4-3 それでもあなたは
エドガーも私も、あの映画についての感想は口にしなかった。エドガーの方はなぜだかはわからないが、私に至っては口にする事がどうしても嫌だったからだ。エドガーは、せっかく鑑賞したにも関わらず、一切映画について話さない私に疑問を投げかける事はなく、むしろ普段よりも言葉や所作の端端に優しさが垣間見えた。おそらく、彼は私が劇場で泣いていた事を知っているのだろう。あえてその事に触れないエドガーの気遣いは、かえって私をいたたまれない心地にさせた。敗者の感覚をまざまざと突きつけてくるこの男を、泣かせてやりたい気分になったのは一度や二度ではない。
だが、時間が経つにつれてそれは薄まっていった。奇妙なぬくもりが悔しさを侵食したのだ。それは私の意思でどうこうできる問題ではなかった。自然に発生し、自然に私の中を流れていった。当然ながらそれに動揺しない訳はなく、私はエドガーの事を極力見ないようにした。なぜなら彼を視界に入れると、嫌でも自分の気づきを自覚させられるからだ。
憑き物がとれたようであり、同時にまるで心身共に火照っているようにも感じた。そしてその火照りは、もうくだらない意地は捨ててもいいのではないか――そう私にいい聞かせているようだった。なにしろ、私は探し物を見つけたのだ。この数年間もの長い間探し求めていたものを、たった今、自分の中に。しばらくこの暖かさに浸っていたくて、目の前で食事するエドガーの事などそっちのけで、庭でくつろいでいるカンガルーの親子をただぼうっと見つめていた。
すると、エドガーの声が鼓膜に響いた。
「あんまり食べてないけどいいの、アンナ。おかわりなりデザートなり注文して良いよ」
「ううん、いい。今はこれでいいの」
ここがレストランのテラスである事を忘れてしまう程の心地よさに、私はそっと瞼を閉じた。このまま眠ってしまいそうだった。それくらいに麻痺している今だからこそ、このような事をエドガーに質問する事ができてしまったのだろう。
「ねぇ、エドガーは今、暖かい?」
私は、半ばまどろみながらそう尋ねた。変な事を聞いてしまった自覚はあるが、それを咎める私は今はどこにもいなかった。
エドガーは私の質問に対して数秒間無言でいたが、しばらくすると、口を開いた。
「うん。あたたかいよ。……カンガルーの親子が、可愛いからかな」
そのエドガーの声は最初の方こそ爽やかだったが、その自信の有り様は徐々に萎むように固く控えめなものになっていった。私は、そのエドガーの様子を僅かに不思議に思いながらも、言った。
「そっか。エドガーも、暖かいんだ」
そう言う私の声は満足げだった。
それきり私達の間に会話は無かった。そこに気まづさは微塵も感じなかった。エドガーからも、嫌な空気を感じ取る事はなかった。もしかしたら、彼は私が眠ってしまったのだと思ったのかもしれない、とも思った。そのまま私は、暖かい感覚に身を委ねていた。この間だけは、こうしていたかったのだ。
エドガーの食事が終わり、軽く休憩した後にレストランを出ると、まるで夢から覚めて現実に戻ってきたかのように、私は急に莫大な羞恥心に襲われた。
何と私は、自分の無防備な姿を他人に晒してしまったのだ。しかもよりにもよってエドガーという人間に。自分の自然を他人に見せるという事は、あってはならない事だった。何より私という人間は、自分の世界を守る事でこれまで自分を護ってきたのだ――それはもちろん、母にもエマにも。
だが、これまでの自己防衛も簡単に崩壊してしまった。ほんの短い時間ではあるが、よりにもよってこれから手篭めにしようと企んでいる相手を自分の中に招待してしまった。私は、これでまた一つ後の獲物エドガーに弱点を晒してしまった事となる。それでこちらの不利が大きくなる事はあまりないかとは思うが、私のプライドがそれを許しはしなかった。何せ私は、つい先程エドガーに大敗北したばかりなのだ。その敗北を認めるかのようなエドガーへの態度といったら、我ながら気味悪い事この上ない。
だが同時に仕方が無い事のようにも思えた。何故ならば、私はエドガーと共に映画鑑賞する事によって、確かに手応えを覚えたからだ。それはまさしく私のもう一つの本能を照らす道標のように思えてならなかった。だが、ある問題も生じた。自分という人間が何を考え、何を思っているのかがてんでわからなくなったのである。何しろ、これまでに幾度か私を焦がした電流が強烈に流れ、そして、これまでそれを感じる度に恐怖を覚えていたにも関わらず、今回はむしろ歓喜と安寧に翻弄されていたのだから。
