2-5 罪との再会
今日の空は雲量が少なく、爽やかな秋風が吹いていた。私は今、旧市街地の散策中だった。これは気分転換も兼ねている。
先程図書館にて目を通した朝刊。それには、またもあの事件の記載がなかった。ここまでくると安心よりも先に疑問が生じる。だが、その疑問について思考を巡らせても気分が滅入るだけだった。そのような気味の悪さを払拭する為に、今こうして外の新鮮な空気を全身に浴びている。
街道に近づくにつれ何やら騒がしくなってきたかと思うと、どうやら今日は音楽祭が開催されているらしい。街中の至る所から音楽祭と書かれた旗が突き出ていた。
そういえばもうそんな時期だった。まだ物覚え着いたばかりの頃に母親と誰かと一緒に来たような――? いや、そんなことはなかった。私の頭は、何故かそう即座に判断し、正常な過去を回顧する。
今は亡き母親と来た覚えがある。といっても、あまりの騒音に鼓膜がどうにかなりそうだったことしか覚えていない。他に行くあてもなかった私は、少し離れた場所から聞こえる優雅でいて荘厳な旋律に耳を傾けることに決め、付近のテント下のテーブル椅子に腰を据えた。
本会場は市庁舎前の広場となっているが、間近であの大きな音を味わうのは鼓膜に悪そうだと思ってのことだった。
音楽に聞き入ること数分、すぐ隣のテントにおしゃべりな女軍団がやってきた。喋り声のうるさいことかなわなず、軽く睨んでやるも、向こうはこちらの存在にさえ気がついていない様子だった。それのせいでさらに腸が煮えくり返りそうになる。
「でさー、店長が腹立つったらないの! あのケチな性格治らないもんかね〜」
「いやいやいや、あれは矯正不可能なやつだって」
先程からやむことの無い品のない笑い声が腹の中の燻りを悪化させる。音楽鑑賞ではなくくだらない雑談が目的ならばどこか別の場所で延々とくっちゃべっていろ! ……そんなふうに心の中で声を荒らげる刹那、そのうちの一人が怪訝そうな声を出した。
「ねぇ、何あれ。恐喝ってやつ?」
他の者がそれに対し応答する。
「こんなお祭りの日にやだねー。どうして近くの人誰も助けてあげないんだろ」
そんなに言うならばお前が助けてやればどうだ、口先だけのろくでなしめ……。私は、女たちの視線の方へなんとなしに目をやった。
すると確かに恐喝らしき現場が視界に入った。二人の男がそいつらとそう歳の変わらなそうな一人の男に詰め寄っている。そして一人の女がそれを見張るかのようにカツアゲ犯のすぐ背後に腕を組んで立っていた。
私は思わずテントの外へ出て、片手で日差しを遮りながら、その女が良く見えるところまで歩を進めていった。女の横顔が鮮明に見えるようになると、的中した予感に胸がぞわりと緊張を訴えた。
思わず眺めたくなるまでに美しいブロンドの髪に退屈そうに細められた碧眼。数年前と変わらず肩の上らへんまで伸びた厚めの髪に、どことなく近寄り難い雰囲気。
間違いない。過去に故郷の街中の噴水広場で喧嘩をしたあの自己中な少女だ。どうやら残念なことに、未だ彼女の傲慢さは健在らしい。
私は、野次馬を装うふうに、奴らの会話が耳に届く距離まで詰め寄っていった。なぜ自分がそのような行動に出たのか判然としないが、おそらくは、素朴で無害そうな男が犠牲になるよりも生きた心地のしない自分が身代わりになってやった方が理にかなっている、そんな納得感からのことだろうと思う。
いいから金を寄越せと二匹のオスが吠えている。まさに絵に描いたような恐喝犯の言動はこの上なく滑稽で、幸いにも緊張を和らげてくれた。被害に遭っている男は、うちは裕福じゃないんだ、だから見逃してくれ、と必死に懇願していた。
「見逃してくれだァ? テメェ、ホルテに何しやがったかもう忘れたのか、えぇ?」
「その償いを金だけで済ましてやるって言ってんだぞこっちは。それとも目が腫れるくらいに殴られた方がマシってのか!」
被害者の男は犬どもの汚い怒声にさらに怖気付き、一言も発せないまま僅かに一歩後退した。金髪の女は、それに割って入ることも無く依然として退屈そうに視線を虚空にやっている。それは、今日の夕飯はいったい何だろう、そんな変哲もないことを考えているような自然さだった。
私が連中に接近すると、犬どもは被害者の男に向けていた鋭い瞳をこちらへ向け、怪訝そうに眉をしかめ、吠えることしか脳のないことを示すかのように叫んだ。
