3-4 デートという名の拷問/1
カーヤのことが全く気がかりでないと言えば嘘になる。
ほんの一瞬、幻でも良いからまたあの快楽を味わいたいと切に願ってしまったのは一度や二度ではない。だが生憎私にはそれよりも都合の良さそうな対象と出会ってしまったし、何より私の精神状態が緩和したためか、幻覚を見る狂気さえ失ってしまった。
今となって考えてみると、つい最近までの自分を思い返してみるとその狂人ぶりにかえって笑えてくる。何もかも私に都合の良いように生成された幻覚相手にああも求めていたなどほとほと程度が知れる。
けれどそのような自嘲は私の内側で燻る欲望を鎮静させてはくれず、むしろ日に日に増幅していくというものなのだから、もはや後戻りはできまい。
目覚めはいつにも増して好調だった。おそらく、先日エドガーが口にしていた街へのお出かけが今日だったからだろう。通常の私でならば、そのような無意味な馴れ合いに憂鬱になるだろうが、今回に限っては相手も状況も特殊である。
完全二人きりのお出かけ……いわゆるデートで一気に距離を縮めることができたならば、夜にそういう展開になってもおかしくはない。
何せ下心から異性を無条件で居候させるような野郎だ、本能に流され手を出してくる光景など想像するのは容易い。
そこでなんとしてでも注意しなくてはならないのは、エドガーとの行為を心底楽しんでいる演技を一ミリでも崩してはならないということだ。
もしも彼の気を削いでしまったら、こちらを慰み物として利用しようという魂胆も崩れてしまうかもしれない。そうなれば何らかの都合を言い訳に家から追い出される可能性だってある。
そうなった場合、隠し持っていたピストルで脅そうかとも考え――そこで、脳髄が疼くようにして今まで忘れていた記憶を蘇らせた。
そうだ、あのピストル!
元実家から持ち出してきて、それ以降分かれ道の向こうにある廃墟に置きっぱなしだった。
私は悩んだ。もう一度あの廃墟へ向かえば、カーヤと遭遇してしまうかもしれない。そんなふうに自然と思考する自分を嘲笑するもう一人の私がいた。
「あれ」は極限まで狂ったお前でしか会うことのできないまやかしで、実在する存在なんかではないのに。それをとっくに理解していてもなお、そう思ってしまったのは、本当は存在していて欲しいと願っているから?
哀れな動物を蔑むように囁いてくるもう一人の自分の声に、「私」は気づかないふりを装って、住居の外へ出ようとした。玄関の取手に片手を回した時、後ろから声がした。
「こんな朝早くにどっか行くの?」
今となっては聞き慣れかけてしまっているその声に、気持ち程度に振り返って応答する。
「少し林道を散歩してくる」
「そっか。あんまり遠くまで行かないでよ。今日は出かけるんだから」
「心配しないで、ちゃんとそのことは覚えてるから。単なる気分転換だ」
その言葉を最後に私は外へ出た。
気分転換というのはあながち間違いでもない。私は、後の獲物に不意打ちで声をかけられて緊張していた。
そのストレス反応と未だ心の奥に蔓延る「あれ」への淡い期待を誤魔化すように、鼻歌を歌いながら快調な足取りで廃墟へと向かう。
ようやくここから私のれっきとした人生が始まるのだ。その絶好の機会を従来の人間嫌いが原因でみすみす逃してしまうなど到底許されることではない。
分かれ道を進み視界が開けるにつれて、私は身構えるような心地で眼前の廃墟を見やる。完全に林道から抜けると、首は動かすことなく視線をそこかしこに送ったが、やはり銀色の影は見当たらない。どこか安堵しながら廃墟内へと足を運び、放置されたショルダーバッグのある部屋に向かう。
そして、部屋に入った瞬間、私は呼吸をするのを忘れた。
「――――――」
それは来客の存在に気がつくと、それまで窓を眺めていた頭をこちらに振り向き、目が合うなり嬉しそうに微笑んで口を開いた。
「遅かったね、あんな。もう待ちくたびれちゃうところだったよ」
「――ははっ」
その乾いた笑いはこちらに駆け寄るものに向けられたものではない。
ただ、「まだなのか?」と自分に失笑しただけにすぎない。
未だに自分が狂っている事実はすんなりと納得することができた。いや、やけに腑に落ちてしまう、と表した方がより的確か。
何せ、私の中から狂気が消え去っているという訳ではないのだ。およそ人間社会では禁忌とされる欲望を発散する相手を変えただけなのだから。
「やっぱり、あんなとるーかすはなかよしになれたね」
死に損ないの幻影が何かを言ったが、私はそれに気づかないようにしながら部屋の隅に隠すように置かれたショルダーバッグを手に取った。
少女の姿形をした何かの発した意味不明な発言は、この一室を夢を見ている時のような曖昧模糊な空間とさせた。事実、「あれ」はほとんど夢のような存在であるが故に、その感覚はごく自然のものだったのかもしれない。
「わたし、二人と一緒にいたい。やっぱり、だめ?」
私はもう不必要となった夢の世界から帰還するために、その柔らかい音声にまたも応えることなく部屋を出ようと扉まで歩を進めた。今となっては、あの存在は私を惨めにするだけであった。
くたびれた扉を閉める際、部屋の中から「そうだよね。もうあんなはわたしのこと、嫌いなんだもんね……」という不思議な音が聞こえたような気がしたが、扉が完全に閉まることで白昼夢は消失した。
