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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: 一色空
第4歌 殺されてゆく私
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4-4 与えてくれた人

 エドガーと映画館へ行った翌日、普段以上に目覚めが良かった。どうやら、エドガーにおぶられて眠りこけてからそのままずっと夢の中にいたらしい。その証に、今朝起きた時刻はなんと午前三時だった。あまりの早起きぶりにかえって笑えてくる。といっても、眠りについた時刻を考えれば充分に睡眠時間をとった方だ。


 私はシャワーを浴びて部屋着に着替えると、上着を着て庭に出た。初冬の早朝は、冷たい風が吹いており、頭をスッキリさせるには丁度よすぎる寒さだった。私は、これまた質素な植物に囲まれたガーデンチェアに腰掛け、テーブルの上に両腕を置いた。薄暗いグレーの空に徐々に緋色がさしていく。できるならばそのグレーを侵しては欲しくなかった。何せ、その色は銀色に似ているのだから。

 緋色に占領されていくグレー色の空を眺めながら、私は今朝見た夢を思い出した。今日の夢はとても良い夢だった。これまで悪夢ざんまいだった私にとって、それは久しぶりに感動せざるを得ない事だった。もう目覚めてから幾分時間が経ってしまっているので、夢の内容は朧気になりつつある。だが、確かに鮮明に思い出せるものがあった。それはもちろん銀色の鳥だった。


 夢の中で私は、晴天の下に広がる草原で横たわっていた。すると、太陽を背に何かがこちらへやってくるのがわかった。太陽光の反射で見えなかったそれは、私のすぐ近くまでくるとその姿かたちを確認する事ができた。それはまさしく銀の鳥だった。

 銀灰色の美しい翼をはためかせ、宝石のような銀の瞳。それはいつも私の心の中にいる銀の鳥に酷似しており、ほとんど本物だろうという確信があった。夢の中の私は、あれ程憧れていた銀の鳥が自分の目の前に現れたというのにも関わらず、平然としていた。夢の中では、銀の鳥と接触できるのはごく当たり前であるかのような感覚だったのだ。

 自分の周囲を元気に飛ぶ一羽を見慣れた光景として眺めていると、摩訶不思議な現象が起こった。といっても、夢の中なのだからおかしい事もないのだろう。気がつけば私の周囲には、たくさんの銀の鳥が飛び交っていたのだ。銀の鳥との交流に慣れているらしい夢の中の私でも、それには新鮮な感覚を覚えていた。まるで初めて楽園を前にしたかのような非現実的な感動に胸がいっぱいになった。銀の鳥たちは、踊るように私の周囲を離れる事無く飛翔していた。それは私を祝福しているようにも見えた。


 夢の内容はここら辺しか覚えていない。銀の鳥からの祝福があまりに鮮烈で、それだけ忘れる事ができなかったのだ。そう、あれはまさしく祝福だ。銀の鳥から私への、精一杯のお祝い。根拠は無いが、私はそう信じていた。何より、私の胸中にいつからか生じたぬくもりが、そうである事を訴えている。このぬくもりは、何も今しがた発生したものでは無い。

 おそらく昨日からのものだろう。エドガーと劇場で映画を鑑賞した時、それからおぶられながら帰っている時に感じたものと、酷似している。このどちらもがエドガー関連なのが気に食わないが、今くらいはそのような雑念を忘れ、この暖かい感覚に身を委ねていたかった。


 まるでこれから私に幸福がふりかかるかのような、銀の鳥の祝福を、幾度も脳内で反芻する。どうか私の直感通りに、幸福が訪れる兆しである事を願う他なかった。

 実際、それを証明するかのようにここ数週間分の朝刊――エドガーに頼んでみたら渋々といった感じでとってくれるようになった――には私の身に覚えのある事件は一切記載されていない。それがあまりにも妙すぎると逆に気味の悪さを覚える自分がいたのも確かだった。母についての悪夢は何度も見たし、未だに逮捕される可能性に対する不安もあった。

 だが、最近の私はそのような恐怖事を忘れかけていた。それはおそらく、そんな事がどうでもよくなるくらいのものが、身近にあるからだろう。それに今朝の夢を思い返せばそれらの心配などただの杞憂にすぎないと感じた。なんと言っても銀の鳥は幸福の証。この血塗られた現状に良い変化が起こる事を信じてやまないのは、我ながら無理もない事だろう。


 居間へ戻ると、エドガーはもう起床しており、さっそく朝食をとっていた。エドガーは、私が起きている事に驚いたらしく、「おはよう、今日はいつにも増して早いね」と挨拶した。私もおはようと返す。するとエドガーは、そういえば昨日寝るの早かったもんね、と微笑んで言った。私は、胸の内がこそばゆく感じながらもうん、と頷いた。

 エドガーは大学へ行く前に、時間に余裕がある事から、少し話そうと提案してきた。私は立場的にそれを断る権利を有していないように思えたので、なんなく承諾した。エドガーが気になっているのは、どうやら昨日、事故で負傷した女の子を前にした時の私の様子らしい。「もちろん、話すのが嫌なら無理に話さなくてもいいよ」とエドガー。

