3-(2) 無意味な贖罪
僕はロマンチストなんかでは無い。それでも、かつて自分が壊してしまった相手によく似た人物に葬り去られるというのは、生まれてきた幸福というものを知らない僕にとってはこの上ない幸福である事に違いはなかった。
その腑に落ちる顛末が錯覚を生じさせたのは確かだろう。今になって考えてみると、自分の気狂いに呆れ返る。
死人が都合よく目の前に現れるなど、ましてや、生き返る事など到底ありはしないのに。
けれども、それとは無関係にアンナという少女の事は気掛かりだった。何より、助けて欲しいと言わんばかりに号泣していた彼女の姿が、脳に焼き付いてしまい、忘れようとしてもかなわなかった。
その上、アンナは護身用の拳銃を我が家に忘れていってしまった。その拳銃は、アンナを彼女の部屋に運んだ後に、アンナの部屋のデスクの中にしまっておいた。なぜ彼女にわざわざ見えないようにしまったかというと、アンナが起きた際、アレを目にする事で昨夜の出来事を鮮明に思い出してしまうだろうからだ。そして当然、そんなアンナはパニックに陥ってしまうだろう。拳銃を仕舞ったのは、そういう配慮からだった。
それに、これは完全に私事であるが、何故かこの拳銃を見ていると異様な不快感を覚えてたまらなかった。それらの理由から、半ば封印するかたちでデスクの一番下の引き出しの奥にしまっておいた。
だが、アンナが玄関から出ていくのを確認した後、彼女の部屋に入りロッカーを確認してみると、まだそこに拳銃は鎮座していた。
これはもしや彼女は出ていった訳ではなく、単に外出しただけなのではないか……そんなふうに希望を見いだした刹那、それを打ち砕く思考が降りてきたのだった。まず、彼女にしまった場所をまだ教えていなかったのだから、見つける事ができなくてもおかしくは無い。
その上、あんな出来事があったのだから、彼女からしてみれば、隠されたと考えるのが自然だろう。その他にも、普段アンナは家から滅多に出ない事や、家を出るまで恐ろしく静かな足取りだった事から、僕に顔を合わせる事に抵抗があった事が想像できる。
ふつふつと後悔の念が押し寄せる。もしもあの時眠っているフリをやめて、勇気を出してこちらから声をかけていれば、今頃どうなっていただろう。
普通に考えて、彼女は負い目を感じているだろうから、あちらから僕に声をかける事は憚られる筈だ。せめて、か弱い小さな流浪者であるアンナにとって重要な護身用の武器だけでも彼女に確認しておけば良かった――それに、護身用の武器を持っていないとなると、夜野宿するなんていう事になったらあまりにも危険すぎる。
だが、そこで以前の自分の憶測が脳裏を走った。それは、できるならば考えたくもないくらい、僕の胸中を嫌悪感で満たすには有り余る代物だった。自分の身を売るくらいならば一生僕の元にいて欲しい――気づけば僕はごく自然にそう切実に願っていた。
ならば、現在こうして興味もない女たちと肉体を一つにしている自分という生き物はなんだというのだろう。初めは快楽が目的ではなかったものの、今は完全に堕落し切った喜びの為にこうしている。何しろこうなる他に選択肢がなかった。これ以外に自分を汚せる方法が思いつかなかった。だが、それは果たして本心なのか。それらは単なる言い訳で、実際は初めから、誰かに求められる事を求めていたのではないのか。
頬に僅かな痛みを覚えた事で我に帰った。どうやら僕の上に跨っているマリーに頬をつねられたらしい。
「なんだか今日はいつもより乗り気じゃないねー。疲れてるのかい?」
おちゃらけたようにマリーが言った。
マリーに勘づかれてしまう程自分は思考に耽っていたのか。そう愕然とすると同時に羞恥が襲った。今更この状況で自分は、なんていう事を考えている。無責任にも程があった。こういった生き方を選んだのは自分であって、それを後悔する事など後の祭りでしかない。
