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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: 一色空
第3歌 安息の日々
30/37

3-6 青年の闇

 どうせなら今晩から食事は一緒に摂ろう、と言い出したのはもちろんエドガーからだった。私は、彼の煩悩がさらに昂っていることに安堵を覚えながら彼の提案に従った。

 もしかしたら彼の中では私はもう恋人のうちの一人なのかもしれない、なんていう可能性さえ芽生えるのはなんらおかしくなどないだろう。

 居間のダイニングテーブルでの食事が確たるその証だ。それがというと、私が黙々と彼お手製らしき質素な料理を口に運ぶ傍ら、正面に座るエドガーの手はろくに料理を運ばず、代わりに彼の瞳が彼の強烈な意志により働かされていたのだった。


 要するに、彼は食事の時間のほとんどをエネルギー補給に使うことなく、私の観察に費やしていたのだ。その彼の視線はまるで這う蛇のごとく私の全貌を舐めますように徘徊し、肌を焦がすような熱は最後まで冷めることはなかった。

 昼間のレストランではエドガーを気味悪く思った私も、この時だけは、この後待ち構えているであろう展開に興奮を覚えていた。

 おそらく彼は私をそういったことに自然と誘うだろう、そして私も自身の野望のために自然とそれに乗り掛かるだろう。初回では流石に、長年と鬱積していた欲望を発散するには様々な危険が身にまとうため、私は彼の慰安婦になるしかない。


 何せ、彼の方はどうだか知らないし知りたくもないが、私の方はというとそういった煩悩のぶつけ合いは初めてのことなのだ。

 一瞬、故郷の森小屋で不良どもに襲われかけた記憶が浮上したが、不快な気分に襲われるだけなので――その上、悪寒と共に頭痛がしそうになった――すぐに頭の奥底に追いやった。

 私の胸を躍らせているのは、私の本性も思惑も何も知らない彼が、独りよがりな快楽に浸っている愚かな姿をもうじき拝見することができるという部分にある。

 自分専用の慰安婦という認識対象である無害そうな少女に、本能のままに昂った心身をぶつける青年。その姿を想像すると、今後彼に待ち受ける境遇や、まんまと騙されてしまう彼の愚かさに対して、腹のどこともしれない奥が疼くのだった。


 彼が私の本性を初めて知った時、彼はいったいどのような反応をするのだろうか――そう思うと瞬時に脳内たくさんに、これまで自分は利用する側だと思っていたが実際のところはされている側だったという事実に困惑、恐怖、屈辱、絶望、様々な感情が複雑に絡み合う、柔らかそうな鳶色の髪をした青年の様子がまざまざと浮かび上がった。

 そんな彼に対して私はこう言い放つのだ、うつつを抜かしていたお前の落ち度に他ならない、と!

 そんなふうに、自分の計画がさも本当に実現すると信じきっていた私の方が愚かだったのかもしれない。何とエドガーは、私の予想とは異なる行動をしたのだった。

 いや、この場合は、何もしていないと表現した方が適切か。


 夕食の後片付けが終わった後、エドガーは「せっかくだし話さないか」と言い、居間のソファに腰掛けるよう促してきた。

 私は、街に出ていた時のエドガーの底知れない印象はただの思い過ごしだったことに安堵しつつ、まんざらでもないふうを装って彼の隣に腰掛けた。

 まず先に口を開いたのは私からだった。いわゆる先制攻撃というやつだ。


「あのね、私が今日買った本の作者、あなたと同じ名前だったの。これ、偶然にしては少しできすぎじゃない?」


 おそらく熱でのぼせあがった男女にとってはこういったただの偶然も運命かのような錯覚に陥るのだろう。

 私は、照れているように声は小さく、それでも表情は柔らかく、を意識して、上目遣いで隣にいるエドガーを見やった。すると、エドガーは案の定花が咲いたような笑顔を見せた。


