3-8 何でアイツに教わらなくちゃいけないの?
そこは疑う余地もなく、私の平生の世界だった。
春の陽射しのように明るい暖かな光がさしていた。安心を与えてくれる慈悲深い緑色を緩やかな風にさざめかせる樹木の下に、一人の人物が座っている。
あれは誰だろうと考える暇もなく、私には自然とそれが誰であるかわかった。ぼやけていて姿こそはっきり見えないが、それは確かにあの銀の鳥だった。
いつかの私がカーヤと呼んでいた幻覚に非常にそっくりだった。それでも不信感や嫌悪感は覚えず、むしろ私の魂は安寧に包まれていた。その人物の片手の上には一枚の木の葉がちょこんと寂しそうに乗っており、彼女/彼はそれを慈しむようにもう片方の手で優しく撫でた。
その木の葉は私だった。それを認識すると同時、その人物はカーヤと似た人物ではなくなっていた。彼女から彼に変わった。それは自然な変化だった。
ここで傍観している私も、その人物の片手の上の私も、それに違和感を覚えずに容易に受け入れた。
普段私が心の中で見下している対象の特徴の一つである鳶色の髪が妙にこの世界に馴染んでいた。変わらず彼は手のひらに乗せた私を優しい瞳で観察してはなだめるように撫でていた。
それはまるで。そう、その彼の香りは、所作は、温もりは、この世界の五感を緩やかに刺激する正体は。
ひとりの▒▒のようだった。
彼は片手に乗せていた私を愛娘にキスをするように優しく口に含み、決して傷つけないように舌で柔らかくしてから、口の中でくるりとまるめて喉奥に流した。
するとたちまち彼の中に入った私の視点に切り替わり、暗闇を流れるのではなく、このまま溶けても良いとさえ思わせてくれる淡い白の空間に漂っていた。
その白はどうやら全て彼の細胞でできているようで、大量の彼の温度を感じた。そしてその温度は私の望み通り、私をじんわりとした温もりで溶かしてくれた。
木の葉の私が消えた事で、傍観している私に視点が戻った。
なんとそこにいるのは彼ではなく、最初に目にした彼女に戻っていた。そしていつかの幻影はこちらを見据え口を開いた。
「言ったでしょ。あんなとわたしは、おんなじなんだって」
唐突に意識が覚醒し、それまで居座っていた世界が夢である事を自覚した。
身体中汗で濡れていて、なんだか嫌な気分に襲われた。
先程までの安寧がまるで嘘のようだった。いや、嘘だと信じたかった。何せ彼が夢に出てきたのだ。しかも夢の中で私は彼を歓迎し、彼に歓迎されていた。
そんな事はたとえ夢であろうと気色が悪い。嫌な事はさっさと忘れてしまおうと思い、その日の朝はいつもより早めに朝の習慣に移った。
エドガーは、暇を持て余すと絵を描いたり彫刻を彫ったりしていた。かくいう私は読書くらいしか暇を潰す方法が思いつかなかった。軽く外の散策にでも出ようかと思う事はあっても、自分の素性を考えるとそれは憚られる。
何しろエドガーは朝刊をとっておらず、私の母殺しという名の正当防衛が社会に表面化しているかどうかさえ分からない始末である。
だが母の恋人の存在を考えると、既にこの件は外へ露見しているだろう。故に私は極力エドガー宅から出る事はしなかった。
そんな日が続くと、エドガーは私が暇を持て余している事に気づき、キノコの描き方を教えよう、といらない厚意を寄せてきた。むろん私はその誘いは断った。
だが奴ときたら、「何言ってるんだよ、以前教えてやるって話したじゃないか! それに暇な日が続くのは何がなんでも辛いだろう。さぁ、とにかく準備をするよ!」と強制的に私を彼の自己満足に付き合わた。
だが皮肉にも、私には画才がないようだった。元から絵はあまり描いたことがなかったにしても、さすがにこの酷さは誰にも真似出来ないだろうというできだった。
それでもエドガーは辛抱強く私にキノコに見えるようなキノコを描かせようと尽力した。そのような地獄が三日くらい経過したら、さすがにあちらも堪えたのか、「ごめん。もう君に無理強いはしないよ」と申し訳無さそうに停戦を口にした。
だが、私が安心したのもつかの間の事だった。なんと、その翌日の夜、エドガーは帰宅するなり次は彫刻を試してみないか、だなんて提案してきたのだった。
「私は読書の方が好き」
即答してやった。というか反射的にそう口から出てしまった。
もうあんな気分は懲り懲りだったし、彼のあまりにも度を越したお節介にうんざりしていた。
「その気持ちは分かるが、活字ばかり相手にしてても刺激が足りないだろう。絵は無理だとしても、もしかしたら彫刻ならいけるかもしれないよ。どんな才能を秘めているかなんて、実際にやってみなくちゃ分からないんだから!」
結果、私は渋々それに付き合う事となった。今度の休日にエドガーから彫刻を教わるという憂鬱なスケジュールが追加されてしまった。
断ろうと思えば断れた。だが、彼を手篭めにする為にも、彼からの好感度をできるだけ稼いでおく事に越したことはない。怒りや不満に勝る理性により、また一つ目標へと近づく事ができたような気がして、その事だけは私の心を愉快にさせた。
約束の日。エドガーの提案により、空き部屋で拷問は行われる事となった。何でも、私の部屋の机でやるとなった場合、休憩時間に自室で読書という安寧が妨げられるから、だという。その配慮はとてもありがたかった。できる事ならば、彫刻の練習などせず一日中自室にこもっていたいくらいだが。
