3-10 狂気の夜《再》
■■■■の住居に戻るなり、自室へ入りベッドの下に隠しておいたショルダーバッグを手元に手繰り寄せ、中にしまってあるピストルを取り出す。彼を手籠にできるか否か、といった疑問は一切存在しない。
何せ、彼は私の生み出した偶像に過ぎないのだから。その為、私が脅迫すればすんなりと現実を受け入れる事だろう。そこで、自分の思考の一部分にはて、と妙な違和感を覚えた。
現実とは一体どういう概念を指すものだっただろうか。ズキリ、と頭の奥で鈍痛がした。一体どこが現実で、何が現実で、誰が現実か。
だが、そのような曖昧な物事に頭を使う必要などない。私をようやっとその気にさせてくれたからには、最後までやり遂げてみせるだけであり、それ以外の思考は不必要だ。ひとまず、あの青年がこの家に帰ってくるまで静かに待機しているとしよう。それまでは精神統一の時間だ。
カチ、コチと鳴る時計の秒針の音がやけに大きく部屋に響いた。それにしても、何だかこういった事は初めてではないような気がする。そう遠くない時に、今と似たような心地で静かな殺意と共に、誰かの帰還を待っていた事があるような、そんな気がした。
そのようなどうでも良い事を頭の片隅で覚えながら、月光だけが光源である薄暗い部屋でただただ待っていた。獲物の帰還は体感にして二時間程度後の事だった。玄関扉が開く音を、研ぎ澄まされた鼓膜が確認した。
その瞬間、私はあの時のように――どの時だったっけ――静かに立ち上がり、獲物が彼の自室あるいは居間へ向かうまで、扉の前で待機した。そのまま耳を研ぎ澄ませ、近くの部屋の扉を開け閉めする音が鼓膜を刺激すると、音を立てないよう慎重に目の前の扉を開けた。
あの青年の部屋までさほどかからなかった。私はノックもせずに勢いに任せて扉を開け放つ。とにかく殺したかった。一刻も早く殺したかった。そうしなければこれ以上自分がおかしくなりそうだった。
彼は着替えの途中らしかった。そんな彼は、私の来場に気がつくなり、シャツのボタンを上から半ばまで開けているところで硬直した。ベッドに腰掛けている様子から、私がやってくるまでよほど呑気にくつろいでいた事が想像できる。
その彼の有様が、いかにも滑稽に思えてならなかった。何故なら彼は、これからもう二度とそのような堕落の生活を送る事等叶わないのだから。
楽しかったかい、女どもとふしだらな行為に没頭するのは。楽しかったかい、私を都合の良い存在として自己愛から生じる嘘の愛で利用してきたこれまでの嘘だらけの日々は!
そう腹の底から嘲ってやりたかったが、それらの感情はなぜか声になって口から出る事はなく、ただ空虚な自分の内側で鳴り響くだけに終わった。
結果として私は無言でピストルを目の前の男に向ける形となった。男は生殺与奪の権をこちらに握られているにも関わらず、慌てふためく様子はない。おそらく現状に脳の整理が追いつかず呆気に取られているのだろう。
そんな瞬時の解釈は、瞬く間に崩れ落ちた。狼狽えるのは今こうして命の危機に脅かされている彼ではなく、彼を追いやっている筈の私の方だった。
どうしてなのか、彼は怯える事もパニックになる事もなかった。彼の瞳は至って冷静であり、どこか澄んでいた。そして真摯に私の瞳を見つめてきた。今の私にはその瞳がどんな悪魔の瞳よりも恐ろしく見えて、ピストルを構えた腕が次第に震え始めた。
その緊張は瞬く間に全身に広がり、気がつけば足元も震えていた。そんな私に反して、彼には震えている部分がどこも見つけられない。ただ一つ、あの恐ろしい両目を除いては。
彼の瞳は、まるで私の行動を心の底から受容するかのような、ある種の慈愛に満ちているように思えた。それが気味悪くてたまらず、少しでもその穏やかな表情を崩したくて、私は威嚇する言葉を吐いた。
「弾はちゃんと入ってるんだからね」
それでも彼は抵抗する事も、顔色一つ変える事もない。まるで、今すぐにでもこのピストルから弾が放たれるのを心待ちにしているかのようだった。私はそんな彼の態度が気に入らなくて、どうにか彼から命乞いの言葉を引き出せる事を願いながら、必死に捲し立てた。
「何で抵抗しないの!? このままだと死ぬんだよ、あんた!!」