「なんでもない、ただ疲れていただけだ」
その場しのぎの言葉を返す。マリーが相手となると、何だか見透かされているような気がして会話を続ける事に躊躇いが募った。当のマリーは、僕の普段通りの素っ気ない返事に対して、まるで叱られたくないが為に嘘をつく子供を見るような、訝しむ眼差しで「ふぅ〜ん」とだけ答えた。
それから部屋には沈黙が降り注ぐばかりだった。今この部屋には僕とこの家の主マリーしかいないとはいえ、互いにこういった場面はさして珍しくないものである為、気まずい空気は全くと言っていほど皆無だ。だからと言って、今日ばかりはこの静かな夜が心地良いという訳ではない。
表面には出ていないとはいえ、僕を現在こうして切羽詰まらせているのは、アンナが出ていったあの時から胸中を刺激している妙な不快感だった。自分に彼女の選択を咎める権利はない事は分かっているつもりだ。
だが、そういった思考を追い抜いてまで胸に来るものがあった。それは熱いようで冷たい、グラデーションのようでいて、何とも言えない色をした感情だった。
そんな感傷に耽ける僕とは反して、マリーは相変わらず自由気ままに、僕の腹の上で指を使って絵か何かを描いている。これはマリーのよくある妙な癖だ。ちなみにされているこちらは全く楽しくは無い。
あんなふうに無邪気になれたらどれだけ楽だろう。僕はと言えば、変なところが完璧主義な為にキノコを妥協なく限界までリアルに描く事しかできないっていうのに。
そこでふいに、下手くそなキノコの絵を思い出した。何度も何度も描いても上達の兆しの無い、非常に残念なキノコ。それと打って変わって、経験もさほど無いにも関わらず、精巧に刻まれた鳥の彫刻。人の才能というのは、全くもって千差万別であり、凹凸の激しいものであるとあの時強く実感したものだった。
それらの直近の記憶を思い描いていると、それまで以上に熱く込み上げてくる感覚に胸中が満たされた。これは以前、マリーと出会う前に鮮烈に感じたものと似ているような気がした。
それでも今更もう元には戻れない。一度壊れてしまったモノを元に戻す事など到底不可能なのだ。そう理解しているにも関わらず、僕は後悔という愚かな沼にハマったまま、そこから這い出せないでいた。
これまで全く同じ場面、同じ場所で目にした事があるというのに、揺れるカーテンの隙間から除く三日月が今までの記憶の中で最も美しく見えた。それと同時に鬱陶しくもあった。何故なら、今のように雲に覆われていない月が地上にもたらす光というのは、眩しくてその先にいる人間の容貌を周囲の人間によく見えるように照らしだしてしまう。
僕はハタハタと風に揺れるカーテンを閉じようと手を伸ばしたが、ここからでは微妙に腕が届かなくてもどかしい。仕方ないので、頬に滴り落ちる涙はマリーに気づかれないようにそれとなく腕で拭った。いつから自分が泣いていたのか定かでは無いが、先程からお絵描きに夢中な彼女には見られている可能性は低いだろう。
涙は個人の感情を他人に分かりやすく表明してしまう厄介な代物だ。故にマリーやどうでもいい人間に目の当たりにされるのは、プライバシーの侵害を受けたような罰の悪い気分になる。
自分の目元に水滴がない事が確認できると、お絵描き中のマリーに構わず服を着始めた。するとマリーは不本意そうに唇を尖らせた。その仕草はどこかわざとらしく見えた。
「もう帰っちゃうの?」
「別に構わないだろ。アンタの相手はいくらでもいるんだから」
「そうだけどさー。何だか最近、ルーカスくん前よりもさらに素っ気ないというか、すぐに帰っちゃう事が多くなったじゃん。……もしかして、意中の相手でもできちゃったのかな?」