「ああ、そのことならもちろん知ってるよ。っていうか、僕が知らない訳がないだろう。うん、確かにこんなこと偶然にしてはあまりにもできすぎている」


 エドガーは、私が思った通りの反応を示してくれた。彼は、心底大切なものに向けるような、それこそとろけたという表現がお似合いの普段より垂れ下がった瞳で私を見つめた。

 そのでれっとした表情に心底気味の悪さを覚えるも、その本心を悟られないように私も精一杯微笑んで見せた。そして彼の体に軽く身を預けた。

 この時、私の心の中は本来であれば嫌悪感に包まれる筈だった。だが、なぜかはわからないが、苦しみや安心が混ざったようなどこか懐かしい感覚が胸の奥で生きていた。


「あんなに楽しかったの、私初めて。ありがとう、エドガー」


 私は、おそらくこの奇妙な感覚は芝居している役にのめり込めている証だと思うことにしながら、そう彼に囁いていた――自分でも無自覚で。その事実に気圧されないために、もしかしたら自分は役者の才能があるのかもしれないなんて思うことで、形容しがたい胸の苦痛から逃れようとした。

 そんなふうに密かに葛藤を覚えているところで、それに応えるようにエドガーが口を開いた。


「僕もだよ。本当に久しぶりだった、あんなに幸福だったのは……」


 それから数秒間、彼の言葉が続くことはなかった。初めは先程と変わらない泥酔したような口ぶりで、日中の出来事を回顧しているのかと私は解釈したが、それはどうやら違うようだった。


「……違う、ダメだ、いけないんだよ。僕なんかがこんな幸せを感じるのは……。そうだ、僕は今日いったい何をしていたんだ? ――信じられない……」


 唐突に頭上から自責のように発せられた鬱蒼とした声は、つい今しがた耳にした甘っちょろいものとはかけ離れていた。加えて精神病患者めいた癖の強い言葉の羅列に私の思考は氷のように固まった。あの展開から、いったいどうしたらこのような発言が出てくるであろう。


「……その、大丈夫?」


 予想だにしていなかったエドガーの変容ぶりに困惑するも、何とか声を発することができた。すぐにでもこちらから声をかけなければ、こちらの存在などお構いなしに、彼は自分の世界へと深く潜り込んでしまいそうだったからだ。

 するとそれまでどこか遠い思考の海に浮遊していたエドガーは、私の声にハッとしたのか、すぐに気を取り直した。


「ごめん。ちょっと疲れてたみたいだ。今日はもうここら辺でお開きにしよう」

「え?」


 まさか、私の声かけが逆効果だったのだろうか。彼は、平生の冷静さを取り戻してしまい、私にそう告げた。


「おやすみ。そしてまた明日」


 あまりの唐突な展開に追いつけず硬直しているうちに、エドガーは居間を後にした。

 私は、抜け殻状態で呆けたまま、居間に取り残されることとなった。


 それから二日、三日経過しても、彼がそういった行為を持ちかけることはなかった。しょっちゅう夜遊びに出かけることはあれど、私を自室に招くことはなかった。

 それでも彼から注がれる熱い視線は日に日に増していくばかりであるものだから、彼はそういったことには私と同じく慎重なタイプなのだろう、と思うことにした。そうとでも思わなければ、私の内側で燻り続けているものが今この瞬間にも爆発してしまいそうだった。


 そうとは言っても、胸の奥にこびりついた血の塊は抑え込まれることも誤魔化されることも許してはくれなかった。

 たった数十時間の我慢もとうに限界を迎え、居ても立ってもいられなくなった私は、ええいままよといった心地でこちらから行動に移すことを決意した。こちらから迫れば消極的なエドガーも流石に獣らしく人間の本来の欲求に負けざるを得ないだろう。


 あの意味不明な顛末の夜からいったい何日経過したことか。いや、実際は五日も経ってもいないだろうが、待ち焦がれる私にとってはとうに一週間は過ぎているほど長く感じた。もう我慢などできやしない。

 幻想ではない本物の血に飢えてきたこの数年間がようやく救われるというのに、このまま何もしないままとはいくまい。

 私は幾度も脳内でシュミレーションし、逸る心音を全身に響かせながら彼の部屋へと向かった。時計の針は既に二十二時を指しており、エドガーは恒例の夜遊びには出かけず、自室で過ごしている。


 仕掛けるならば、今しかない――。


 部屋の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と来客を歓迎する声が向こうから届いた。その声に促されるまま部屋の中へ足を踏み入れる。


 標的はデスクに陣取っていた。緊張からか、デスクチェアに腰掛けこちらを見やる人間の姿がうまく頭の中で処理されずに、機械を相手にするような心地でその目の前へと接近していく。

