4-7 ルーカス
「カーヤ。悪いんだけど、しばらくこの部屋から出てくれないか。この家のどこにでも遊びに行っていいから」
「いいけど、どーして?」
「僕はアンナと大切な話があるんだ」
「そっか。大切なら、しかたないね。じゃあ、終わったらかくれんぼっていう遊び一緒にしてね!」
彼は、カーヤのお願いに対し短く「ああ」とだけ答えた。そしてカーヤは軽い足取りでこの部屋を後にした。
全身を刺すような静寂が部屋に満ちた。私は何も喋ろうという気が起きなかった。ただ、恐れていた時がとうとう来てしまった、そのような生きた心地のしない状態で、彼から言葉が発せられるのを待つことしかできないでいた。
それでも何故か、自分でも意外な程、この状況――あるいは現実――を受け入れているような気がした。それは、カーヤという摩訶不思議な存在が彼にも認識できているという事を知ってから、無意識に覚悟していた事なのかもしれない。
やがて、心身を苦痛で蝕む静寂は、終わりを告げた。彼は俯いたまま黙って膝から崩れ落ちた。そして恐る恐るといったふうに顔を上げ、ベッドの上の私を見た。彼の瞳は真っ直ぐに私を見据えていた。彼は、そこから溢れ出る涙を拭う事もせずに、嘆きにも近い謝罪を口にした。
「アンナ、すまない、すまなかった。僕は君にこれまで名前を偽っていた。――本当にごめん、お願いだ、許してくれ」
彼は、まるで死刑を前にした罪人のようにそう懇願した。
そんな彼の行動が、逃避しようとしていた私の精神を現実へと引き戻した。そうすると、先程まで真っ白だった私の中は、徐々に怒りの色を孕んでいった。それは紛れもなく、彼に裏切られたという虚しさや悲しみが混色して出来上がったものだった。故に、私は憎悪にも近い感情を含ませ、彼に問うた。
「……謝る前にまずあんたの本当の名前とやらを聞かせてよ」
湧き立つ憎悪を隠そうともしない私の鋭く冷ややかな声が、静かに部屋に響いた。
この時の私は、間違いなく目の前で惨めに許しを乞うこの男の精神を破壊してやりたいと思っていた。もう再生出来ない程にぐちゃぐちゃにして、荒廃した精神に蝕まれる彼の姿を吟味してやりたい衝動に駆られていた。
だらしなく顔面を涙で濡らす彼は、自分の間違いを指摘されるなり大きく息を吸い込んだ。そして、両腕でたどたどしく涙を拭ってから、あまりにも遅すぎる自己紹介をしたのだった。
「僕の本当の名前は、ルーカス。……姓はロイエンタール。ルーカス・ロイエンタールだ」
彼は――ルーカスという名の青年は、何故か姓名を口にする際に目線を下方向にずらしたが、すぐに私の方へと戻し、怯えを忍ばせた真剣な表情で、そう自分を騙った。
そして彼は震える瞳で再度謝罪を口にする。
「卑怯者だという事は自分でも分かっている。それでもどうか、これまでの僕の欺きを許して欲しい。お願いだ、アンナ。どうか……」
そう言うルーカスの両目からは今も止まらずに透明な涙が溢れ出している。どうやら本気で自分の行いを悔いているようだった。だが、私にとってはそのような事どうでもよいし、謝罪など所詮自己満足にすぎない。到底許してやる気にはなれなかった。
「理由は?」
私のその声は、氷のように冷たかった。が、胸の奥で渦巻く黒い感情を仄かに漂わせていた。
「え、」
目の前の人間は、唐突かつ短い問いに戸惑ったようだった。それでも構わずに私は畳み掛けた。
「だから、理由は? 名前なんかをいちいち偽ってた理由。何かあるはずでしょ」
呆気に取られる彼に、私は丁寧に質問し直してやった。
長い間嘘をつかれていた事実も有り得ないが、それよりももっと重要なのは、なぜそのような意味不明な選択をとったのかという事ではないのか。いったいどのような理由があれば、そのような無意味な事をするというのだ。
そこで、私の脳内に浮上したのは、下劣かつ悪質極まりない理由だった。
「まさか、最初は私を無理矢理にでも慰安婦にするつもりで、いざ逃げられて通報された時の為に偽名を利用してた、とか」
