4-2 映画館にて
憂鬱だ。憂鬱だ。憂鬱だ。憂鬱という言葉が脳内を飛び交うのはいったいこれで何度目だろう。
原因はもちろんエドガーにあった。しかもその元凶はしたり顔で私のすぐ隣を歩いているのだから余計気分が滅入った。だが、話しかけられない分いくらかマシだった。というのは、私は事前にエドガーに自分の性質について報告していたのだ。この性質というのは血液への渇望の事ではない。というかその事を打ち明けてしまったら本末転倒である。
私が彼に事前に言っておいた性質というのは、人混みが大の苦手というさして珍しくない部分だ。人間に対して生理的嫌悪感を覚えるとまでは打ち明けていないが、これまでの私の引きこもり具合から、私のそういう部分をなんとなく察していただろうエドガーは、すんなりと受け入れてくれた。
かくいうエドガーも私に似たような性質である事は見当がついていた。世間話をあまりしないところや、友人の存在を全く感じさせない私生活に、時折見せる厭世観に暮れる瞳。そんな彼に抱かせる印象は世捨て人に近かった。
にも関わらず、エドガーは青春を求めている! しかも私に対してだ。相手は誰でも良いのかもしれないが、そう考えるとそれはそれで腹が立つというものだ。こちらは日々世話になっているものの、その対価として、手に入らなかった青春を取り戻すが為に私を利用するのは、お門違いではなかろうか。何より、エドガー自身が口にしていた事だ。衣食住の確保の為に自分の身を売るなんて許さない、いつかそんなふうに説教された記憶は未だ鮮烈に焼き付いている。
エドガーは基本的に潔癖な人間なのだ。それなのに、なぜこうも浮かれる事が多いのか、私には到底理解不能だった。だからこそ、二人きりで街に出掛ける時の気の重さといったら尋常ではない。
「疲れてるみたいだけど、少し休もうか?」
エドガーが私の顔を覗き込み、そう提案した。私は、その気遣いに対し、首を横に振って返した。一刻でも早く目的地に到着して、今日のエドガー任務を達成し、家に戻りたかった。
「そっか。でも気分が悪いのは本当なんだろう? さっきから一言も喋ってないじゃないか。映画館に着いたら、ゆっくり休憩しよう。幸い、もうすぐ着くしね」
私は、頭痛のせいでうん、とも返事をする事がかなわず、とりあえず頭を縦に振った。
気づけばエドガーの腕に肩を抱かれ、私の体は支えられていた。密着される事でさらに気分が悪くなる一方だったが、浮かれモードのエドガーはその事にどうやら気づいていないらしい。なんとも憎たらしい奴だ。
そんなこんなで目的地である映画館に到着した。エドガーから街に出かけようと誘いがあった後、改めて二人でどこへ行くか話し合った結果、結局彼の提案通りに映画館となった。遊園地は人が多くて論外、商店街は以前に行った、となれば、他に候補に上がるのは旧市街地だった。そして私の人混みへの生理的嫌悪感を考慮すると、旧市街の第一区にある映画館が無難という結論に至った。ここの素朴な外観を持つミニシアターは、まるで木陰に潜む鳥類のようにひっそりと静かに佇んでいる。その閑散とした空気は、ネオンで無駄に飾ったような大きな映画館と比べて安心感があった。何より、人があまりいない。営業側としては不都合だろうが、私という客人としては嬉しい事だった。
エドガーがチケット売り場で大人用のチケットを二枚買うと、まだ上映まで時間がだいぶあった。なので私たちは奥にある待合室の小さなテーブルに腰掛けて休憩する事にした。エドガーは水をとりに席を外した。
見渡すと、私たちの他に、二組の客が休憩していた。一組は高齢の男女で、もう一組はそれなりに歳のいった女性同士だった。双方とも素朴な外見で、いかにもここの小さなシアターが似合う雰囲気だった。そのおかげでここは居心地が良かった。以前エドガーと街に出向いた際は、カップルや夫婦で賑わっており、それ故自分とエドガーの組み合わせもそういったカテゴリーに分類されているような不快感があったのだ――むろん、あの日の様子からしてエドガーは男女のデートのつもりだったと思われるが。それに反してここは、自然体である事が許されるような空気に満ちている。