その私の声が、なぜだか今にも泣きそうな切羽詰まったものだったので、さらに私の壊れかけた精神に追い打ちをかける事となった。
「死んでも良いっていうの!? 死ぬっていう事がどういう事だか、わからないの!? あいつらともう楽しい事とかできなくなるんだよ!!」
「分かるよ。その上で、僕はもう死んでも良いんだ」
彼は、普段と変わらない爽やかな声色で応答し、そのまま続けた。
「何より、こうした形でっていうのも、きっと運命なんだ。そうだよ、僕はきみに殺されて死ぬ事が正解だったんだ」
彼の突拍子のない発言は理解不能だが、彼が今謎の納得感に包まれている事は簡単に理解ができた。それだけに、私の憎しみはより一層高まった。
「意味わかんない、意味わかんない! あんたはどうしてそう狡いんだよ! 私は手に入らないのに、どうして」
あんたばっかり、と続けようとしたところで、彼が僅かに俯いて絞り出すように声をだした。その声は先ほどよりかは小さなものだけれど、強い芯を感じさせるが故に、無意識に私は閉口し、彼の言葉に耳を傾けてしまった。
「確かに僕は強欲だ。自分の人生の在り方を受け入れるべきだというのは、頭では分かっているんだ。なのに、それに逆らおうとして……本当に愚かだ」
彼の独白は間違いなく彼自身に向けられたものだった。だが私の秘められた部分を抉り抜くには十分な力を持つ言葉の羅列でもあった。
私は気がつけばピストルを彼に思い切り投げつけていた。放られたピストルは彼のはだけた胸元に直撃した後床へと転がり落ちた。そして衝動に任せて私は彼に襲い掛かった。男女の体格差など感じさせない程に簡単に彼を押し倒す事ができた。彼は後頭部から思い切りベッドに倒れ、すぐさま私は憎らしい首を両手で押さえ込んだ。
先ほどだって、その気になれば彼は私など容易く返り討ちにできた筈だった。それでもそうしなかったのは、やはり彼の謎めいた決意のせいなのか、それとも私への慈悲なのか。どちらにせよ、侮辱されている心地に違いはない。
「死ね!! 後悔しろ、私を拾った事を、あいつらと夜な夜な楽しんでた事を、私に優しくした事を!!」
そう絶叫すると同時に彼の首を絞める両手に力を込めた。するとみるみるうちに、憎たらしい童顔は苦悶の表情を浮かべ始め、うめいた。それでも彼は抵抗の素振りを何一つ見せない。
『本当に殺しちゃってもいいの?』
沸騰し切った脳内で、誰かの声が鮮明に轟いた。
『あんなは、わたしとおんなじで▒▒が欲しかったんでしょ。るーかすは、あんなにとってのそれみたいな大切でしょ?』
「うっぅ」
その呻き声は今にも窒息しそうな彼ではなく、私の口からこぼれたものだった。
霧のように靄がかかって聞き取れない箇所はあったものの、その言葉の言わんとしている意図は、本能的に的を射ていると感じ取る事ができてしまったからだ。
それを認識した刹那、私はこれまで以上に複雑化した自分の思考に飲み込まれそうな恐怖に陥った。そしてそのままずるずると不安の奈落に落下していった。そのせいか、彼の首を絞める力も急速に弱まっていく。それを阻止すべく、私は奈落の底に落ちながらも、どうにかしてそこから這い出る気迫で彼の首に回した両手へ力を戻そうと試みた。
だが、あいにくそれでも内側に蔓延る恐怖を打ち負かす事はかなわなかった。その恐怖は生じてから初めの方こそ漠然としていたが、精神を支配している今では、明瞭に感じられてしまう。それは、母親の死を奪った記憶や、私の下で呻いている彼との日々の記憶であり、それらの記憶が繋がる事である悲劇的な未来を連想させた。その未来は間違いなく私を完全に破壊するであろうものだった。
何かが私の頬を撫でる感触で、私は僅かに我に帰った。私の頬に触れたのは彼の指先だった。彼は、咳き込みながら私の頬に伝う涙をなぞっていた。
そこで私は、両手が彼の首元から離れて、何かの痛みに耐えるかのように彼の脇のベッドのシーツを強く握っている事に初めて気がついた。確かに私は痛みに喘いでいた。その痛みの源は心臓のようにも感じたし、腹の奥のようにも感じて、明確に判別ができない程に曖昧としていた。それでも苦しい事に変わりはなかった。