考えれば考える程、意味不明だった。このような意味不明な現象が発生してしまったのだ、このような状況下で相手を手玉に取るなんて、無理難題にも程があるというものだ。
そう屈辱に耐えるが、先程から私を包んでいるぬくもりまでをも誤魔化す事はかなわなかった。それが悔しくて私は再度泣きそうになった。自分で自分を信じられないし、信じたくもない。このような醜態、まるで私は彼に心を許してしまっているようではないか。それでも楽になりたいと願う自分がいるのも確かだった。そこで通常の私が疑問を投げかける。楽になる、とはいったいどのような事なのか、と。
そこで私はそんな自問自答に対して、素早く答えを導きだす事ができた。楽になるとはすなわち、呪縛からの解放である。血液への渇望を無理やり抑え込むこの状態から解放される瞬間を、何度夢に見た事だろう。その魂の雄叫びを呼び覚ますなり、私の脳は普段のようにスムーズに働くようになってくれた。そう、こうなってしまった以上、私は一刻も早くエドガーをモノにしなくてはならない。食われる前に食うのは捕食者になる為の最低限の条件と言えよう。私は断じて、利用される側の人間になどまわりたくはない。
私がこんなふうに熟考している間、エドガーは無言で隣を歩いていた――まるでそれが当たり前であるかのように。基本的に二人で外を歩く際は、お互い無言である事が多かった。なにゆえ、私だけでなくエドガーもその方が落ち着く性分らしかった。会話といえば、たまにエドガーから気まぐれに話題を振り掛けられるくらいである。そして私はそれにできるだけ丁寧に相手してやっている。
おそらくエドガーには、そんな大人しい私が従順な犬のように映っている事だろう。そのようなボケたエドガーに対して私はこう見下してやる。――その油断がまさにお前の身を滅ぼすのだ。
しかしどうやら、油断していたのは私も同じだったらしかった。まさか、このようなタイミングで私の本能を焚き付ける光景がやってくるなど、思いもしていない事だった。
それは束の間の出来事だった。すぐ近くで激しい衝撃音が響いた。見れば、車と自転車が衝突事故を起こしているようだった。私もエドガーも呆然としてそれを見ていると、車はさっさとどこかへ逃げていってしまった。世に言う轢き逃げというやつである。
硬直していたエドガーは、それから一瞬の後、まるでスイッチの入ったロボットのようにいきなり動き出した。彼が走り寄るのは、車と衝突した事で自転車から転げ落ちた女の子の元だった。
見る限り命に別状はないらしい。それでも、私には刺激の強い光景である事に変わりはなかった。自転車から跳ね飛ばされるように転落し泣いている小学生くらいの女の子。転落した際にアスファルトに派手に打ち付けたのだろう、その女の子の手脚は皮がズル向けで、赤い肉が見えていた。その肉の部分からじわりじわりと赤い汁が滲み、瞬く間に朱色の部分は真紅色に染まった。そして赤い汁は傷口から滴り、アスファルトまでをも侵していった。
エドガーは泣き喚く女の子の傷をハンカチで拭くなり、背中を撫でるなりしてどうにかこの現状を変えようと試みているようだった。対して私は、何もできずにただ離れて突っ立っている事しかできなかった。エドガーは、私が来ないことに気がついたのか、急いでこちらを振り返った。その彼の表情は明らかに怒っていた。
「見てないでアンナもこっち来てくれ! この子の傷、並じゃないんだよ」
私はそれに恐る恐るかぶりを振った。今あちらに向かうのは、どう考えても危険な事だった。どうにかあちらへ行けない訳をエドガーに説明しようとするも、何故か喉元から声が出なかった。その原因はおそらく、今この瞬間、私の中を這い回る恐怖心によるせいだろう。
私の脳は強制的におぞましい光景の数々を思い出させた。出血する青白いエマ、額から血を流す目に光の無い母。そして何より、自分自身に負けてエマを貪ろうとしてしまったあの日の顛末。あの日のエマの嫌悪と軽蔑の入り交じった瞳が空中に浮かび上がった。そして瞬く間にその瞳はエドガーのものとなった。私の心臓は急速に凍りつき、鎖でがんじがらめにされているような重苦しさがのしかかってきた。私が微塵も動けないでいると、エドガーの姿をした白昼夢は、心底から私を気味悪がる表情を崩さないまま空中に消失していった。
いつまでも反応を示さない私に呆れたのか、エドガーは、催促をやめて私にある事を頼んだ。
「僕がこの子をこの子の家まで運んでいくから、アンナはこの子の自転車をひいてついてきてくれないかな。この子、携帯も持ってないらしいし、幸いにも家はここから近いらしい」