不満気なものから突然意地悪な声色に変化したマリーの台詞に、心做しにカチンときた。誰だって、秘めた心の内を土足で踏み躙られる事は好まない。
「くだらない。前にも言っただろ。僕は誰の事も好きにならないって」
半ば吐き捨てるように言ってやった。
するとマリーは、珍しく僕が僅かに感情を出した事に当惑しているのか、普段のおちゃらけた感じとは違いいささか音程の合わない声色で「ホントに、ひねくれてるんだから」と零した。
それから会話をする事も、恒例だった次の日の約束もしないままマリーの住居を後にした。
現在も三日月は僕達を呑気に見下ろしている。僕はどこか縋るような思いでその光源を見上げながら、住宅街を歩いていく。その足はまっすぐ帰路に向かうのではなく、家とは反対方向の旧市街方面へと向かっていった。
あの大きいだけで伽藍堂な家に何となく戻りたくない気分だったのだ。虚しい気分を紛らわすにはやはり散策が有効だ、なんて頭の隅で考えながら住宅街を抜ける。思ったよりも遠くまで来てしまった。この家からの距離は僕の内側の空虚さを表しているようにも思えて我ながら滑稽だった。
もうすぐ旧市街地だというところで、野蛮な怒声が耳に届き足を止めた。どうやら路地裏で不良共が揉めているらしい。最初はそう思い、踵を返そうとした。が、その声が聞き覚えのあるものだったので、再度足は静止する事となった。
そのまま耳を済ませて、彼ら――いや、彼女らの会話を盗み聞きするよう試みる。どうやら怒りを孕んだ声で相手を威嚇しているのは少女らしい。そして、その相手も同じく少女らしかった。
その声を聴覚が処理した瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
間違いない。先程微かに聞こえてきた力のない声は、キノコを描くのが全くもって下手くそな子のものだ。それを認識した瞬間、僕は駆け足で声の聞こえる路地裏に向かった。
路地裏内の光景を直視するなり愕然とした。予想通り、圧をかけられていたのは家出の少女アンナだった。彼女は何もかも諦めたかのように、壁にもたれかかって座り込んでいた。その瞳には希望も生気も一切感じられず、ただ虚ろに沈んでいた。
「何やってるんだ、アンナ!」
僕は思いがけず声を掛けていた。思考よりも言葉が先だった。
ところが、先に僕の存在に反応したのはアンナではなく不良側、それもどこかで見覚えのある金髪の少女の方だった。他に男しかいないのを見るに、どうやら先程までアンナを追い詰めていたのは彼女らしい。いかにもがらの悪そうな男二人は、金髪の少女の背後で佇み、アンナを見下ろし睨んでいた。
が、予想外の乱入者に、金髪の少女も男共もその鋭い視線をこちらに向けざるを得ないようだった。金髪の少女は、露骨に不快感をあらわにした。つり上がった方頬がヒクヒクしていた。
「またあんた? 男はでしゃばんなって言ったでしょ」
鋭い眼光とドスの効いた声が、彼女の尋常ではない苛立ちを物語っている。
彼女の物言いで思い出した――この連中とは、以前アンナと本を買いに言った際に遭遇した事があった。女王様らしく気取っている金髪の少女が、アンナに対して何か小言を口にしていた覚えがある。いったい二人の間にどのような因縁があるのかは知らないが、さすがにこの状況を黙って見過ごす訳にはいかない。
「何言ってるんだ、そういう君だって男を連れてるじゃないか」
「それは事実だけれど、私の場合はちゃんとコイツらに出しゃばってくるなって言いつけてあるから。だからこれは私とこの女の一対一の話なの。私達について何聞かされてるのかは知らないけど、部外者なアンタは引っ込んでて。さすがにあんたも三対二でやり合うのはごめんでしょ?」
彼女の言い分を信じるとすると、かなり筋が通っている。その上今ここに来たばかりの僕では、その彼女の物言いに疑いを向ける事ができないのが確かである。それでも、そのままコイツらの言いなりになる訳にはいかなかった。
