5-① 世にも奇妙な童顔男
おそらく苦痛の暗闇とはこういった感覚の事を言うのだろう。そんな思考が、あの日あの時、激痛に悶える頭の中で浮かんでいた。
何も見えない。それはこの全身を苛む激痛のせいだろうか。
強烈な悲しみが胸中を満たす。それはこの激痛によりもたらされるものなのだろうか。
そんな事はともかく、とにかく痛かった。心身共にこれまで味わった事のない程の強烈な激痛に侵されている。ああ、自分は間違いなくこのまま死ぬのだろう。朧げな意識の中、そんなふうに思う。
次いで、どうして、という疑問が精神の至る所でこだました。こんな酷い事をなぜ自分はされなくてはならないのか。これから訪れるはずだった生の幸せを、なぜ奪われなくてはならないのか。なぜ、一度も私の世界だった存在に出会う事のできぬまま、肉塊と化して朽ちてゆかなければならないのか。
何もかもが理不尽で、残酷で、耐え難い苦痛だった。外の世界を呪いたくてたまらない感情を覚えたが、これはおそらく私のかつての世界が抱いていたものだろう――繋がっているからか、そんな事も容易に分かってしまう。
それでも、彼女は外の世界を憎むと同時に愛してもいた。どうしようもなく愛しい人がいた。だから自分はここにいる。だというのに、今自分はこうして一つきりの命を奪われている、それも酷く乱雑な方法で。
こんな事があっていい筈がない。どうかせめて、あの人達に会わせて欲しい――………そんな魂の叫びは、完全に事が遂行された為に途切れてしまった。だが、事が乱雑だったおかげか、皮肉にも自分自身だったモノの残骸が、世界の中に残されてしまった。この、薄暗く生ぬるいたった一つの世界に。
……あれから幾度も脳内で再生される、あの不気味な誰かの記憶のようなもの。それは何かを必死に訴えているかのようで、私の心中を虚しさで満たす。
この記憶の持ち主だった魂はいったい誰のものなのだろう。アイツ――アンナのパートナーらしき男だと考えるには、どこか腑に落ちなかった。だが、それもおかしな話なのである。
この記憶らしきものが脳内に流れ出したのは、間違いなくあの鳶色の髪の男が魔術らしきものを使い、私たちを攻撃してきた時なのだ。そのタイミング的にも、あの時の状況的にも、あの男のものであると考えるのが最も自然なのだ。何せ、あの時あの場にいたのは逃走したアンナを省き、私たち三人組と例の男しかいなかったのだから。
それか、もしかして、あの男はあれ以前にもあの魔術的な能力を利用し、人を攻撃した事があるのだろうか。そしてその犠牲者は、あの激痛に耐えきれずショック死してしまった――そして、あの記憶はその死んだ人間のもの。そう考えた瞬間、全身の毛が逆立つのを感じた。あまりの悲惨な自分の現状を前にして、私の視界は徐々に暗くなっていく。だが、そんな私を呼び止める声のおかげで、意識を失わずに済んだ。
「……て、ホルテ、おーい、ホルテ!」
その無駄に大きな声に鼓膜が刺激された上に、肩を激しく揺さぶられた事によって、崩れ落ちかけていた私の自我は原型を取り戻した。
私は、朦朧とした意識で見飽きた顔面を見やる。相変わらず、面白みのない顔をした男だ。
「もしかしてまたあの怪奇現象か?」
面白みのない地味な顔が、真に迫った表情になった。私は、その質問に対して、未だにぼんやりとする頭で「え……? あぁ、まぁ、そうよ」とたじろぎながら答えた。ちなみに、このたじろぐというのは目の前のこの男に対してのものでは無く、あのおぞましい記憶に対してのものである。
現在私がいるのは旧市街地のとある居酒屋だ。そして今私の両隣に座っているこの二人の男――一人は無個性な地味顔だが大柄なロバーツ、そしてもう一人はいかつい顔つきでスラリとした長身のクラウス――は、私の数少ない仲間である。仲間という言い方は少し変かもしれないが、あいにくこれ以外に思い付かなかったのだ。
そして地味顔のロバーツが先ほど言い放った言葉。そう、怪奇現象というもの。それは、私たち三人に突如として降りかかった災厄、あるいは人災だった。
なぜ人災と表現したか、それはある一人の男が大きく関わっている可能性があるからだ。そして、その男とはつまり、めたらやったらと私とアンナの接触を妨害する、あの赤毛の童顔男の事である。
私は、アンナという幼い頃からの顔見知りにより近づく為に、アプローチをした事がある。といっても、その為の材料が少な過ぎた為、その殆どが、幼少の頃にアンナにつけられた傷跡を見せつけるといった極めてシンプルなものになってしまった。そしてその度に、あの時の事を鮮明に思い出してしまうのだった。