「……救急車を呼べばいいんじゃないの?」
震える声を精一杯律して私はエドガーに疑問を投げかけた。
「それがこの子、家の連絡先を知らないらしいんだ。だからお願いだ。一刻でも早くこの子を家に戻してあげないと」
――嫌だ。
「わかった」
私の本心とは真反対の言葉で答えた。あの少女の負傷具合が心配にならないという訳ではないのだが、どうしても私の足をあちらへ進ませない抑止力が全身に流れていた。
嫌だ。嫌だった。あれらの事を思い出すのも、エドガーにまで嫌われてしまうのも、全てが嫌でたまらなかった。それでも、こうして立ち竦んだままの状態でいてもエドガーに不信感を与えてしまうだろう。故に私は、重しをつけられたかのように重い体を、エドガーに嫌われたくない一心で何とか動かした。全身が避けるような苦痛と共に少女の方へと向かう。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。見たくない見たくない見たくない見たくない。魂が発するそれらの叫びを押し殺すのは、尋常ではない痛みを伴った。
私は傷だらけの少女を極力見ないようにし、少女の自転車のサドルを握った。可愛らしい薄桃色に凹みやキズがはしっていた。少女は、この自転車をいったいどれくらい大切にしていたのだろう。そう思うと、他人事ながら切なくなった。それは少女への同情からなのか、はたまた汚れてしまったこの自転車に自己投影して発生した感情なのかは、わからなかった。
エドガーは少女を抱え――いわゆるお姫様抱っこというやつだ――、少女の力無い声の指示に従って、住宅街を歩いた。私はその一歩後ろから少女の自転車を押しながら着いていった。その道中ずっと何か不快なものが私の胸中を乱していた。少女への欲情の可能性は、こうして視界に入らないように後方から着いていくことで、抹消されているにも等しい。だが、どうもそれとは関係がなさそうな原因から、私の心は不満を訴えた。それは目の前のエドガーの後ろ姿を見る度に段々と増していった。
少女と自転車を無事自宅まで送り届けると、玄関から出てきた彼女の母親は瞳を涙で潤ませて、エドガーと私に感謝の言葉を口にした。少女は母親に抱き抱えられるなり、声を出して大泣きし始めた。そんな少女を母親は、もう大丈夫だからね、と慰めながら頭を撫で始める。エドガーは軽い挨拶を口にするとその場を後にしようとしたが、母親はそんな彼の後ろ姿に再度礼を言った。私はその光景を呆然と眺めていた。
いったい今自分が見せられているものが何なのか、てんで理解が追いつかなかったのだ。その為、私は自分が押してきた少女の自転車の存在を忘れてしまっていた。少女の母親は、そんな私を諭すかのように、「自転車はバックヤードに置いておいてください。今日は本当にありがとうございました」と言った。私はろくな返事もできないまま言われた通りに自転車を置いた。その時にはもうあの親子の姿は見えなくなっていた。母親は、少女の傷の事もあって急いでいたのだろう。私の頭の奥では、傷ついた娘を慰める母親の姿が再生され続けていた。
エドガーは、あの親子宅から一軒程離れた場所で私を待っていた。怒り心頭で待機するでもなく、焦点の合っていなさそうな瞳で虚空を見つめていた――というよりも、今この時の私の目には彼がそう映っただけの事である。実際の彼はそのような伽藍堂な調子なんかではなく、ただ夕暮れに染まる空を暇つぶしに眺めていただけにすぎないのだろう。なぜ自分がエドガーを空虚な存在に感じたのかは理解できなかったし、何より無意識での事だった。
私は、怒られるのではないかと不安に駆られながらエドガーの横顔に声をかける。「全部済んだよ、帰ろう」と、不安を気取られないよう気を張って口に出した。するとエドガーは、そんな私の不安を帳消しにする自然な風で、こちらに向き直り「うん。お疲れ様」と柔らかい口調で答えてきた。私はエドガーのその態度に少しだけ動揺した。てっきり、負傷した小さい女の子の救出に後ろ向きな姿勢でいた私に対して、怒っているかと思っていたからだ。
だが、瞬時に違った不安が私に降り注いだ。怒るという行為は相手に期待を寄せているからこそ生じるものであり、逆に言えば、何も期待していないどうでも良い相手にならば怒りというエネルギーは生じないのだ。それに、心の中で失望している相手には適当に優しいフリをしておけばよいと考えているのが大半の人間だ。ならば、今の彼の中の私の評価が、信用するに値しない人間にまで低下している可能性がある。そう考えると心臓がとてつもない恐怖に脈打った。