 私は、そんな彼に逆に聞き返した。


「どうして気になるの?」

「あの時、僕は咄嗟の事だったから怒っちゃっただろ。そうしたらどうやらその後もずっとアンナは僕が怒ってると思ってたらしいじゃないか。その事が申し訳ないんだ。でも、正直なところやっぱり気になっちゃって。どうしてあの時アンナはあんなに怯えていたんだろうって」


 どうやら、私は怯えているように見えたらしい。実際、その通りなのだが、人にわかるまで表面に出ていたとなると気分はあまり良くなかった。沈黙を貫く私に、エドガーは焦ったのか、すぐさま取り繕った。


「いや、単なる好奇心って訳でもなくて。もしまたアンナが怖がるような場面に遭遇した時、どうすればいいのかなって」


 確かにエドガーの言い分は、私の身近な人間として当然な疑問だった。身内に特定の何かに強い恐怖を覚える者がいれば、何か助けになろうとするのが人間の善性というものだろう。私は、気分を損ねてしまったとでも思っているのだろうエドガーの不安を解消してやる為に、特別に答えてやった。


「……血。血が本当に無理なの」


 自分で思った以上に、深刻な声色になってしまった。これは演技ではなかった。なぜなら私はあの時本当に、血液が恐ろしくて立ちすくむことしかできなかったのだから。本来ならば他の生命体の血液は、私の魂が欲してたまらないものだが、人のいる場所では、その本能が抑えられなくなる懸念に駆られてしまう。

 故に私は、あの瞬間では自分の欲しいものを恐れたのだ。瞬間、母やエマに拒絶された時の記憶が流れ出し、私はターゲットの前にも関わらず、精神的な苦しみを吐き出す小さな声が漏出した。


「――本当に、無理」


 その私の声は、惨めなほど弱々しかった。

 もしもまたあの時のように目の前の人間……エドガーにまで拒まれてしまったら。私はせっかく手に入れた居場所を失う事となる。同時に、私の悲願の達成も。何より、もうこれ以上身近な人間に見捨てられたくなかった。ずきん、と頭痛が走る。それははたして精神の痛みを訴えるものなのか、それとも脳のある特殊な防衛本能なのかは、私自身にもわからなかった。


「そんなに、苦手だったのか」


 未だ頭痛が鳴り止まぬまま、エドガーの真剣な声を認識した。私はもう幾重もの苦しみでそれに応答する事ができなかった。それでもエドガーは、私の様子から尋常ではないトラウマがある事を察したのか、黙って私の頭を撫でてくれた。またこの感覚だ。何故か懐かしいと感じる奇妙な感覚。

 エドガーは、すぐ隣で「ごめん。僕はやっぱり何もわかっていなかった。今後はキミの心身の安全を何よりも優先するよ。本当に、悪かった」と悔恨の念を孕んだ声色で語った。私は、そのエドガーの厚意に付け入るという発想が浮かぶ余裕もなく、縋るようにエドガーの服の裾を片手で掴んでいた。それは私から離れて欲しくない意思の表れでもあった。


 エドガーは、私の事を心配しながらも家を出た。

 私はそれからしばらくの間ベッドの上で横になっていた。だが、そうすると混沌とした思考がダイレクトに響いてきて、かえって逆効果だった。それでもそうする以外に方法が思いつかなかった。何も考えない為にも、聞こえてくる時計の針の音に神経を集中させていた。


 長いようで短く感じる時間が過ぎ去ると、玄関の開く音が耳に届いた。エドガーが戻ってきたのだ。だが、それはおかしい。何故なら今日は大学帰りに用がある日だからだ。

 その用とは、以前彼が話していた、小さな女の子に本の読み方を教えるというヘンテコなものである。お人好しのすぎるエドガーは、特定の曜日に大学が終わった後、家に戻らずにそのまま女の子との約束の場所に向かっている。その場所は、大学からそう離れていない公園、と言っていたような気がする。

 私はあいにくその事に関してはよく知らなかった。彼が私の知らないところで何をしていようが私には関係がなければ興味もない。その為、自然とその事について話す機会が発生しないのである。


 呼吸がまた苦しくなった。おそらく、変な事を考えてしまったせいだろう。誰だって、興味もない物事に対して思考を巡らせるのは苦痛というものだ。そのせいで、やけに胸の奥がむかつきを訴えている。

 扉を叩く音が響いた。私は反射的に「どうぞ」と答えていた。この苦しみの中で、考える余裕など持ち合わせていなかった。扉の向こうから現れたエドガーは、ベッドに横になっている私に目をやるなり駆けつけてきた。


「やっぱり調子が悪いのか」


 エドガーは、私の額に手を添えて、熱の具合を確認した。すると私は何故だか急速に気が楽になった。


「熱はないみたいだけど、やっぱり昨日の疲れが溜まってるのかな」

「何で戻ってきたの」


 そんな事より、とセリフの初めにつけたかったが、疲弊のせいでうまく言葉が発せられなかった。


「そりゃアンナが心配だからだよ。今朝のあの調子を見てたら、とても放ってはおけないよ」


 そんな事言っておいて、大学には行ったくせに。そう心中で吐露する。すると、先ほど収まりかけたむかつきが再度熱を帯びた。再熱したそれは先ほどとは性質が違っているものの、エドガーに八つ当たりするには十分な苦痛となった。


