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亡き乙女の空に羽ばたく為に  作者: 一色空
第3歌 安息の日々
26/35

3-2 対面

「くるな……」


 私の固く強ばった唇から、呻きに近い牽制の声が漏れた。


「こっちへくるな……」


 今の私にはそう拒絶する言葉を口にすることしかかなわない。それでも、ろくに働かない頭であろうとも圧倒的な不利な状況であることは理解できていた。

まるで懇願するかのように、相手に対して何かを訴えかけるように、私の両手は芝生を強く握りしめる。


「もういやだ……」


 私は、腹の底から這い上がって出てきた、消え入りそうな自分の声に、なんとも言えない惨めさを覚えられずにはいられなかった。

 もう限界だ。これ以上苦しむのならば、いっそのことこの場で全てを終わらせて欲しかった。これまで幾度となく夢見た虚無への案内人が自分自身でないことへの不満など、持ち合わせる余裕さえ今の私にはなかった。

 そんな私の背中を優しくさする手があった。正確に言えば、私はそれをこの目で確認した訳では無い。蹲り丸まった私の背中がそういった感触を覚えたのだ。

 私は恐る恐る頭を上げ、目の前にいるであろう人間を見た。若い男が、しゃがんで私の背中に腕を伸ばしていた。彼の表情は、まるで私を心配しているかのような、どこか悲しそうで、それでいて何をも跳ね返しそうな程神妙な色を帯びているように映った。

 私は真っ白な頭で何も言葉にできないまま、震える体を芝生に置いておくことしかできないでいた。それでも彼は嫌そうなそぶり一つせずに、体の震えが収まるまでそっと私の背中に片手を置いてくれていた。


「ごめんね。君の断りなく勝手に僕の家に連れてきてしまって。でも、そうでもしなければ、君はあのまま死んでしまいそうだったんだ」


 青年は、よく見ると鳶色の艶かな髪色をしていた。それが彼の背後にそびえる陽の光に照らされて、柔らかい明かりを生み出している。


「覚えているかな、君は一昨日、川に自ら転落したんだ。無事助けられたけど、水浸しで風邪をひきそうだったし、何より心ここに在らずって感じで虚ろだった。そしてちょうどそこから僕の家が近かったから連れてきて、服だけ着替えるよう言ったんだ。……ここまでは、覚えてるかな?」


 青年は、改めて問うた。


「……あ……」


 そうだ、川に身を投げたような記憶がうっすらとだけ残っている。けれど逆に、それ以降は全て覚えていない。おそらくそれからは完全に乖離状態だったのだろう。

 あの日私は、図書館で浜辺に関する記憶を探ろうと必死になっていた。そうすることで、自分に空いている穴の正体へのヒントが見つかるかもしれない、そんな半ば使命感に駆られて、できもしないことをやり遂げようと自分自身に多大な負荷をかけてしまった。

 おそらくはそのストレスが、それまで精神の牢獄に蓄積されていた膨大な疲労と絶望を、釈放させてしまったのではないか――。


「……川に落ちたことは覚えてる。でも、それ以外は何も覚えてない」


 次いで、私は両腕で微かに震えはじめる自分自身を抱きながら、彼に迫った。


「それで、私は実際に、自分で着替えたのか」


 青年の表情の微々たる変化にも気づけるよう、全神経を彼の表情観察に集中させた。少しでも怪しい素振りを見せた暁には、どうしてやろうか、どうするべきか、気づけばそんな思考が脳内でうねり、低下していく集中力を何とか目前の男に注ぎ込む。


「うん。僕が替えの服を差し出すと、それを持っておぼつかない足取りながらも別室に入っていったよ。でも、そのまま数十分経っても戻ってこなかったから、部屋の扉を叩いて呼んだんだ。それでも返事がなかったから、その、申し訳なく思いながらも安否確認として部屋に入ってみたんだ。そうしたら、着替え終わった君はその場で眠っていた。……それで、えーと」


 青年は、ふいに言葉を詰まらせた。

 様子を見るに、青年が嘘をついているような仕草は感じ取れない。人は嘘をついたり緊張したりすると途端に瞬きの回数が多くなったり、目が泳ぐなど、わかりやすい特徴があるが、今の彼にそのようなものは一切見られなかった。

 手強い青年の仮面にこめかみがひりつくのを感じながら、続いて私は青年に質問する。


「……下着。私の下着はそこにあったの?」


 青年は、途端にそれまで以上の真剣な表情になった。怪しさは感じなくとも、異様な雰囲気が彼を包み始めたような気がした。


「もちろんその場に脱ぎ捨ててあったよ。――やっぱり、そうだよね。君が僕に不信感を覚えたり自分の身の安否が気になるのも無理は無い。けれど断言する。僕は一切君に野蛮な行為は行っていないよ。下着は、すぐに回収して洗濯機に入れたもの。その前に、眠った君を僕の自室のベッドに運んだ。……これがこれまでの成り行きだよ、信じて貰えるかな?」


 青年は、ひたすらにとつとつと語った。まるで彼の方が下の立場に置かれているように、これまでの道程と自分の信頼性を訴えるかのように真剣に弁明した。

 だが私はそのような巧妙な偽装に騙される程愚かな人間ではないと自負している。人間という生き物は嘘が上手。誰もが騙されると思ったら大間違いだ、と内心で蔑みながら返答する。

