表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: ちゅんぴ
第4歌 殺されてゆく私
44/90

4-8 優しさ

 私は当然ながらルーカスという同居人と会話を交わす事はなかった。私が知っているのはエドガーという人間であり、断じてルーカスという青年ではないからだ。


 それでも罪人なりの配慮だろう、一切口をきこうとしない私にルーカスという同居人は毎日三食食事を与えてくれるし(もちろん部屋の前に置く形で)、それと一緒に私が以前頼んでおいた朝刊も置いてくれた。

 よくよく考えてみれば、こんなに愛想のない居候をいつまでも置いておく等無意味にも程があるのでは無いのだろうか。そんなふうに思ったりもしたが、嘘をつき、これまで騙してきたのは向こうの方だ。ならばそれ相応の贖罪とやらをしてもらわなければならない。


 食事が与えられるのは良いものの、殆どの日がうまく喉に入らなかった。食欲のない日が殆どだった。その為残す事が多かった。残した時は通常通り食べ終わった時と同じように廊下に置いておいた。それが私とこの家の同居人の唯一のコミュニケーションだった。


 デスクの上に飾っていた、いつか彫らされた鳥の木彫も、ロッカーの中にしまった。視界に入る度にあの偽りだらけの日常を思い出してしまうからだ。あれだけ新しい風の吹いていた日々の記憶も、今となっては忘却の彼方におしやりたいものとなっていた。それはそうだろう。誰だって、裏切られていた時期の事などわざわざ思い出したくなんてないのだから。

 自室での読書も苦痛になる時があった。この家にいる限りこの精神的苦痛は続くのだろうかとも考えたが、今の私が衣食住を得られているのは奇跡にも等しいのだ。裏切られたからといって、簡単に手放せないのがまた私の精神を削っていった。


 自室にいるのが苦痛になった時は、窓から部屋を飛び出し林道を抜け、どうにか嫌な記憶の無い場所へと向かった。そこで高確率で向かうのがあの図書館だった。相変わらず世間では私の親殺しは表面化されていないが、念の為に本棚の近くにポツポツと置いてある椅子に座る事が多かった。特に辞典コーナーの椅子は、コーナーが辞典なのもあってなかなか人が来ないうえに、無数の本棚のちょうど死角にあたる位置だった。

 今日もそんなふうに図書館の辞典コーナー近くの椅子で読書していた。気分の悪さが完全に消える訳ではないが、あの忌まわしい家にいるよりもはるかに心が落ち着く。最近遅くなっていたページをめくる手も、以前の長子を取り戻してきた気がする。そんなふうに緩やかな心地に浸っている時だった。

 何やら入口の方が騒がしかった。どうやら子供の声らしかった。その声は徐々に奥の方まで近づいてきた。その時気がついた。この声はあの化け物の声だ――そう判断した瞬間、私の手からはそれまで読んでいた本がこぼれ落ちた。

 しかもその声は確かに私の名前を呼んでいた。私はおぞましさのあまり金縛りにあったように身動きができなくなった。


 どうしてこの場にいるのかも、なぜ未だに消えずに存在しているのかも、何もかもが理解不能だった。その不可解さが私の心臓を恐怖で凍らせた。

 お願いだ、どうか見つからないでくれ――そのような私の願いも虚しく、しばらくしないうちに視界の先に銀灰色の輝きが見えた。その輝きは身動きのできない私に向かって駆け寄ってくる。

 あれほど拒絶したというのに。あれほど罵倒し、存在を否定したというのに。それなのにどうしてあのまぼろしは、あんなに嬉しそうな表情を浮かべているのだ?


 そうして私は悟った。私ではもはや、あの怪物に勝てやしないのだと。カーヤという名を持つまぼろしは、今や創造主の私の手中におさまらない程の自我を身に付けているのだと。

 私はここから逃げられない現状を諦めた。だが、恐怖は確かに私の内側を侵食していった。春の陽射しのような笑顔が近づいてくるにつれ、私の思考は思考として機能するのをやめた。けれど恐怖という感情は次第に強くなっていく一方だった。股ら辺が妙に生暖かく感じた。