 気がつけば彼と肌が触れ合えるほどの距離まで近づいており、破裂してしまいそうだった心臓は今では麻痺していた。そのまま目の前でやや困惑気味な男の瞳を真正面から見据える。

 徐々に困惑の色に染まっていたエドガーは、デスクから身を離し、不安げにこちらを見上げた。


「いきなりどうしたの、ちょっと普段より様子が変だよ、アンナ。睡眠障害か何かで眠れないのかい? それとも他に何か困りごとでも……?」

「――――――」


 私は窒息しそうだった。それは緊張からか来るものなのか、それとも興奮からなのか、はたまたそのどちらもであるのかは定かではない。

 私は、声を出せないままエドガーの肩に左腕を添えた。至近距離から見る彼のグレーの瞳は動揺と緊張から揺れていた。

 私は、少しだけ息を吐きながら彼の胸部辺りに視線を落とした。


「ねぇ、私…………」


 私は、ようやく言葉を発することができたので安堵した。だが、それから瞬く間にさらなるプレッシャーに苛まれた。それは私の内部から全身を押し潰すような強力なものだったが、同時に私の魂を愛撫してくれもした。その甘い痺れに感覚を研ぎ澄ませ、従属しようと試みる。

 すると、今では泥酔し切った私の心は、本来の私が忌み嫌うような低俗な誘い文句を外へ押し出した。


「私、あなたのこと考えると変になるの……」


 私は口にした途端、もう後戻りは許されない強迫観念に包まれた。それを薙ぎ払うように、衝動に任せて彼の首に両腕を回し、抱きついた。エドガーの熱った体の奥で忙しなく鳴り響く鼓動がダイレクトに伝わってくる。それから彼が生唾を飲み込む音も鮮明に耳に届いた。私はそんな崖っぷち状態の彼にさらに畳み掛ける。


「私、ずっと寂しかったんだよ……。あなた、よく夜になるとどこか出てっちゃうから。……今日だって、私ずっと待ってたのに。私をほったらかして、何してたの?」

「―――あ、」


 エドガーの小さな囀りを耳にしながら、なんとなしに彼のデスクの上に目をやった。そしてそれまで私を支配していた甘い痺れは一気に薄らいだ。


「なんでこんなもの、描いてるの……?」


 そこには、開かれたノート一面におびただしい数のキノコがシャープペンシルか何かで量産されていた。しかもそのどれもが微細な陰影により妙な立体感を醸し出している。その衝撃からこの男が重度のキノコマニアであることを瞬時に思い出した。あまりの奇怪さに、ドン引きを通り越し、呆けてしまった。

 彼の首に回した両腕を無意識に僅かに緩め、それまで密着していた体をキノコマニアからほんの少しだけ遠ざけた。


「……前にも、言ったろ。僕はこれを描くのが好きなんだって。……でも、そうだね。君を蔑ろにしてまですることではなかったよ……ごめん」


 彼は、心の底から申し訳ないといったふうに謝罪した。どうやらこちらの熱量が先ほどよりも低下していることには気がついていないようだった。


「だからって、なんで同じものばっかたくさん描くの?」


 私の言葉は、気がつけば芝居感がやわらぎ元の調子に戻りつつあった。それを実感した途端、急速に全身から熱が失われていくのを感じた。


「僕はね、一つのことに集中するのが好きなんだ。他のものまで描くとなると、頭の中がゴチャゴチャしちゃうんだよ。――って、アンナ⁉︎」


 私は、こちらの戦意を阻害してきたエドガーに腹を立てながら彼から離れた。そしてそのまま彼のベッドまで向かい、その上にごろりと横になって彼の方に体を向ける。

 これまでの努力が無駄になってしまわないように、無理矢理にでもそういう展開にしようと試みたのである。

 私は、表情が固くならないよう強く意識しながら、じぃっと彼を見つめた。

 来るなら早く来い。そう胸の奥で自分を叱咤するように呪文を唱えながら、未だデスクチェアの上で固まっているエドガーに注いでいる瞳を柔らかめに細める。


 だが、エドガーは一向にこちらへやってくる気配がない。いや、そう感じたのは錯覚で、私の内側の時の流れが著しく遅くなっているだけかもしれなかった。

 こういった下劣なシチュエーションへの嫌悪感を顔に出さないことは容易だった。だが、私の内側まで誤魔化すことはかなわなかったのである。

 ああ、どうして自分はこんなことをしているのだろう。

 汚らしい、くだらない、気持ち悪い。

 もう何もかも気持ちが悪いから、今すぐにでも私を壊して――その気色の悪い体で。

 私の精神はいつの間にかどこにでもない場所に浮遊していた。それ故、目線の先にいる男――エドガーが鋭い眼差しで睨んできていることに、気がつくことができなかった。


「それはどういう意味なんだって聞いている!!」


 その大きな声により、自分が一瞬乖離状態だったことに気がついた。次いで、今しがた発せられた、腹の底からの憤怒の声がエドガーのものであるという事実に頭の中が漂白された。

