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影の完全なる消失

 静かな夜のひととき。薄暗い雲に半分覆われた月が放つ月光は、仄かな灯りを夜の庭に灯してくれた。私は、もう慣れ親しんでしまったガーデンテーブルに上半身ごと突っ伏して瞑想に浸っていた。


 夜の庭での読書の間際にこうする事は、私の習慣になりかけていた。それはこの空間が私の癒しとなってくれているからにほかならない。程よい緑の多さに、静寂だけが満ちて雑音一つない、この空間。

 そんな居心地の良い場へと向かってくる足音を鼓膜がキャッチした。頭を上げ、静かに土を踏む音の方へと目線を配る。曇り空の下、人影がこちらへと歩み寄って来ていた。即座に、ルーカスだろうと思い至り、彼の名を呼ぼうとした。


 だが、次の瞬間には、私の口はそうする事を拒んだ。なぜなら、こちらへと迫りつつある人影は、ルーカスではなかったからだ。女性のようだった。背丈は私よりもやや高く、長い髪が風になびいていた。

 私は、驚愕のあまり、逃げるという信号が脳に伝達されないまま、その場に固まり接近してくる彼女の影を見上げる事しかできなかった。そして彼女の相貌が仄かな月光の元に晒された瞬間、私はさらなる驚愕により大きく息を飲んだ。

 私は彼女を知っている。いや、正確には知っていた。何せ、あれから一度きりしか会えないまま、こうして時が流れてしまったのだから。なのにも関わらず、彼女の方は一切歳を重ねていないように見えた。といっても所詮幼少の頃の記憶であり、さほどあてになる情報でもない。それでも、私は確かに彼女を覚えている。何より、彼女は私の初恋だったのかもしれない相手なのだから――。


「どうしたんだ? そんなにびっくりして」


 その声により我に返ると、先程まで彼女に見えていた人影は消え去り、その代わりとでもいうように、ルーカスが目の前で私を見下ろしていた。彼は、もしかして寝てるところを起こしちゃったのかな、なんて普段通りの調子で言いながら、私の向かい側に座った。

 私は、思考が上手くまとまらずに数秒間ぼうっとしていたが、すぐに寝ぼけていたのだろうと思った。それか夢うつつな状態であったのか。どちらにせよ、先程のことは深刻に考える程のものでは無いことは確かだ。故に、私は座ったきりずっとこちらを見ているルーカスに対して、ちょっと寝ぼけてただけだと答えた。


「そんな事より、ルーカスがこの時間帯にここに来るの、珍しいね」


 ルーカスは、基本的に夜は自室で過ごしている。私の憶測に過ぎないが、おそらくはキノコの描画や彫刻にでもかじりついているのだろう。実際、私がこの家に来たばかりの頃、夜に彼の部屋へ突撃しにいったら、スケッチブック一面に大小様々なキノコを描いていた。あの時の事はできるならばもう思い出したくなかったが、あのキノコたちの破壊力だけは、どうしても脳に焼き付いたきり離れてくれなかった。


「ああ、今日は久々に夜の外に出たくなってみたんだよ。それに、こういう時にしか言えない事だってあるしね」


 ルーカスは、伏せ目がちにそう口にした。

 私は、その改まった様子を不思議に思いながら、こういう時にしか言えない事について尋ねた。もしや彼の実家には、夜にしか言ってはいけないというルールがある言葉でもあるのだろうか、なんて馬鹿げた想像が脳裏に浮かんだ。そんな折、ルーカスは、相変わらず目を伏せながらも口を開いた。


「その、嬉しいんだ。なんて言うのかな、君に呼ばれると、どんなに嫌だった僕の名前も特別なもののように聞こえてくるんだ。だから……ありがとう」


 ちょうど雲が月を完全に覆い、ルーカスの表情が見えなくなった。

 私は、謎の感謝をされた事に僅かに驚きつつ、ルーカスの普段とは異なる様子にたじろいだ。


「いや、何もそんなに改まらなくたって……」


 その感謝に含まれている意味や心理もよく分からないが、何より、彼の普段とは違う態度に困惑していた。それは、彼のコンプレックスについてまるで理解がない故に生じる困惑かもしれない。そう考えた私は、彼の深い部分に入り込む決意をした。

 この時、彼の言っていた、こういう時にしか言えない事とやらの意味がわかった気がした。普段の日常生活では憚られるような事も、どこか異空間めいた夜の時間では、その感覚も麻痺してしまうものだった。

 私は、意を決してルーカスに、どうしてそこまで自分の名前が嫌いなのか、と尋ねた。その瞬間私は、胸に僅かな緊張が走るのを感じた。

 やはり、他者の閉じられた世界に入り込むという行為は、どんな異空間だろうと、背徳感を覚えるものだった。私自身、世界を閉じたまま数年間生きてきた分、余計にその重みが感じられた。


 ルーカスは、相変わらず暗闇に包まれたまま、語り出した。どうやら彼は生まれを祝福されない子供だったらしかった。それ故、実家では邪険に扱われ、幼少期は里親の元で暮らしていたという。

 だがある時を境にルーカスは実家へと戻され、案の定それからも実家の者たちからは軽蔑されてきたと。自分は愛された事が無かった、とまで彼は口にした。その為、自分と実家を繋ぎ止める要素である名前というものが大嫌いだったとの事だった。


