でも、何が悲しくて、どうしてこんなに泣いているのか、全くもって検討がつかない。それでも、私の心臓のどこかがある確信を持っていた。ここには以前、私もいた事がある。それも遠い昔に。こことは種類は違えども、性質自体は同じものだった。
――わかるんだ。あなたは、ままのことが好きだったんだね。あんなとはぜんぜん違う。
その声に、私のとろけた脳は刺激を帯びた。アンナという人間を、私は知っている。これから接近する予定の人物だ、忘れる訳がない。その上に、驚いた。先程の口ぶりからして、この声の主はアンナについて私よりもよく知っているようだ。何も驚いたのは、その事実だけではない。この人物だからこそ、アンナについて知っている事について驚愕したのだ。
何故ならば、先程から私の問いに答える彼女は、私の脳にしばしば突然流れてくる記憶の主であると、直感的に理解できたからだ。
直感だと理屈的な根拠がなく信ぴょう性が低い為、単なる私の勘違いだと思われるかもしれない。けれど、これまで幾度かあの記憶を共有した事のある私には、確実と言っていい程に、彼女であると断言できる程の自信があった。いや、自信というよりも、一種のサイコキネシスの様なものかもしれない。そのように、自然と、なんの根拠がなくとも、そうだということがわかってしまうのだった。
――やっとわかってくれたんだね。でも、あなたはわたしにとってそこまでいらないの。だから、そろそろ目覚めて欲しいの。