「調子はどうだ? 水でも飲んで気分転換しよう」
エドガーは、コップ一杯分の水を私の前に置くと、彼自身の前にも置いて椅子に座った。
私は、水を一口飲んだ。たったそれだけで、それまでの頭痛が少し引いていった。それはここの雰囲気のおかげでもあるかもしれない、とも思った。とにかく、先ほどよりも断然気が楽になったのは確かだった。気づけばエドガーへのプレッシャーもだいぶ減っていた。
「さっきより断然楽になった。ここの雰囲気がいいのかも」
私はついそう口走っていた。この場所にはどうやらどんな人間も自然体にさせてしまう力があるらしい。不思議な事に、本当の自分をエドガーにさらしても悔しい気分には襲われなかった。
「そうか、それなら良かった。僕もここは気に入ってる場所の一つだから、そう言ってもらえて嬉しいよ」
エドガーは、コップを口に持っていく訳でもなく、なぜか両手の指でコップを撫でるような仕草をしながらそう言った。私は心の中で、別にお前の為に言った訳ではないんだけどな……相変わらずおめでたいやつめ、と普段より柔らかく嘲笑した。
「そういえば、これから観るのってどんな映画なの?」
私は純粋な疑問を投げかけた。鑑賞する映画は話し合いの際に、エドガーの好きなように決めて良いと半ば投げやりに頼んだのだ。なにぶん、私は読書の他にも映画鑑賞も嗜んでいた人間だ。ここで奴の作品選びのセンスを試してやりたかった。
「LENONっていう作品なんだ。これは少し前に初公開された作品で、今回は何度目かの再上映なんだ。とても有名な作品だよ。ネタバレなしで教えるとなると、うーん難しいな……。主人公が殺し屋だって事くらいかな」
エドガーは、それまでコップの中でゆらめく水面にやっていた視線を、私の視線と交わるようにして、そうとつとつと話した。そのタイトルは耳にした事はあるが、実際にこの目で鑑賞した事はない。以前から気になっていた作品の一つだったので、この機会に観れるのはありがたかった。
「へぇ、殺し屋が主人公なの? どんな話なんだか想像もつかないや」
今の私のセリフは、流石にわざとらしすぎたかもしれない。と思いきや、エドガーはこちらを疑うそぶりなく「楽しみだね」なんて言いながら微笑んでいる。
ちなみにエドガーには、私が映画好きである事はまだ話していない。むしろ、映画はあまり知らないと嘘をついている。その理由は、ある肝心な事を知るためだ。それというのは、エドガーが私に抱いている印象である。相手が映画好きかそうでないかによって、一緒に鑑賞するのに選ぶ作品は違ってくるだろう。そこで、どのような作品を選ぶか悩んだ時に真っ先に思い浮かぶのは、相手の好きそうなイメージだという事は想像に難くない。要するに、これはエドガーには私がどのような人物に映っているかを探るための計画なのだ。
上映時間になり、私とエドガーは、こじんまりとしたシアタールームへと移動した。観客はさほど多くなく、むしろ少なかった。これは映画の人気度ではなく、ここの映画館の知名度の問題だろう。となると、しばしばここの映画館に来る事があるというエドガーは、やはり一般的な若者とは遠く離れているように思えた。大都市にある大きな映画館ではなくあえてこんな素朴な場所を選ぶだなんて、とても齢二十前半とは信じ難いセンスである。
私とエドガーは、人数が少ない事もあり、やや後部座席の中央らへんを陣取る事ができた。おそらく、この空間で最もスクリーンが見えやすい場所だろう。やがて作品の上映が始まった。作品の内容は一見ありきたりなように思えたが、重要な部分はそこではない気がした。家族を惨殺された十代前半と思われる少女を匿い、彼女の復讐心のために人殺しの仕方を教える殺し屋の主人公。ヒューマンドラマの始まりとしては厳し目に見ても七十九点といったところだ。