空き部屋に入室するなり、私は目を見張った。机上には、彼が愛用している彫刻刀と大きな工作用マットレス、そしてその上に長さ二十センチ、幅・厚さ十センチはあるであろう木材が置かれていた。
「さすがに、いきなりハードル高すぎるよ……」
練習なんだから、素材は粘土とかの安物を予想していた。にも関わらず、実際に出されたのはどっしりとした木材の塊ときた。これには愕然とせざるを得ない。
「なんでだい?」
肝心のエドガーは、隣で私の反応を不思議がっている。まるでこれが当たり前だと言わんばかりに。そこで私は、彼が相当な金持ちであるという事実を思い出した。ならばこれにも納得だ。おそらく、育ちの良い人間には、彫刻の素材に粘土なんていう安物を使うだなんて想像もつかないのだろう。
私はおもむろにため息をついてから、机に座った。まるで自分が主人に従順な犬のようで、いたたまれない心地になった。
エドガー先生に何を彫りたいか尋ねられた為、ここは無難に鳥と答えた。どうせならば好きなモノを彫りたかった。
するとエドガーは、いつもの気色悪い笑顔で「やっぱりそうだよね」と相槌を打った。そのいかにも私を理解しているような浮かれ具合に苛立ちが募った。
これから地獄の本番が始まるというのに、開始前の時点でここまで精神的に攻撃してくるのはやめて欲しい。しかもそれが無自覚というんだからタチが悪いにも程がある。まあ、こいつのタチの悪さを思い知らされるのは今に限った話では無いのだが。
エドガーが持ってきてくれた枝にとまる一羽の鳥の写真を頼りにいざ彫り進めてみると、まるで滑石が私の意思を感じてその通りに形を変えていくように、脳内で思い描いているビジョンとさして変わらずになるように手を動かす事ができた。
まだ片翼の途中しか彫れていないが、これにはエドガー先生も関心したのか、すぐ真横から息を呑む音が聞こえてきた。
「凄い。凄いよ、アンナ。君は間違いなくこの分野の才能がある」
エドガー先生は私の肩に手を掛け、興奮気味に褒めの言葉を口にしながら顔を私の顔に近づけてきた。私はそれから少し身を引いた。
「あの、そんなに感動したなら私じゃなくて作品の方を見てくれない?」
じゃないと今すぐにでもあんたの顔を張り飛ばしたくなる、と続けそうになるのを必死にこらえた。
「ああ。もちろん作品だって素晴らしいさ。さっきからずっと工程を注視してきた僕が作品を蔑ろにする訳がないだろう」
今の私たちは一応師匠と弟子みたいなものなので――あまり考えたくは無いが――、そのエドガーの発言自体に違和感は無い。無い、のだが。改めてこれまで真横、たまに背後で凝視され続けていたと思い知らされると、何だか嫌な気分になった。
エドガー相手には慣れてきたとはいえ、基本的に私は人に見られるのが嫌いな人間なのだ。故にストレスから頭の左側がじりじりと締め付けられるような痛みを訴えてきた。この感覚は実に久しぶりだった。
それ程までに私は、彼に心を許してしまっていたのか?
そんな事を考えてしまった自分にすぐさま、それは違う、奴を利用する為にも奴の存在に慣れるのは必要不可欠な事なのだから、これは何もおかしな事なんかでは無い、と心中で言い聞かせた。
「どうしたのアンナ。少し具合が悪そうだけど……休憩する?」
気づけば私の手は止まっていた。余程考え込んでしまっていたらしい。
私は、「いや、少し考え事をしていただけ」とだけ答えて、作業に戻った。
それからもエドガーは時折私の状態を心配しては、作品の出来栄えに賞賛の言葉を送った。私は、自分でも意外な程この行為に没頭してしまい、褒め言葉ばかり口にするエドガーに「あんた教えるんでしょ、なら褒めてばっかじゃなくてもっとアドバイスできる部分に指摘してよ」と不満を訴えた。
「確かにその通りだ。ごめん、アンナがあまりにも素晴らしい才能を持っている事だから、つい我を忘れてしまった。……そうだね、例えば――」
そんなこんなで、本日の彫刻タイムは終了した。
鳥の頭部と翼は何とか形にする事ができた。翼に関してはまだまだ彫って立体感を出していく必要があるが、一日でここまで進んだだけでも良い具合だろう。エドガー先生にもだいたい同じような事を言われた。
椅子から腰を上げると、唐突に目眩がし、足を踏み外しそうになった。幸い、すぐにエドガーが体を支えてくれたおかげで怪我をするような事にはならなかった。心配するエドガーに、「久しぶりに何かに集中しすぎて体力を使っただけ。よくある事だから心配しなくて良い」と事実のまま口にした。
するとふいに頭頂部を撫でられるような錯覚に陥った。見上げるとすぐにそれが錯覚では無い事に気がついた。エドガーが、――いつか見た夢のような――穏やかな表情で、私の頭を優しく撫でていた。
私は反射的に両目を伏せた。胸の奥に生じたふわふわとした暖かい感覚に呑み込まれてしまいそうな気がしたからだ。彼の大きな手から逃れるようにその場を離れ、部屋の扉の取っ手に手をかける。その手首を回すと同時に背後から「今度の打ち合わせは夕食の時にしよう。今日はお疲れ様」と声がした。私はあえてその言葉に返事をしないまま部屋を後にした。