「なんだァテメェ、まさかこいつを助けに来たとかじゃあねぇよなぁ? そうじゃないんならちんちくりんは引っ込んでろ!」
「待て待てロバーツ、もし上手くいけばこいつからも巻き上げられるかもしんねぇぞ」
もう片方の犬が吠えた犬に小声で耳打ちしたが、あいにくこちらの耳に届いている。
その腐った提案に何やら納得したらしい威勢のいい犬は、指の間接の音を鳴らし威嚇しながら私の方へ向き直った。脅そうとしているのだろうが、先程から言動や仕草がいちいち小物臭い為に、不快感を与えるには合格点だが威圧感で押し通そうとする算段は不合格といったところだ。やたら格好つけたがる犬が大きな口を開き、何かを言おうとしたところで、それまで沈黙を貫いていた金髪が初めて声を上げた。
「ちょっと待って」
彼女が制止を促すと、既に飼い慣らされた犬どもは素直に主人の命令に従い、威圧体制を辞めて彼女の方へ向き直った。
「いきなりどうしたんだよ」
つい先程まで眼光を鋭く尖らせていた男は、表情を緩め不思議そうに金髪へ尋ねた。
「いいから、あんた達はどっか離れてて。私はこの女にちょっと用があるの」
思わず心臓が跳ねた。もしや彼女は、幼い時に会った私の顔を覚えているのだろうか。そのような可能性を考えてもいなかった私は、その発言に少し恐縮した。
男たちは、やや不服そうにこの場から立ち去った。気づけば、恐喝のターゲットだった男の姿も消えていた。おそらくはタイミングを見計らって逃げたのだろう。私の行動は無駄ではなかったことが証明されると満足から僅かに心が揺れた。
しかしそれもつかの間、目の前を向き直ると、そこには穴が空くんじゃないかという程、まじまじと私の顔に目を光らせる金髪の女がいるではないか。しかも、皮肉にも彼女の澄んだ碧眼はあの頃から微塵も濁っておらず、その瞳の向こうには無限に広がる海があるようにも思えた。
私は、居心地の悪さに耐えながらも、視線を彼女の胸元にやりながら向こうから口を開くのをただひたすら待った。彼女は、機械のメンテナンスが無事終了したような納得げな様子で、私の目を見た。
「あんたって隣のド田舎の町に住んでた、アンナ? みたいな名前のやつよね。合ってる?」
「……そうだけど、それがどうかしたの?」
私は至って平静を装って返答した。
彼女は、自分の推測が合っていることが分かると、案の定意地悪そうな笑みを浮かべた。
「私ね、未だに覚えてるのよ。昔あの町の噴水広場であんたに引っ掻かれたこと。あの時のあんたときたら、随分と気持ちのこもってない謝り方だったけど、さっきのことを考えると、どうやら今は違うみたいね」
「いつも平気であんなことをしてるの?」
長苦しい金髪の台詞がようやく終わると、今度はこちらから問いを投げかけた。その私の声には、怒りと疑問の色が入り交じっていた。それに対し金髪は、なんだそんなこと、と冷たく呟いてから視線を私の目線より斜め下にやり、再び口を開いた。
「あれはアイツらが勝手にやってんの。私がいくらとめたところで、そんなん甘すぎる、って言って聞かないの。ちなみに、さっきのやつは運悪く私の肩とぶつかっちゃって、あいつらに目をつけられたってところね。毎回ターゲットにされんのは、大なり小なりそういうヘマをやらかしたやつらよ。まぁ、同情しないこともないけど、正直、私が庇う程の人間でもないし」
ご丁寧にも、彼女は細かく事情を説明してくれた。
「でもあいつらはあんたの連れでしょ。ならもう少しちゃんと注意した方がいい」
「何よ、あんたって想像以上の常識人だったのね。やっぱり人って変わるのね。それとも、あの日が例外で元からそんなに正義感が強かったのか。とにかく、私はなるべく面倒事を起こしたくないし、それはもちろんあんたもそうでしょ」
「さっきから何が言いたいのかよく分からない」
「……分かったわ。仕方ないから、もう本題に移ってあげる」
彼女は肩まで伸びた明るいブロンドの髪をわざとらしく片手でかきあげてから、ブラウスの裾をまくり、そこにあるものを――残ったものを――こちらへ掲げてきた。
「あれからもうずっと残ってるの。誰の仕業か、まさか覚えてない程脳みそ小さくないわよね」
私の視線はそれに釘付けになり、しばらくの間呼吸を忘れていた。彼女の白く細い腕に無惨にも走った二本の引っ掻き傷。それは間違いなく過去に激情に駆られた私がやったものである。
なんと言えば良いのか分からぬまま、彼女の声だけが私の中に入ってくる。
「ねぇ、覚えてるでしょ?」