激痛に耐えきれず、とうとう私は真下に倒れている人間に全身をぶつける心地で縋りついた。シーツを握りしめる両手はそのままに、彼のはだけた胸元に涙で濡れた顔面を埋めた。そして内側から生じる自然な感情に任せて絶叫した。
その叫びは憤怒や絶望や悲愴に塗れた泣き声となって部屋に充満していった。シャツの間から感じる彼の体温は、ひたすら泣き叫ぶ赤子をあやす親のような暖かさがあった。泣き叫ぶ最中、何故か背中も温もりに包まれたように感じたが、それがいったい何によるものだったのかは定かでは無い。
やがて泣き疲れた赤子は、そのまま深い眠りに落ちていった。目覚めた時には、私は宛てがわれた部屋のベッドの上にいた。カーテンから覗く空は夕焼け色に染まっており、その赤い色の刺激のせいか、はたまた寝起きのせいか、ズキリと頭痛が走った。
何故自分が現在ここにいるのか覚えておらず、虫食いにあったようにところどころ空白な記憶は、思い起こすだけで脳に雷を走らせた。しばらくぼうっと窓の外を眺めているうち、昨夜の尋常ならざる出来事が想起された。それぞれの記憶が明瞭になっていく度に、私の呼吸は浅く速くなり過度の緊張に精神が悲鳴を上げた。
私は知らず知らずのうちに、青年の名前を――エドガーの名前を虫のような小さな声で呼んでいた。それは本当に彼をこの場に呼びたいといった心理からではなく、孤独に苛まれる病気の子供が安心感を得るために親の存在を求めるような、そういった類の呪文だった。
そんなふうに彼を求めるも、既に私にそのような資格は無いという事は自覚していた。自分はいったいエドガーに昨日どのような事をしでかしたか、それが事実である以上、私がここにいられる権利も資格も無かった。
ならば、彼がわざわざ私をここまで運んでくれた理由はいったい何であろう。普通の人間ならば、自分を殺そうとした相手なぞ警察に送り届けるに決まっている。それでも彼はそうはしなかった。その上こうして以前のように私を同居人として扱っている。
いや、生真面目なエドガーの事だからもしかしたら、私が起き次第、話し合いをしてから私をここから追い出すつもりかもしれない。
今こうして安息を得ていられるのも、彼の愚直さ故のものかもしれない。そう思うと、私はいたたまれない心地になった。それはエドガーに拒絶される事への恐怖なのか、それとも運良く得ることのできた安全地帯を失う情けなさから来るものなのかは、判然としない。
私は熟考の末、この家の主に話を持ちかけられるよりも前に、ここを後にする事を決意した。もう人から直接拒絶されるのは御免だった。
静かに部屋を出て、廊下の影から居間を覗き見ると、ダイニングテーブルに突っ伏して居眠りしているエドガーの姿を確認できた。
その際、彼の片手首のリストバンドに目がいった。確かエドガーは、いつもあのリストバンドをはめていた。そんなどうでも良い事が、今になって思い出された。
終焉になるとこれまで気にしていなかった物事まで意識してしまうようになるのは、熱中していた本を読み終える時とどこか似ている気がしなくもなかった。昨日の出来事が嘘のように呑気に眠りこけているエドガーを起こさないよう、静かに家を出た。
林道の分かれ道に差し掛かると、私はふいに変な事を思い出した。だが、頭を振り、気分を切替えようと試みる。銀色の輝きをまとった幻想の少女にいつまでも取り憑かれている余裕なぞないのだから。そのまま何事も無いよう祈りながら分かれ道を通り過ぎると、一気に脱力する。もうあのような不可解な幻に惑わされなくて済むと思うと気が楽だ。
そこで私は、自分に生じている矛盾に気がついた。これまで鬱積してきた欲望の為に私は迫害され、こうして逃げてきた。
そこで、異端と軽蔑された私の性質を満たしてくれる存在と奇跡的に出会う事ができた。それも二人――一人は幻想だが――も。それだというのに、なぜ私は自ずからそれらを手放そうとしているのか。それはこれまでの私の苦悩を自分で嘲笑している事に他ならない。
足取りがおぼつかなくなっていく。私はとんでもない失敗をしてしまったような気がしてならず、不安という名の鎖に不快感を覚えながら、雑木林を後にした。