私は、冗談まじりに彼を侮辱してやった。あるいは、冗談ではなく本気で彼を攻撃しようという気があっての事かもしれなかった。自分でも今の自分の心緒は計り知れないが、どちらでもよかった。目の前のこの裏切り者を精神的に打ちのめす事さえできるならば、どんな下劣な言葉も吐いてやろうという気だった。
たった今侮蔑された男は愉快にもその言葉を本気で受け取ったらしく、怒るでもなく、むしろさらに焦り始めた。必死に頭を振り、稚拙な弁明をし始めた。
「違う、そんな事は断じてない! そんな事絶対に有り得ない、僕は、ただ――」
ルーカスはそう言いかけると、徐々に自信なさげに目線を落とし、なんとさらに顔を青くした。それはさながら、私の指摘を認めているようにも見て取れた。
私は、そのルーカスの反応に、自身の内側をがんじがらめにしていた違和感が不思議と解けていくのが分かった。胸中を蝕んでいた無駄なしこりが消失したような晴れやかな感覚に、私の気分はさらに良くなっていった。まるでこいつにおかしくされる前の懐かしい自分に戻ったような感覚だった。
そこで自然と思いついた。このままエドガー、ではなくルーカスとかいう奴をもう二度と正気には戻れないくらいに言葉で殺していくのはどうだろう。これは彼を廃人同然になるまで追い込むのに絶好の機会だ。そうして私に服従させ、当初の目的通りこの人間を擦り切れるまで――例え擦り切れて死のうとも――慰み物にしてやるのだ。
だが、そこで邪魔になってくるものがあった。それはこれまでの彼との記憶だった。紛い物かもしれないというのに、それがいまだに私の中で皮肉にも輝いているからこそ、私は二度目の攻撃をなかなか繰り出す事ができなかった。
私が歯痒い気分でシーツに左手の爪を立てているうちに、彼が先ほどの続きを発する為に口を開いた。
「――僕はただ、この自分の名前が嫌いなだけなんだ」
そのルーカスの声は、この世で最も惨めな人間を象徴するかのように、虚で弱々しかった。
先手を打たれた不満もあるだろうが、現在の私は彼の放つ言葉全てに憤慨するようになっていた。そんな私の腹の奥底からはドス黒い溶岩が流れ込んできた。その溶岩が沸騰するままに、私は彼に叫び散らした。私の中で荒れ狂う溶岩を一切残らず目の前の彼にぶちまけてやろうという心持ちで。
「名前なんかどうだっていいでしょ!? そんなくだらない理由でこれまで私を騙してきたってわけ!? あんたが名前についてどんな考えを持ってようが、私には関係のない事なんだよ! あんたのよくわからないコンプレックスを押し付けるんじゃないよ!! この裏切りもんがぁ!!」
気づけば私の頬にも彼と同じように水滴が滴っていた。その涙は怒りや悲しみが凝縮されて生成されたものだった。
そして私は内側の狂乱の勢いのままに、それまで右手に握りしめていたグラスをルーカスに向かって思い切り投げつけた。だが、私の手から放り出されたグラスは残念ながら目標に命中する事はなかった。目標スレスレのやや右の壁に当たり、鋭い音を響かせて砕け散った。私は、グラスのその不本意な結果や彼に対する増大しきった不満で、これまで以上にいたたまれない気持ちになり、半ば衝動的にベッドから降りた。そして、グラスの破片を被ったまま微動だにしない一人の人間を置いて、逃げるように部屋を後にした。
部屋を出てまず最初にしたのは、この家のどこかにいるであろうカーヤを探す事だった。居間やシャワールーム、それから庭を探しても見当たらない。そこで、最終候補だったエドガー……ルーカスの部屋へと、あの忌まわしい匂いのする部屋へと向かいざるを得なかった。
自分に巣食う雑念を払うようにその部屋の扉を勢いよく開けると、やはりカーヤの姿があった。銀色の幻想はベッドの上に寝転がっていた。彼女は部屋の入り口で立ちすくむ私に気がつくと、にっこりと幸せそうに微笑んだ。
「これ、るーかすの匂いがする。とってもいい匂い」
そう言いながらカーヤは彼のベッドにうずくまった。
「そういえばね、ままもこうゆうのの上で寝てたよ。そのときに、わたしはうまれなくされちゃったの。とっても痛くて怖かった」