「アンナ、やっぱりまだ調子悪いのか?」
そのエドガーの呼びかけにより、私は我に帰った。急いで私の口から出た言葉は、「なんでもない」と自分の本心を隠そうとする言葉だけだった。
「いやでも、さっきからぼーっとしてるし、顔色も悪いままだ。というよりもむしろ悪化してるように見えるよ」
エドガーの案ずる声が嫌に鬱陶しく感じた。まるで心底から私を心配しているようなエドガーの態度が、私を不快にさせたのだった。芝居を見せつけられたところで余計苦しくなるだけなのだ。「別にいいよ、そんな心配してるフリしなくたって」本当はそう言ってやりたかった。だが、私の口から実際に察せられたのは異なる言葉だった。
「……怒って、ないんだ」
まるで私の声は相手を試そうとしているかのような、微妙な圧力に満ちていた。
エドガーは、それを聞いただけでこちらの意図を察したのか、黙って僅かに眉根を寄せた。
「まさか君は、そんな事だけで僕が怒っていると思ってたのかい」
エドガーの声は真剣だった。私は、そんな彼の気迫に負けないように、今にでも涙をこぼしてしまいそうな自分を叱咤しながら、俯きがちに口を開いた。
「そんな事って、どんな事」
するとエドガーは、すかさず反撃してきた。
「君があの女の子に近づこうとしなかった事。でも、何かしら事情があるんだろ。あの子の事を心配していなかった訳ではない事は、流石に僕にもわかるつもりだよ。だってそうじゃなかったら、今君はこうして負い目を感じていないはずだ」
私は、エドガーの指摘に面食らった。彼に温厚な面がある事は知っていたが、それをこう論理的に証明されると反撃のしようがない。とすると、エドガーは、私に対して不信感を覚えていないという事か。私は、急速に解けていく緊張から、思わず声が上擦ってしまった。
「そう……」
それしか言えない自分が悔しかった。何せ、エドガーは、手玉に取るには並大抵の相手ではないという事を突き付けられてしまったのだから。だが、だからといって諦めるつもりは毛頭なかった。私は、相手との信頼関係を壊さない為にも、一応謝罪の言葉を口にする事にした。
「ごめん、うまくできなくて」
自分で言っておいて、なんだかよくわからないセリフだ。計算のつもりでいったはずが、実際に口から出てきた言葉はなぜか考えてもいなかったものだったのだから。これは、私がこの時思考を捨て、自らの自然に身を委ねた事を意味する。だが、その自然とやらがいったい何であるのかは、見当がつかなかった。
エドガーは、そんなふうに縮こまる無様な私に対して、またも仕掛けてきた。
「いいんだよ、そんな事気にしなくて。第一、僕も言えるようなたちじゃないし。……どうする、今日は家まで僕がおぶっていこうか?」
エドガーは、一瞬間を開けてとんでもない提案をしてきた。
「いや、自分で歩ける。それに私重いからあんたじゃおぶれないよ!」
私は、咄嗟にそう拒否していた。何故だか尋常ではない羞恥心が襲ってきたのだ。だが、完全に浮かれ切っているのか、エドガーは自信ありげに「それなら大丈夫。アンナと初めて会った時におぶって帰ったけど、びっくりするくらい軽かったから」と言ってきた。
エドガーからしてみればなんて事はないセリフなのだろうが、小柄な体躯がコンプレックスな私にとっては侮辱されているも等しい。そんなふうに複雑な心緒に支配されているうちに、私はエドガーの背中の上にのせられていた。そのまま抵抗する猶予もなく、おぶられる事となってしまった。
「今日は疲れただろう」
それだけ言うと、エドガーは歩き始めた。私はもう諦めてこのままおぶられる事にした。その方が彼とより一層距離を縮められるだろう、そして完全に油断した彼をどんどん私の世界へと引きづり込んでやるのだ、無論慰み物として―――普段の私ならばそう考えていただろう。だが、今日この瞬間は違っていた。単に、自分が今までどれだけ疲弊を溜め込んでいたのかがわかったのである。こうして一度楽な状態になってみると、それまで気がついていなかった疲れがどっと押し寄せてきたのだ。
エドガーなりの配慮なのか、彼は労いの言葉をかけてきたきり一度も口を開かなかった。夜の闇に染まりつつある夕暮れ時の空の下を、ただ無言で歩いていた。それはとても心地の良い時間だった。私は、いつの間にか安寧の眠りについていた。
この時だけは、残酷な現実や自分の犯したこれまでの罪、それらを全て忘れる事を世界が許してくれているようだった。例えそれが、いつかは清算しなくてはならない重大な代物であったとしても。