 これまで聞いたことのない彼の憎悪の声と、今自分の目の前にいる少女が忌々しいと言わんばかりに黒く輝く彼の両の瞳に、まるで心臓を砕かれたようだった。

 事態に困惑しながらも慌てて何か口にしようとこわばった唇を動かそうとした刹那、またしてもエドガーが言った。


「先ほどから何度も投げかけているこちらの質問にいつまで無視を決め込むつもりだ?」


 エドガーの声には言い表しようのない鬱蒼とした闇が含まれていた、こちらに覗き込まれまいと必死に隠そうとしていたが、あまりの剣幕と重苦しい圧力でこちらの第六感にあらわになっていた。

 どうやら私の精神が飛んでいる間、彼は私に質問をしたらしい。それはわかるのだが、エドガーのあまりの豹変ぶりに頭も心も追いつかなかった。

 私は混乱のあまり、ついには何も喋ることができなくなった。というよりも、脳内が真っ白で言葉が何も浮かばなかった。

 そんな私にお構いなしに、エドガーは、さらに言う。


「今すぐそこから離れろ、そしてこっちに来い」


 有無を言わせぬ気迫だった。

 私は言われるがままに、直ちにベッドから降りて、彼の方に向かおうとした。するとあちらから来いと命じておいて、彼はチェアから立ち上がりこちらへ接近してきた。手が届く距離に至るのは一瞬だった。そして彼の大きな掌が私の頬をひっぱたくのも刹那の事だった。部屋中に乾いた音が響き渡った。私は状況を認識できていなかった。それでも確かに頬は痛かった。


「さっきのは僕への侮辱か? それとも、これまで君はそうやって衣食住を確保してきたのか?」


 私の口から僅かにあ、と音がこぼれた。それでもそこから新しい言葉に繋がる事はついぞなかった。


「さっさと答えるんだ。さあ、どっちなんだ!?」


 またしても、私は声にならない音を発しただけだった。

 まるで、目の前から重くのしかかる圧力が世界の全てのようで、その恐ろしさからただ立ち尽くすことしかできない。何もかもわからない――今自分がどこにいるのかも、どこを見ているのかも。

 そんなふうに呆然と立ち尽くすだけで何も反応しない私に呆れたのか、彼は憤慨の色を薄めないまま大きくため息をついた。


「今日はもう自分の部屋に戻ってくれ。詳しいことは、また明日聞く」


 そう言うと、彼は私の腕を引っ張り部屋の外まで連れ出し、「逃げるなよ」と言いたげに目配せしてから部屋の中へと戻り派手に音を立てて扉を閉めた。

 私が思考するより前に、私の両足は糸が切れたようにその場で崩れ落ちた。私の一時の夢は叶うことなく、冷たい音をたてながらひび割れていく。予想だにしていなかったあの男の強さに、虚しさや悔しさが混沌と入り交じった絶望が静かに胸中に広がる。


 怖い。

 今現在脳内で言語化可能な言葉は、その一つきりだった。私は、すぐ目の前に佇む大きな扉から放たれる圧力から逃れようと、その場を離れた。

 足取りは軽いようで重たかった。どんなに距離が離れても、あの男の部屋の扉に監視するような目付きで見据えられているようなおぞましい心地にまとわりつかれた。

 その時の私は、そのままこの家から逃げる事だって可能だった。けれどそうしなかったのは、既にこちらが獲物として支配されていたからなのかもしれない。


 エドガーという人物に反抗する気力など無に等しかった。何故だかその気が起こってはくれなかった。

 けれども私はその支配されている境遇をひっそりと心の奥で受容しているようにも思えた。この事に関しては、どこまでも自分が他人の事のように思えてならなかったのである。

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