そう、こういった血生臭さの中に生じる愛情というものは、創作物において非常にありきたりなのだ。だが、私が自分を持っていかれたのは、内容ではなくその二人の間に芽生える愛情の方だった。より厳密に表現するならば、愛情の種類、とでも言おうか。それは、他人の人生を見せられて感動するといった感覚とは違っていた。私という個をより個たらしめるかのように、私と強く関連しているように思えてならなかった。そう感じる理由も理屈もわからないが、確かに私は、映像の向こうに存在する愛情というものが他人事でない事を確信していた。
主人公の、自分よりも二回りかそれ以上幼い相手に向ける暖かな感情はなんだ。私はそれを知っている。よく知っている。これは、本当は私が忘れ去っていただけで、この世界には数多に満ち溢れているものだ。これまで脳内で思い描くのも恐ろしかった概念が、今こうして私の中で荒れ狂っている。これは、私ではついぞ感じる事のできなかった感情。むしろ私たちは――私と母は、互いに軽蔑しあっていたのだから、私の知りうるものとこの感覚は相反していた。
私はこの愛情に恵まれなかった。だが、それを得るチャンスが完全に失われたという訳ではない。何しろ、エドガーは今もこうして、私と一緒に同じ映像を観てくれている。思い返してみれば、エドガーは、しばしば何を考えているのか分からない時はあるものの、私を一人の人間として尊重してくれていた。まるで、本当の家族のように。
その事に勝手に気がつくなり、私の両目からは涙が溢れていた。自分でも馬鹿だと思った。しょせんこんなのは私の一方的な憶測にすぎず、実際は異なる可能性があるのに。それでも、同時にこの妄想めいた憶測が事実である可能性も十分あり得る事を思うと、涙がとまってくれなかった。当然、隣に座るエドガーは私のこの惨事に気がついているはずだ。けれど、彼なりの配慮だろう、こちらに視線を寄越すことは一切なかった。私はそんなエドガーに感謝した。誰だって、よく知っている人にほど泣き顔は見られたくないのだから。
映画は嫌いな終わり方をして幕を閉じた。私は、最後に重要人物がこれみよがしに死ぬ展開を嫌悪しているのだ。世間的にはそれがドラマティックなのかもしれないが、失ったものが多い私には、どこも美しいと思えなかった。そして案の定、スクリーンの向こう側の血には昂りを覚えなかった。やはり血液は、現実のものでないと本来の輝きを感じ取る事ができない。虚構がリアルに敵うことは一切あり得ないと断言しても良いだろう。無論、これは血液ではなく、世界に存在する全てのものにも当てはまることだ。
エンドロールが終わり、暗かった空間に明かりが灯される。もうこの時点では私の涙は乾いていた。隣に座るエドガーは、こちらを見やりほんの僅かに気遣う素振りを見せながら、「立てる?」と問うてきた。その質問で私は未だ自分が観客席に座ったままである事に気がついた。私は一瞬どうすれば良いのかわからなくなった。だからなのか、私は質問に答えることも立つこともなく、ただエドガーの衣服を引っ張ることしかできなかった。我ながら、それは捨てられるのを恐れる子犬のような仕草だと思った。
だが今の私には幸か不幸か屈辱を覚える余裕がなかった。未だ体の奥で高鳴る振動を感じ取る事で精一杯だった。エドガーは、そんな私を訝しむこともなく、まるで幼い子供を扱うような優しい所作で私の手を撫でた。そのまま数分間そうしていた。
時が経つにつれて、熱でぼんやりとした頭が冷えてきて物事を少しだけ考える事ができるようになっていた。そこで私は、はたと思い立った。私は、今日ここでエドガーに大敗北してしまったのだ。じんわりと全身を浸していた暖かな電流に、淡く悔しい色が混じった。