 カーヤが目の前にやってくるまでそう時間はかからなかった。カーヤは、普段の笑顔で、普段の口調で、普段の調子で私に抱きついた。今にも心臓が張り裂けそうだった。


「あれからもう会えないかと思ってたよ。でも、やっぱりあんなはわたしが好きなんだね。だってここでずっと待っててくれたもの」


 違う、待っていたのではなくてお前が怖くて動く事ができなかったのだ。そう口にしようとしたが、脳の伝達信号がうまく働いてくれずに実現する事はなかった。

 これが悪夢である事を願った。そうでなければこんな事は有り得ない。こんな現実離れした非科学的な出来事が、ある訳が無い。そう思うも同時に、私の脳裏を掠めるひとつの可能性があった。

 この恐怖に満ちた日々は、これまでの私への罰なのではないか。エマを見殺しにし、母を殺した事への、天罰。そう考えるのがしっくりときてしまう程には、私の精神は消耗しきっていた。だというのに、天はさらに私を追い詰めるようだった。


 本棚の向こうから駆け寄ってくる足音があった。そして棚の奥からのぞかせた顔を認識するなり、私は自分が死んでいくのを感じとった。なぜなら、こちらへ焦りながら駆け寄ってきたのはあの家の同居人の青年、ルーカスだったからだ。私は、未だにうまく口を動かせないままに、ルーカスの方へと視線をやった。

 すると彼は、私を見るなり驚愕の表情を浮かべ、カーヤを私から引き剥がした。私は僅かに楽になった。が、ルーカスまで来てしまった以上、これから私に待ち受けるのは果てしない地獄である事は確かだった。その事に一瞬楽になった気分は途端に重しを増していった。


 ルーカスは私の肩に手をやり軽く揺さぶった。彼の焦燥と驚愕しきった表情が、私には関係ないガラスの向こうのもののように映った。微動だにしない私に向かい、ルーカスは何度も私の名前を呼ぶ。だが、私はこの時殆ど解離状態だった。それ故返事をする事さえおろか、表情を変える事もできなかった。


 その為、私はルーカスのされるがままとなってしまった。ルーカスはカーヤに椅子元に落ちている本を取るよう言い、私を椅子から立ち上がらせると、何故か彼の上着を私の腰元に巻き付けた。ズボンの上にスカートを履いているようなスタイルに当然ながら違和感を覚えるが、抵抗できるような状態ではなかった。

 ルーカスは、放心状態の私を壁際に座らせると、何やらズボンのポケットから手ぬぐいを取り出したかと思うと、椅子を拭き始めた。見ると、先程まで私が座っていた椅子は、何故か液体でびしょ濡れだった。

 手ぬぐいだけではとても拭ききれないと判断したルーカスは、いったんここから離れると、すぐ近くの手洗い場からトイレットペーパーを持ってきて、それで拭いた。床にも滴っているらしく、床も念入りに拭いていた。それが終わると、水の染み込んだトイレットペーパーを捨てに行ったのか、またもやここを離れた。その間に通りかかった職員に、「どこか悪いのですか」と声を掛けられたが、ちょうど帰ってきたルーカスが何か職員に軽く話すと、職員はこの場を去った。


 ルーカスは、壁際に座り込む私に再度声をかける。だが、その声は水の中にいるようにくぐもって聞こえて、とても反応できたものではなかった。何より、この時の私は解離状態である為、まともな会話さえままならない。今の私の状況を察したのか、ルーカスは私を抱いて図書館を出た。

 おそらく今私がされているのは、以前家におくりとどけた事故の少女にしていたものと同じ、お姫様抱っこというものだろう。その隣をカーヤが歩いて着いてきていた。

 もう、恐怖心は無くなっていた。それを感じる心というものが今の私にはないも同然だったからだ。


 家に到着するなり、ルーカスは私を部屋へと運び、私の腰に巻いていた彼の上着を解き、服と下着を着替えるように言った。私がよく分からずにルーカスの顔を見あげると、ルーカスは困ったような表情をしてカーヤに目配せした。そしてルーカスはカーヤに何か言ったかと思うと、この部屋から出ていった。私はよく分からないままその場に崩れ落ちた。思考回路は相変わらず機能せず、どこかへ行った魂もいまだ戻ってこない。

 するとやけに上機嫌なカーヤが私の体を倒し、仰向けの状態にさせた。私は無抵抗なままなされるがままだった。カーヤは私のズボン、それから下着を脱がせると、新しいものに着け変えた。そして部屋の扉を開けてルーカスを呼んだ。