私は自分の美しい肌を好いていた。その為、それに不格好にも二本の線が走っているのを目にすると、腹が立って仕方がないのだ。その結果、私はうまく彼女に自分を表現する事ができず、威嚇のような態度をとってしまうのだった。もちろん、人に自分から接近する事への恥じらいもあって、余計にそうなってしまったのだろう。
それ故か、アンナは毎回私との会話に乗り気な様子は見せなかった。冷静に考えれば、アンナのその反応は当然なのだ。けれど、そうは頭で分かっていても、私はその度に、苛立ちを抑える事ができず、アンナにあたってしまうのだ。
どうしてあんたはそんなに私の事を嫌うのか、そんな悲しみにも似た怒りが爆発してしまうのだった。その上、謎の恐怖によりその不満を言葉にする事もなかなかできずにいた。
中でも、アンナに特に強くあたってしまった日があった。それが、ただでさえくだらない私の人生をさらに悲惨なものとさせてしまうだなんて、当時は思ってもいない事だった。
あれは、私たち三人で旧市街周辺をいつものようにぶらぶら歩いている時だった。なんとその時、珍しくも街道でアンナの姿を見つけたのだった。私は当然、このチャンスを逃すまいと、左右のロバーツとクラウスを置いていく勢いでアンナの元へと駆け寄った。
するとアンナは、なぜか普段よりも暗い顔をしていたのだった。私はそれに内心驚きながらも、同時に、これは良い機会だと思った。なぜならば、ここで私がアンナに何らかの心理的刺激を与える事ができれば、彼女はたちまち元気を取り戻し、救ってくれた私の事を好きになるかもしれない、そう考えたからだ。完全に盲目と化していた私は、そのような稚拙な考えから、彼女にまたもや接近したのだった。
そういう訳で、後から追いついてきたロバーツとクラウスと共に、アンナを話しやすい場所へと連れて行った。なるべく人のいない場所を探した結果、路地裏で対話する事に決めた。
路地裏は相変わらず閑散としていた。思った通り人っ子ひとりいやしない。まさに、二人だけで会話するにはうってつけの場所だった。
そこで背後の二人が邪魔だったので追い払おうとした。が、なぜか二人は真剣な表情で私のお供をする、と駄々をこねて、この場を離れようとしなかった。あまりにもその二人が粘り強いので、私は不服ながらも彼らの滞在を許した。
私は、アンナが路地裏の壁に力なく背を預けてへたり込むと、腕をまくり傷跡を見せて、これまで以上の意気揚々とした声色で尋ねた。それは以前と同じような文句である。
この傷、覚えてる?
私は、アンナが昔の事を思い出し、同時に私について関心を見せる事を期待した。けれどアンナは、ぼんやりとした瞳で、「私にやり返したいなら、やり返してもいいよ」と、正気のない声で答えたのだった。
私は当惑した。それは、やはり私を嫌っているが故に、喧嘩腰で放った言葉なのか。それとも、もしかして、私とさらに繋がりを深めたい意思表示なのか。私は、思わずそれはどういう意味か、と問いかけた。その時の私の声は震えていた。それら二つの真反対な憶測による不安と喜びが綯い交ぜになっていたのだ。
すると、背後にいた地味顔のロバーツが私の肩を掴み、言った。
「ホルテ、俺がやってもいいぞ」
私は愕然とした。今しがた耳に届いた言葉の意図がまるで理解できなかった。
これはあくまで私とアンナの問題なのだ。そこに他の人間が付け入る隙などありはしないし、許される筈もない。
だというのに、この図体だけやたらとデカイ男は、それを破壊しようとしてきたのだ。私を慕っているように思えたこの男は、どうやら余程の馬鹿だったらしい。そしてそんな馬鹿に好かれた自分までそうだと誰かに言われているような気がした。そして何より、こんな単細胞野郎に私とアンナの仲を邪魔させる訳にはいかなかった。
「はぁ!? 何言ってんのよあんた。前も言ったでしょ、これは私とアンナの問題だって。あんた達は入ってこないでいいから、じっとしてなさい!」
私は、ロバーツの手を振り払い、彼に振り向いて怒りのままに叫んだ。
すると、後ろから小さな声が聞こえた。「いいよ、もう私は全てを諦めてる。だからどんな事されても通報したりしない」それは紛れもなくアンナの声だった。私は即座にアンナの方へと振り向いた。アンナのその言葉を脳が処理した途端、あるセリフが胸中に浮かんだ。
あんた、何言ってるの?