そしてそのまま帰路に向かう。その胸の中にはほんの僅かに誤魔化しきれない罪悪感が潜んでいた。
先程「あれ」の言っていた言葉が嫌でも脳裏に浮上した。今更になって私は、もう二度と目にすることがないであろう自ら創り出した幻影に対して、まるで言い訳のような謝罪の言葉を心中で吐露する。
そうなんだ。私がさらなる高みへ昇るためにも、君みたいな存在は、私を堕落させるだけで邪魔なんだよ。だからここでもう消えてくれ。
自分の中に強烈に燃えたぎる魂を覚えながら新たなターゲットの待つ住居へと帰還した。玄関の戸を開けると、早速ターゲットの姿が見えた。
入ってすぐ横にある靴置き場の掃除をしているようだった。棚を磨いていたターゲットがこちらに視線をよこすなり、私の体は強張った。
しまった、という焦燥が募る。外に出ていく前の私はショルダーバッグなど持ち出していなかった。中身が中身である故、その点を詮索されるのは非常に厄介である。
「おかえり。……あっ、もしかして落し物、見つかった?」
「え?」
エドガーの発言から一瞬間が空いてからその意味を理解できた。彼はこのショルダーバッグを、先日口にしていた探し物と解釈したらしい。
それは何よりもの好都合だ、と大きな安堵と共にその間違いを肯定した。
「うん。想定通りの場所にあったおかげですぐに戻ってくることができた」
嘘をつくときは真実と嘘を混ぜると良い、というよく聞く言葉をこの時痛く実感した。まさか彼は、この中にある物が何であるかなど想像だにしていないだろう。
ピストル自体は案外簡単に手に入るが、実際に持ち歩いている人間はそう多くない。
それからだいたい二十分くらいしてから私とエドガーは共に家を出て、街へ向かった。予定では本を買いに行くことになっていたが、あちらで昼食も済ませることとなった。
時間帯もちょうど良いことから、まずはイタリアンのレストランで腹を満たした。
私がポルチーニというキノコのソテーを注文すると、エドガーは食い気味に「キノコ、好きなのか!?」と詰問にも感じる問いを投げかけてきた。
私は、意表をつかれるエドガーの驚き様に若干引きながらも、「まあ、うん」とだけ答えた。キノコの食感や味が好きというよりも、キノコの主な生息地である森が好きなので、その忘形見であるキノコを食べると森と一体化したような晴れやかな気分になるのだった。
私がエドガーの大袈裟すぎる反応に居心地の悪さを感じる一方、エドガーは普段な冷静な印象とは打って変わって、嬉しそうに自分の分の料理を注文していた。店員が去ると、ますます私はどうすれば良いかわからなくなった。
なにしろエドガーは、私に話しかけるでもなく、喜びをたたえた笑顔でこちらを見つめるだけなのだ。気味が悪いにも程がある。
これまでの生涯において、間近でこれほどの好意めいた謎の感情を向けられたのは初めてのような気もしたので余計私を狼狽させた。
ただ、その輝く瞳は、眼前の私に向けられているものではないようにも見えた。まるで白昼夢に魅入る世捨て人めいていたのである。
しばらくして料理が運ばれてきた。エドガーの料理に目線を配るなり拍子抜けさせられた。なんと、あれだけ私のキノコチョイスに驚きと喜びを覚えていたくせに、当の本人の料理にはキノコらしき食材が見当たらなかったのである。
「キノコ……好きじゃないの?」
私は残念な気持ちからそう尋ねた。哀れにも、お互いの立場が先程と逆転していることにまではこの時気が付かなかった。オーバーリアクションの末の壮絶な裏切りに対する煮えたぎる感情が存在していたからだ。
私は前後の言動に一貫性のない人間が大嫌いな性分故に余計エドガーに対する怒りが生じてしまったのだろう。そのためエドガーの返答もほとんど耳に入ってこなかった。
「キノコという存在は好きだけど、食べるとなると少し違うんだよ。知ってるかい? キノコって、絵として描く場合は破格の描きやすさを誇るんだ。なにしろ、輪郭がはっきりしていて陰影がつけやすいからね。結構脳のトレーニングにもなるんだよ。もしあんまりキノコを描いたことがないなら是非ともおすすめするよ。何なら家に帰ったら僕が簡単に教えてあげよう! ……と、ごめん、話が脱線してしまったね。要するに、僕が好きなキノコは食べるためのキノコではなく、その形状なんだ」
「ふーん」
これまで以上に饒舌になる目の前のキノコマニアに、より一層軽蔑の念が募った。
まさかキノコでここまで興奮できる人間がこの世に存在するとは思いもよらなかったのだ。
それからも度々向こうから何かしらの話題を振ってきたので、適当に相槌を打って場を凌いだ。あれから一方通行なキノコ語りが一度も発生しなかったことは不幸中の幸いと言えるだろう。
レストランを後にした私とキノコマニアは、石畳の連なる大通りを歩き、キノコマニアの提案通り旧市街へと向かった。
予想通り旧市街は人で賑わっていた。大量の人、人、人……そう認識しただけで吐き気が込み上げてくる。なるべく周囲を見ないよう私は俯きがちに歩いた。
それがいけなかったのだろう、誰かと肩が衝突してしまった。私は何気なく相手の方を見やった。
向こうも直感に駆られたように、こちらにちらと視線をやった。その碧眼は私の全身に電流を流すには事足りる力を持っていた。