 ルーカスは、放置されている私が脱いだ(正確には脱がされた)ズボンと下着を回収すると部屋を出て、しばらくすると戻ってきた。慌ただしい人だなぁ、と私の頭の隅に朧気な信号が浮かんだ。


 戻ってくるなりルーカスは、私をベッドの上まで運んだ。そして水で冷やしたタオルで私の顔を優しく拭った。どうやら、自分でも気が付かないうちに大量に汗をかいていたらしい。そこまで現状を把握できるまでには現実世界へと戻ってきていた。

 次に浮かんだのは、どうしてこの人はこんなにまで私に気を使ってくれるのだろう、という当たり前の疑問点だった。先日あれ程侮蔑の言葉を投げつけたというのに、最近まともにコミュニケーションをはかっていないというのに、どうしてここまで親身になれるのだろうか。

 元から過保護な性格だと思ってはいたが、ここまでくるともはや不思議だった。あまりの不可解さに、気づけば私はひとりごとのように口に出していた。


「どうしてここまで、優しくなれるの」


 その漏出した私の疑問に、ルーカスは、手をとめずに答えた。


「それはアンナが大切だからだよ」


 平然とそう答えるルーカス。カーヤは、それを聞いて「わたしもあんな大切だよ、おんなじなんだから」と言った。もうこのカーヤのノリに抵抗を覚える事もなくなっていた。これを理解しようとしたところで無駄な事だからだ。


 私は、滲む汗に涙が紛れていくのがわかった。ルーカスは、それを涙と知ってか知らずか丁寧にタオルで拭き取ってくれた。もう汗は止まっていた。ならば今彼は涙と知って拭いてくれたのだろうか。そのようなくだらない事を考えていくうちに、自然と涙という涙が溢れて止まらなかった。

 いったい私はどうやって彼に……エドガーでもありルーカスでもある彼に、罪滅ぼしをすればよいのだろう。私は、いつの間にかそう考えていた。確かに名前を偽られていた事は裏切りであり、決して怒らずに済む問題ではなかった。けれどあそこまで言う必要はなかった。これまで意地を張ってひたすら交流を拒む事もなかった。なのにどうして私は、あそこまで彼を傷つけるような言動をしてしまったのだろう。


 思えばいつもそうだった。私はエマに対しても、ルーカスに対しても、自分の内側の衝動に任せて傷つけ、後からその事に気がつくのだ。自分のしでかした大きな過ちに、なぜその時に気がつく事ができなかったのか。私は、情けなさと虚しさで胸中がいっぱいになった。そして気がつけば彼に言っていた。


「ごめんなさい、ごめんなさいルーカス。あんなに怒った私が馬鹿だった。本当にごめんなさい」


 私は、自分でも自己中だと知りながら謝罪の言葉を繰り返した。たとえ言葉で謝ったとしても、それが本物であるかどうかは本人にしかわからない。だから態度で示していくしかないのだ。自分は心の底から反省している、そう相手に思って貰えるように。ルーカスは、それがわかっているから、私に謝った日からもこうしてずっと面倒を見てくれていた。なのに私は、その彼の心に気付こうともしなかった。本当に愚かにも程があった。

 私の謝罪に対して、ルーカスは普段通りの調子で言った。


「いいんだ、悪いのは僕の方なんだから。むしろありがとう、アンナの本音が聞けて嬉しいよ」

「ルーカス……」


 私は、ルーカスの優しい言葉に思わず彼の名を漏らしてしまった。すると、それに答えるようにルーカスは、私の頭を優しく撫でた。その慈しむような手つきは、初めての彫刻の練習を終えた時にされたものと似ていた。

 今の私は、あの時のように撫でられる事に対して恐怖のようなものを覚えることは無かった。むしろ、ぬくもりが身体中に流れ、染み渡っていった。その感覚があまりにも心地好くて、私は自分からルーカスの手に頭を押し付けた。

 するとルーカスは、その私の反応が気に入ったのか、頭を撫でながらもう片方の手で私の片頬を撫でた。私は気持ちよさのあまり、ゆっくりと瞼を閉じた。永遠にこの時間が続けばいいのに、と思った。だが、すぐにその願いは打ち消される事となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