またしても幻想は意味のわからない架空の母親の話をし始めたが、今の私はそんなくだらない話題に耳を傾ける気分ではない。故に、自然現象に遭遇した時のような心持ちで、返事をする事なくカーヤへと接近する。部屋に入ると彼の匂いがダイレクトに鼻腔をくすぐり、混沌とした感情が溢れ出す。その不愉快さに耐えながら、カーヤへと歩を進める。
「でもね、今はもうそんなことどうでもいいの。今のわたしには、るーかすもあんなもいるから」
カーヤが嬉しそうに言うが、それも無視した。答えるだけ無駄だった。
カーヤのすぐ目の前まで来ると、呑気に寝転がっている彼女を見下し問うた。
「なんであいつにまであんたが見えるの?」
それは何がなんでも明かしておきたい事だった。なぜ創造主である私だけでなく、赤の他人であるルーカスにまで認識可能なのか。はたまた、私がルーカスと強い接点を持った事によって連鎖的に生じた事なのか。
するとカーヤは、愛らしい相貌をきょとんと傾げた。
「あいつって、誰?」
彼女の無能ぶりにいつも以上に腹が立った。
「決まってるでしょ。ルーカスって奴だよ」
私は、あえてあいつを他人行儀にそう呼んだ。いや、実際はもう他人のようなものだし、これでも違和感はないだろう。なのになぜか、胸の奥が針で刺されるようにチクチクして痛かった。
「なんだ、るーかすのこと。そんなのふつうのことだよ。だって、るーかすとはつながってるから。あんなとはちょっと違う感じだけど」
「その繋がってるって、具体的にどういう意味なの。そもそもなんであんたはあいつとその繋がりってやつを持ててるの?」
カーヤは、数秒間上目遣いのまま当惑したように黙りこくった。おそらく、彼女の貧弱な語彙力では説明ができないのだろう。そう分かった瞬間、さらに怒りが爆発した。
「もうあんたもこりごりなんだよ! 役に立たない上にバカで意味不明でもううんざりだ。あんたの仕組みはもうどうでもいいから早くこの家から出て行け、そして二度と私に顔を見せるな!!」
私は叫んだ事によって乱れた呼吸を整えようと試みる。その間に、鈍感なカーヤが私の指図に口を挟んできやがった。
「そんなに怒らないでよ、あんな。わたしはあんなともるーかすともなかよしでいたい。ここに一緒にいたい。それは、やっぱりだめ?」
「ダメに決まってるだろ阿呆、いいからさっさとここからいなくなれ」
私は、我慢ならなくなりカーヤを無理やりベッドから引き剥がした。私は困惑するカーヤを羽交締めにしながら玄関まで運ぶ。その際、カーヤは「やだ、ずっとここにいたい、ここがいい」と喚いていた。カーヤの片腕を強く握り、開け放った玄関扉の向こうへと連れていく。庭を通過し、林道の入り口にまで連行してくると、カーヤの腕を掴んでいた手を離し、両手で思い切り林道の向こうへと背中を突き飛ばした。カーヤは、幻想のくせしてよろけてそのまま地面に倒れ伏した。その惨めな姿に背後から投げかける。
「もう今後一切私に近づかないで。ここにも来ないで。あいつにも会わないで。あんたには、あのぼろっちい建物で一人で過ごすのがお似合いだよ!」
カーヤは、倒れ伏したきり何も口にしなかった。それを降参の意として受け取った私は、すぐにその場を後にし、帰りたくもないルーカスの家へと戻った。
自室の扉を開けてみると、そこにすでにルーカスの姿はなかった。グラスの破片も見当たらなかった。おそらく奴が後片付けをしたのだろう。未だに軋む胸中を誤魔化すために適当に本を手に取った。その際、ふと疑問が浮かんだ。
どうしてカーヤは、創造主の私が拒絶しているのに消えないでいまだに存在しているのだろう。幻覚ならば、私が強い嫌悪感を抱いた時点で消失して然るべきではないのか。
そう思うも、すぐに自分に言い聞かせた。先ほどあんなに私自身の気持ちをぶつけてやったんだ、もう今となっては本当に消えてる頃合いかもしれない。
そんなふうに必死で心中でひとりごちるも、様々な不安感のようなものが私を平生ではいさせてくれなかった。それはもちろんカーヤの事でもあったし、これからのルーカスに対するものでもあった。だがそれら以上に私を苦しめるのは、やはりなんと言ってもエドガーという人物の消失と、彼の裏切りだった。