 もちろん、こちらも相手を真似て、警戒心のない風を装い力無く目線を下にやった。


「……そうだったの。ごめんなさい、最近疲労感がすごくて、ほとんど思い出せない。とにかく、助けてくれてありがとうございました」


 私は、ほんの僅かにぺこりと頭を下げた。演技をしようとしたところで、体が衰弱しきっていて嫌でもそうなってしまうのだ。

 それから青年は私の手を取り、朝食のために家の中へ戻った。青年の後を追う最中、私の体は見知った光景を目にして氷のように固まった。住居の手前まで歩き、ようやく気がついた。

 なんと、今まで自分が隔離されていた部屋は、隠れ家へ向かう際に現れる別れ道を直進した奥に存在する、いつかのアレが違和感を覚えるまでにこだわっていた建物の一室だったのである。

 そして疑問が生じた。

 このようなお屋敷に住めるような人間が、誘拐してまでなぜ慰安婦を求めているのか。このような立派な建物の住民であるならば、相当な金持ちに違いない。そして女は金を持った男を求める。

 その上この青年は顔の造形は整っている方だ。ならば女なんて選び放題、遊び放題なのではないか。それともこれらは私の単なる偏見に過ぎないのか――。


 私が玄関付近で立ち止まっていると、それを察した青年がこちらを振り返った。演技だとは思えないまでに自然な、その不思議そうに心配する表情が、不気味なまでに私の心臓に大きく映った。「どうした? 歩くのが辛いならおぶって行こうか?」青年はごく普通にそう言い放った。

 その言葉を脳が認識した瞬間、なぜだか胸の中で妙な強い感情が急激に湧き上がってきて、それが締め上げるように私の内側を傷ませるものだから涙が溢れ出そうな感覚に陥った。

次いで私が感じたのは鮮烈な恐怖だった。こじ開けてはいけない扉が自然とほんの僅かに外の空気を取りこもうとした。それをなんとしてでも阻止しなければなかった。

 私は、しばらく間を置いてから「平気、少しだけ考え事をしていただけ」と返答し、案ずるように近づいてくる青年の助けを借りることなく家の中へ入った。


 その時から、居間のダイニングテーブルに腰かけるまで、私の足取りは頼りなくふらついていた。

 青年はその間黙って私の少し後ろを着いてきた。見張られているような息苦しさの中にいるはずなのに、どこか懐かしい心地よさを同時に覚えていた。

 居間は案外質素だった。促されるままにダイニングテーブルに腰掛けると、青年はすぐにゆで卵を出してくれた。私は、自分の目の前に置かれたゆで卵を、まるで知らない食べ物を見るような心地で眺めた。

 一向にゆで卵に手を伸ばさない私に向かって、青年はまたもや心配そうに――本当にそうであるかのように、案ずる言葉をかけた。


「もしかして食欲無い感じ? それでも何か食べなくちゃ健康に良くないよ」


 青年は当たり前のように向かいに座った。

 その時、確かに私は彼を拒絶できた筈だった。それでもそうしなかったのは、身体のどこからか溢れてくる変なものに取り憑かれていたからなのだろう。

 私は黙って彼に従った。一言も発することなく朝食を済ませると、静寂が訪れることなど許さないとばかりに青年が口を開いた。


「ベッドの横のデスクに一応メモ書き置いてたんだけど」


 青年の口にしたメモとやらは記憶にない。なにしろ、目が覚めたらいきなり知らない人間の部屋で横になっていたのだ。混乱のあまりそんなものに気を配る余裕などあるはずがないだろう。

 私は、ただ首を小さく横に振る。すると、その反応は想定済みであったかのように次の質問ははやかった。


「これから君はどうするつもり?」


 すごく短い問だった。

 私は彼の質問に沈黙で応える。正確に言えば、何も答えることができなかったのである。彼は間違いなく私を利用しようとしている――そう考えきっていたからこそ、こちらの意思を聞かれたことに意表をつかれた。

 そしてますます青年のことが分からなくなった。もしここで私が帰る、とでも答えたら、彼はいったいどのような行動に出るのだろうか、と底知れない恐怖が襲う。

 先程の問いかけは鎌掛けであるとなると、やはり暴力を使ってでも阻止するのだろうか。私の頭はこんがらがって、空になった皿をぼんやりと見つめることしかできないでいた。

 青年はそんな私をただただ見ていた。どうやら私の口から何か発せられるのを待っているようだ。その瞳にはいつかしょっちゅう目にしたことのあるような優しさが浮かんでいるようにも思えた。

 その優しさの正体は見えていない筈なのに、酷く私の内側を恐怖で満たした。私は、なぜか、目の前の男にかなわないと畏怖めいたものを覚えて、混乱した。


「……家出……家出、してきた」


 私は、青年の優しい気迫に打ち負け、半ば白状めいた言葉で応答した。

 それに対し、青年はあまりにも都合の良すぎる提案を口にした。


「君が嫌じゃなかったら、ここ使っていいよ。一人で住むには広すぎてね、ちょうど空き部屋が何室もあるんだ」


 とんでもない内容に反してあんまりすぎる程にあっさりとした口調に、一瞬何を言われたか理解が追いつかなかった。私は、思わず頭を上げて青年を見やった。


「もちろん、食事とか服とかの生活費もこっちが用意するから気にしないでいい。金だけは大量にあるんだ」

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