僕は、立場上彼女の言い分に反撃できないのもあり、あえて彼女を無視してアンナの元へと駆け寄った。そして抜け殻同然の状態のアンナの両腕を掴み、彼女を立たせようと試みる。するとアンナは僅かながら腰を浮かせ、僕の顔を見てそれまでの無表情が驚きに染まった。おそらく、今初めて僕の存在に気がついたのだろう。その推測を裏づかせるように、アンナの小さく開かれた口からは「何で、エドガー……?」という驚嘆の声が漏れていた。
案の定、ボスの背後で我慢していた男二人が阻止しようとしてきたので、僕は思い切りアンナを路地裏の外へ突き飛ばした。すぐに金髪の少女がアンナに近づこうとしたので、襲い来る男共の股下から足を伸ばす。するとボスの少女はそれに足を引っ掛け、小さく「きゃっ」と悲鳴を上げて転倒した。それを見計らい、僕はすぐさまアンナに向けて声を上げた。
「アンナ! なにトロトロしてる、早くこの場から離れるんだ!」
男の太い腕に視界を妨害されながらも、未だ事態を完全に把握できていなさそうなアンナが足をもつれさせながらも走り去っていく光景は確認する事ができた。ボスがすぐさま起き上がりその後を追うかと不安になったが、ここまでくると攻撃の対象は僕に移り変わったようだった。
金髪の少女は、怒りに顔を赤くしながらゆっくりと起き上がるなり、オロオロする取り巻き男二人を払い除けながら、僕の襟元を掴んできた。
「あんた、よくもやってくれたわね、あんたっ!」
そう叫びながら、ボスは襟元を掴んだ腕を大幅に動かした。襟元を前後に押しやられる事で僕の後頭部は思い切り壁に衝突し、まるで頭の中を大量の針で刺されているような衝撃に襲われる。これが後頭部を思い切りぶつけた事による刺激だけではない事は瞬時に認識できた。
もちろん、物理的な刺激による原因で生じた痛みも相当あった。だがそれに掻き消されないかたちで、これまでの人生において幾度も僕を苛んできた衝撃までもが、最悪なタイミングでやってきてしまった。全身が硬直していくかと思いきや、手足が勝手にガクガクと痙攣し始める。外気の冷たさが遠のいていき、意識が朦朧とし始めた。
きっとこのまま僕はろくに抵抗できぬまま、この場でリンチに合って死ぬのだろう。そう思う事は自然であったし、そうなる事を願ってもいた。このてんかんのせいで、僕は一度唯一の光を失い、そして今は命までも失いそうになっている。罪と堕落で汚れている自分にはお似合いな、実に皮肉の効いた終わりである。
そんなふうに、ぼんやりとした頭で物思いに耽っていたが、いつまでも次の攻撃がやってこない。もしや既に自分は死んでいて、感覚が失われて意識だけの状態なのではないか。だが、そのふんわりとした推測が事実である可能性は低いようにも思えた。
なぜかというと、先ほどまで僕の襟元を強引に掴んでいた金髪の少女が、なぜか今は地に伏しているように見えたからだ。それも少女だけでなく、取り巻きの男たちも同様で、うち一人は仰向けの状態で頭を掻きむしっていた。果たしてこの摩訶不思議な光景が現実であるのか、それともてんかんの見せる幻覚であるのか判断はできない。
刹那、後者の説を裏付ける光景が目に飛び込んできた。朦朧とした視界でもわかる程に可憐な銀色の乙女は、突如僕の視界に現れたかと思いきや、脱力して身動きできない状態の僕に抱きついてきた。
僕のよく知る女の子に酷似しているその子は、耳元で何か言葉を喋ったようだったが、遠ざかってゆく意識ではそれを全て認識する事はかなわなかった。
「ぱぱが―――なら、―――がいい。――でわた―――も」
水中で響くようなくぐもった音が全て終わるよりも先に、こちらの意識が途切れていった。