それは先程も誰かさんに言ったセリフ。だが声として発される事はなかった。それは、先程のように怒りからのものではなく、悲しみから生じたものだったからだ。何しろ、彼女は通報と口にした。という事は、私が彼女に危害を加えるつもりだと考えているという事だ。私は、二つの憶測のうちの最悪な方が当たってしまったのだと絶望に呑まれた。だが、その絶望もすぐに怒りの色に染め上げられた。
私は、いつまでも俯いているアンナに詰め寄った。そして、彼女を見おろしながら、糾弾した。あんたは何でいつもいつもそうなんだ、と。どうしてそんな酷い事を言うんだ、と。
そしてこの時、私は怒りの中でも妙な類の感情を覚えている事を自覚した。それは、今私の中を支配している他の怒りと同じように悲しみから生まれたものだったが、どこか風変わりに感じた。もちろん、アンナになぜか理由もなく嫌われているという悲しみもあった。
だが、それとはまた別に、方向的には真反対な悲しさがあった。この時の自分はまだ、自分中心によって生じるもの以外の感情を、うまく理解できていないでいたのだ。
その時だった。奴が現れたのは。
突然路地裏に新しい人間の声が響いたかと思いきや、奴――アンナのパートナーらしき赤毛の童顔男が、路地裏の入口に立っていた。
私は、それまでの事も相まって、奴の出現を認識するなり、自分の腹の奥がどす黒く濁っていくのを感じた。またお前か。いつもいつも私たちを邪魔する、良いとこ取りのずるいヤツ。
「またあんた? 男はでしゃばんなって言ったでしょ」
私は、全身に這う怒りを放出する心地でそう言い放った。
そして、やはり奴は狡猾だった。それというのも、それからも奴との不愉快なやり取りは続いたのだが、私の威嚇する言葉にもろくに答えずに、行動を開始しやがったのだ。
突然路地裏に飛び込んできたかと思うと、アンナを街道の方へ突き飛ばす事で彼女を私から離した。まるで、彼女に触れて良いのは自分だけだとでもいうような、傲慢なやり口だった。
私はすぐさまアンナを追いかけようとしたが、それはかなわなかった。なんと、奴が私の足を引っ掛けてきたのだった。私は転倒し、肘を派手に擦りむいた。アンナは、そうこうしているうちにどこかへと去っていってしまった。
私は、もはやここまで来ると煮え滾る怒りを抑えられる事ができなくなっていた。せっかくのチャンスを台無しにされるどころか、故意に転倒までさせられたのだ。
先程アンナは通報、という言葉を口にした。どうやら、本当に私は通報されてしまうようだった。それ程までに、この童顔男をとことんまでいたぶってやりたい衝動に駆られていた。そして当然、私は奴を肉体的に攻撃してやった。それも乱雑に、感情のままに。だが、そこで事件は起こったのだ。
突如として、私の全身に耐え難いまでの激痛が襲いかかった。後に聞いた話だと、どうやらロバーツとクラウスも同じような目にあっていたのだという。
私は、あまりの激痛に我を忘れ、地面にうずくまった。まるで全身を無造作に引き裂かれるような激痛に、意識を失いかけた。
だが、朦朧とした頭の中で、鳴り響くものがあった。それが、あの不思議な記憶だった。その記憶めいたものは、激痛に苛まれる私と共鳴しているかのような悲壮に満ちていた。私は、訳が分からないまま、この謎の激痛と記憶の再生が止まることを願った。しばらくすると、激痛も謎の記憶も消え、私たち三人は平生を取り戻していた。
そこで、思い出したかのように奴を見ると、どうやら気絶しているようだった。もしや、先程の激痛に耐えられずに意識を失ってしまったのか、とも私たちは考えた。だが、タイミングがあまりにも奴にとって都合が良い上に、まずあの現象自体がおかしすぎる。不思議、なんていう簡単な言葉では到底言い表せない出来事だったのだから。