彼女は、まるで獲物を狩る獣のように美しい瞳の奥をギラつかせてそう問いかけてきた。私は、その威圧感に押し負けて何も言えなかった。いつ向こうから弾丸が飛んでくるか分からない、そんな緊張感が漂っていた。
そんな重苦しい空気の中、私は少しでも相手の強力な武器の威力を下げようと、それと同時に悔恨の念を確かに忍ばせながら、謝罪の言葉を放つ。
「……あの時は、悪かった」
恐る恐る金髪の顔を見やる。すると彼女の表情には、嘲りの色が浮かんでいた。
「はは、これを見せられて今さらそんなふうに謝るの? あんたって面白いのね」
金髪は、美しい顔を私の顔へ近づけ、後戻りはできないことを思い知らせるように私の括られた髪の片方を掴み、当然と言えば当然の、けれど罪に染まりきった私の心臓を弱らせるには十分な威力を持つ言葉を放った。
「今日のところはこっちもこっちだったからお互い様ってことで。でも、次こそ逃がさないわ。この意味、分かるよね?」
そう言い放つと、金髪はそれまで近づけていた顔を退け、逃げるのを防ぐように髪を掴んでいた片手を放す。そして以降何も言わずに私の真横を通り過ぎ去っていった。おそらくは連れの男どものところへと向かったのだろう。
彼女に傷を見せつけられてから私の中では雷鳴が荒れ狂っていた。昔、彼女の腕から流れた血液を舐め取った瞬間に覚えた、熱い生の感覚が息を吹き返しそうになり、そしてそれはこれまで犯した罪の源であるということを痛烈に植え付けられて。
数年越しの噴水広場の少女との予期せぬ再会は案の定最悪な顛末だった。それからは、耳に届いてくる音楽も色を失っていった。やはり脳内を占領するのは、先程見せつけられた、二本の線。何としてでも、私は自身の異端な性質と犯した罪を隠し通さなければならない――。
私は、陽の当たる場所にいる事が急に恐ろしくなり、誰にも発見されないような薄暗い場所へと戻る事にした。
重い足取りで廃屋に戻ると、既にカーヤが帰ってきていた。どこへ行っていたのかはあえて聞かないことにした。あまり彼女の自我を感じ取りたくなかったのである。だがそんな卑怯な私の魂胆も、すぐさま崩れ落ちることとなる。カーヤは小型のカレンダーをめくりながらそれを幸福で満ちた笑顔で見つめていた。
私の所有物にそういったものは存在しない。ならば彼女はそれを、いったいどこで手に入れたというのか。まさか自分で購入した訳ではあるまい。彼女が貨幣を所持しているとは、到底思えないし、本人からもそういったことは聞いていない。
それになんといったってカーヤは私にしか見えない幻だ。私から貰う以外にどうやってそれを手に入れる? 逸る心音と共に、それはいったいどこで手に入れたのか、と問いただしたい焦りにも似た気持ちが溢れかえる。
それでも私は口を噤んだ。やはり、もしもカーヤの口から自分の期待とは違った答えが発せられたらと思うと、いやそんなことは絶対に有り得ないのだが、どうしても、彼女の神秘を死守していたくなるのだった。
私の帰還に気がついたカーヤは、カレンダーから私へと視線を移し、それまでと同様の満面の笑みでおかえり、と挨拶してくれた。それだけでいくらか救われた気分になった。
私は少し遅れてただいま、と返事をした。カーヤは、カレンダーをその場に置き、こちらへやってくるなり期待に満ちた瞳で見あげた。
「ねぇ、今日もあの気持ちのいいことやるの?」
私は言葉に詰まる。そして間を開けてから、重苦しく言葉を零した。
「ごめん。今日はそういう気分じゃないんだ。今日色々あって少し疲れちゃってね。カーヤには悪いけど、今晩はもう寝かせてもらうよ」
まるでカーヤを思いやるような芝居じみた返答に、カーヤは、「そっか。なら仕方ないね。おやすみなさい、あんな」と、変わらず純な瞳で、就寝の挨拶を口にした。
それから私は直ぐに寝床へ入った。その時、私は馬鹿みたいに見落としていた真実に気がつく。あのカレンダーは道端で拾ったんだろう。そうだ、それ以外にないではないか。なぜそのような単純な真実に意識が向かわなかったのか……。
どうやら、私は自分で思っている以上に疲れていたらしい。安堵を胸に瞳を閉じると、広がる暗闇の向こうには、昼近くに遭遇した金髪が不気味な笑みを浮かべこちらを見据えている。それを空想の巨大な足で踏み潰し、心に浮かんだゴミを粉砕してやった。
それを何度も繰り返したところでようやく睡魔が訪れた。