 私は、それらの話に黙って耳を傾けていた。ルーカスの話を聞いて、確かに、と自分の中で納得がいった。それは名前の件だけでなく、ルーカスの境遇についてもだ。ルーカスは、私よりも歳上とはいえ、まだ若造だ。なのにも関わらず、こんなに立派な一軒家を預けられている。

 実家が相当な金持ちであろう事は彼の言動からも分かってはいたが、だからといってまるで別荘のような建物をまるまる一つ与えるものだろうか。その上、どうやら金を銀行に振り込むだけで、彼の家族からの手紙や連絡は何一つとして来たことがない。これではまるで、腫れ物を遠方に隔離しているようなものだ。実際、彼はその通りだったのだ。

 ルーカスは、変わらず悲しげに、けれど芯の通った声色で紡ぎ続けた。


「だから、僕はあいつらと同じ墓に入るなんてごめんだよ。もちろん、向こうがそれを拒んでくるだろうけどさ」


 そのルーカスの発言に、私は思った。私は死んだら、家族と同じ墓に埋葬されるのだろうか。といっても、母親の方は未だに死体が発見されているかも定かでは無い。となれば、父親くらいか。そこで、私の胸はざわりと嫌な感覚に撫でられた。父親とは、いったいなんだっただろうか。その瞬間、頭がズキリと痛んだ。

 ルーカスは、なおも語り続ける。雲は相変わらず、彼の表情を隠している。


「だから、そうだな――どうせなら、海の中で静かに眠っていたいな。誰にも知られずにね」


 ルーカスは、そう言うとしばらく黙りこくった。なので私がその静寂を破った。普段は余裕ありげなルーカスの、生に苦しむかのような語りを、どうにか茶化してやりたくて仕方なかったのだ。


「もしかして知らないの、ルーカス。そういうのって、いわゆる死亡フラグっていうんだよ。ホントにあんたって馬鹿だね。自分で自分のフラグたてちゃうなんて。ホントに死んでも知らないよ」


 そう言う私の声は普段よりも弾んでいるが、表情の方はそうではなかった。揺れる瞳と僅かに痙攣する瞼を抑える事ができない。それは、ルーカスがもし本当に死んだら、という想像により生じた苦しみか、はたまた、彼から漂う生への諦観の雰囲気により生じた悲しみによるものか。

 自分で口にしておいて、私は後悔した。彼が死ぬ等、縁起でもない事を言うんじゃなかった。両膝の上に置かれた両の拳に自然と力が入った。


 すると、それまで暗闇に包まれていた庭に光がさした。それまで月を覆っていた雲が流れて、月光を遮るものがなくなったのだ。それによりルーカスの表情をはっきりと認識する事ができた。たった今私に茶化された彼は、普段の調子を取り戻したのか、テーブルの上で腕を組み、困ったような笑みを浮かべていた。


「ごめん。なんか色々と変な事喋りすぎちゃった」


 私は、それに対して、「別に、ルーカスの事だし」と返した。まともな返事をする余裕が、今の私にはなかったのである。

 ルーカスは、そろそろ家の中に戻ると言い、チェアから立ち上がろうとした。その際、私に向かって言ったのだった。アンナももう大人なんだから、夜更かしはあんまりしすぎるんじゃないよ、ちゃんとした大人は早く寝るものだ、と。

 それはまるで説教じみていた。その反抗心からでもあったし、素直な心の一部を吐き出したいからでもあり、気づけば私は言い返していた。私は大人なんかじゃない、と。

 それに対してルーカスは、君ももう十六歳になるんだろう、ならもう大人の仲間入りだ、と飄々と答えた。私は、そのルーカスの発言がたまらなく嫌で仕方なかった。


「いやだ、大人になんてなりたくないよ!」


 私は俯いたまま、そう声を絞り出した。

 あのような汚れた連中と同じようになんてなりたくもなかった。そうだ、奴らは汚れているのだ、それもどうしようもなく。ニンゲンは大人になるにつれて堕落する生き物だ。煩悩、いわゆる性欲に抗えなくなるどうしようもない生き物なのだ。そのような破廉恥な在り方、知性ある生命体として恥ずかしくはないのだろうか。

 そう思った刹那、いつか見た幻覚を思い出した。それはルーカスが煩悩に打ち負け下卑た女共と戯れている、気持ちの悪い光景の事である。いくらカーヤにより見せられた幻覚とはいえ、あの姿は正真正銘ルーカスと同じものだったのだ。となれば嫌でも本物のルーカスと重ねてしまうというものだ。私は、襲い来る精神的苦痛に唇を噛んだ。


 そんな時、頭部に触れる感触がした。見れば、ルーカスが私の頭を撫でていた。私は悔しくも、その手を払い除ける事ができなかった。毎回こうして彼に頭を撫でられると、それまでどんなに不満を胸に溜めていようと、一瞬でどうでもよくなってしまうのだった。それがなぜかは分からないが、心地好いのは確かだった。それに、もっと私をこうして子供のように扱って欲しかった。

 ルーカスは、私が落ち着いたのを見かねてか、それまで撫でていた私の頭を掌でぽんぽんと軽く叩くと、口を開いた。


「そう思うのは君が大人になりつつある証拠だよ。だって子供は、そんなふうなこと考えないもの」


 それからルーカスは、おやすみと口にすると、庭を後にした。

 彼が完全に去った後、私の頬に冷たい涙が滑り落ちた。そして、先程の彼の言葉が脳内で反芻される事により、身動き一つできないでいた。やけに風が冷たく感じた。

次回から第5章が始まります。第5章は主に謎解きと解答編です。

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