そこで私たちが出した結論は、先程の現象はこの男によるものだったという事だった。ようするに奴は、普通の人間なんかではなく、魔術師だったのだ。おそらく気絶しているのは、先ほどの黒魔術の使いすぎによるものだろう。私たちは、そう結論づけるなり、速攻でその場を逃げ出した。心臓を蝕んでしまいそうな程の尋常ではない恐怖が、私たちをそうさせた。
それからというもの、私は時折、あの日奴に攻撃された際に脳内に流れてきた記憶のようなものが、なんの拍子もなく再生されるようになってしまった。
だが、これは不可思議なだけでなく純粋な疑問点も存在する。何せ、あの日奴に攻撃されたのは、私だけでなくロバーツとクラウスも同様だからだ。なのにも関わらず、彼らは私のように再生されるといった現象が起きていない。というよりも以前に、なんと二人は当時、ただ激痛だけが襲いかかってきただけで、私の言う記憶のようなものは一切知らないという。
なぜ私だけこのような目に合っているのか、謎は深まる一方だった。だが、だからといって、直接例の童顔男の調査に赴く訳にもいかなかった。何せ奴は魔術師だ。仮に違ったとしても、何か超越した異能力を持ち合わせている事は確かである。到底、私たちのような一般人では立ち向かえる相手ではなかった。
そんなこんなで、今も私はこの恐ろしい現象から逃れられずにいる。いつどこでまたあの謎の記憶が再生されるか分からないといった現状は、私を恐怖のどん底へと落下させた。そして日々蝕む恐怖のせいか、私の精神も衰弱の一途を辿っていた。
このようになって初めて、ロバーツとクラウスの存在のありがたみを実感した。もしも彼らがいなかったら、私は本当にひとりぼっちだった。そんな状態で、このような意味不明な現象に耐えられる訳がない。日々精神的に弱っていく私を案じ、支えてくれる彼らの存在は、今や実の親よりも頼りになる存在と化していた。
何より、私には、本気で困っている時に救いを求められるような親がいなかった。というよりも、親らしい親を持っていなかったのである。親という概念は人によってそれぞれ異なるものだろう。ここで私の言う親というものは、当たり前に子供を優先し、気にかけ、心配してくれるような、ごくごく一般的なイメージである。といっても、これが一般的なイメージと言われてもピンとこない者もいるだろう。が、それは一旦置いておく。
私たち三人は夜遅くまで喫茶店にいた。もうなるべく外には出たくなかったのだ。というのも、いつあの異能力者と遭遇するかわかったものではないからだ。その上、私はあの家に帰りたくなかった。
それは私の両隣で私の顔色を伺っている二人も同様なようだった。ようするに、私たち三人は、帰る場所のない哀れな子羊の群れなのである。このように、人間は、似たもの同士は自然と固まるようになっているのだから、よくできた生き物だと心底思う。所詮人間は、群れなくては生きていけない弱っちい生き物なのだ。
私は、そんな自嘲に存分に耽った後、喫茶店を後にした。慌てて後を着いてきたロバーツとクラウスが、どうせなら家まで送っていくと慌てふためきながらまくしたてたが、私はそれを断った。
帰路は、半分家の世界なのだ。そしてもう半分はもちろん、こうして外で彼らと馴れ合っている別の世界。私は、どんなに心臓が恐怖を訴えようと、嫌な気分になる家の世界へと、外の世界の人間を連れ込みたくはなかった。私にとって外の世界の人間は、嫌な空気の漂う家の世界へと来るべきではない、ある種特別な存在なのだ。
私は、心配そうにこちらを見つめる二人に背を向けると、早速歩を進めた。帰路に着くと、案の定父は義母とどこかへ出かけたきり帰って来ていなかった。これももう十分見慣れた光景だ。そうであるのに、私の胸中に、どこまでも空虚が浸透していった。
第5章が始まりました。この章では一気に謎が解けます。乞うご期待。