「私なんかよりも、例の女の子と約束があるんでしょ。行ってあげればいいじゃん」


 私は、ぶっきらぼうに言い放った。


「でも、アンナがこんな調子なら行けないよ。あの子のところに一度行って今日は無理だって断ってくるよ」


 私は、どこまでも過保護なエドガーに腹が立つのと同時に泣きそうになった。そして泣くのを堪える勢いで、エドガーを否定する言葉をぶつけた。


「私の事はいいって言ってるでしょ、一人の方が落ち着くの。それに何であんたはそんなに私にこだわるの、ちょっとおかしいよ」


 その私の言葉は嘆きに近かったが、心中とは反転しているものだった。その事に私自身は無自覚なまま、エドガーを睨みつける。すると、エドガーはまるで大事なペットが無惨に殺された光景を目にしたかのように、表情も体も硬く固まった。その苦痛に堪えるかのような張り詰めた声で、彼は小さく「悪かった。安静にしてるんだよ」と言い残し、この場を後にした。

 私は、彼の気配が部屋から無くなると、一気に身体中の力がなくなっていった。彼が家を出ていく音がやけに大きく耳の中に響いた。


 エドガーが家を出てからしばらくすると、私の内側をじわりじわりと侵食していくものがあった。やがて心臓にまで辿り着いたそれは、私を激しい虚しさで満たした。まるで自分の価値を自ら貶めてしまったかのような後悔に、私の頭はさらに平生さを失った。


 どうしてあんな事を言ってしまったのだろう。


 やけに冷たい涙が頬を流れた。自然と私はエドガーに嫌われる事を恐れた。それは冷静に考えてみれば当然の事だろう。何せ、彼の反感を買ってしまえば、奇跡的に手に入れた安全地帯を失ってしまうのだから。その安全地帯というのは、もちろん隠れ住む家という意味もあるし、精神的に安らぐ居場所という意味も持っていた。

 彼は私に与えてくれたのだ。私に必要だったものを。それなのにも関わらず、私は、私を案じてくれる彼に酷い言葉を放ってしまった。明らかにあの態度はいけなかった。その上、完全に私が悪かったのにも関わらず、彼はさも当然のように謝罪の言葉を口にした。それはどう考えてもおかしいことだ。本来謝るべきなのは私なのに。


 私は、あまりの苦しみにシーツで顔を覆う。とにかく何かに縋りたくて仕方がなかった。シーツは瞬く間に涙でぬれ、部屋には私の嗚咽が充満した。込み上げてくる感情に弄ばれるままに私は泣き続けた。

 感情を吐き出すように泣いて涙が出なくなると、私の頭はいくらか平生を取り戻していた。それ故に、私の願望への問題も把握する事ができた。

 本当は、今すぐにでも謝罪しに行きたかった。だが、今彼の所へ行ったところで、邪魔になるだけだ。そうしたら余計に嫌われてしまうかもしれない。それでも、今この瞬間にも彼に見切りをつけられていたらどうしようと焦燥を募らせる自分がいるのも事実である。

 それに、いち早く私の本音を伝えたかった。本当はあんたの事を鬱陶しく思ってなどいなかったのだ、むしろ嬉しかったのだと。


 私は極度の人間嫌いだ。それも例外な存在だと思っていたエマ・アムゼルによる裏切りによってそれはさらに加速した。この世の多くの人間は、社会での自分の居場所の為に嘘をつき、時には人を傷つける行為に及ぶ事もある。

 そのクセ流行りものばかりを話題にし、それ以前にあったものを過ぎ去った代物としてしか認識しない。そして何よりも腹が立つのが、むやみやたらに自分を虚構の言葉や豪華なファッションで飾り付け、他人に認められようと必死になる事だった。人間はどれほど文明を築きあげようと結局は自然の一部にすぎない。ならば、ありのままの自然体で存在する事が違和感の無い在り方ではないのだろうか。

 だが、エドガーは、それらの疑問に当てはまらない存在のように思えた。彼はしばしば浮かれ、良い人ぶるような言葉を吐く事はあれど、他の人間に比べて自然のままに生きる者そのもののように見えた。社会的功績や名誉に拘らず、金をたくさん持っているのにも関わらずそれをむやみに使おうとしない――そもそもそれ自体に興味がないのだろう。

 その上、潔癖でありどこか世捨て人めいた雰囲気は、まるで私の肉体が透明になったかのように、するりと私の中に違和感なく入ってくるのだった。それは他者と一体化しているような心地良さがあった。


 勝手に頭がエドガーについて回顧していく内に、私の内側はさらに衝動を訴えた。

 そして私はその魂の訴えのままにベッドから起き上がり、未だ体内を燃え上がらせる切ない熱や不安と共にそのまま家を後にした。

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